artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

白髪一雄

会期:2020/01/11~2020/03/22

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

足で描いた絵(フット・ペインティング)ばっかり見せられるのもツライなあ、でも商売柄いちおう見とこう程度の気分で見たら、意外とおもしろかった。どこがおもしろかったかというと、やっぱり足で描いた絵が大半を占めるため(それ以外の作品もある)、ワンパターンに陥らないようにいろいろ工夫した跡が見て取れることだ。

1924年生まれの白髪の画家としての出発点は、戦後まもない時期。最初はシュルレアリスム風に始まり、ほどなく抽象絵画に移行し、スキージやナイフによる偶然の効果を採り入れた表現主義に行きつく。1955年に具体美術協会に参加するころ、偶然の効果を強調するため足で描くスタイルを編み出す。これは前衛集団の具体のなかでも強烈なインパクトを残した。たぶん、あまりにバカバカしくてだれも試みなかっただろうし、だれも真似しなかっただろう。以後、白髪といえばフット・ペインティングというくらいトレードマークになっていく。

しかしトレードマークを確立するのはいいが、それを何年も続けていくと次第にマンネリ化し、飽きられてしまうのも事実。白髪はこれを10年ほど続けるが、その間、色合いを変えたり、足の動きを制御してみたり、キャンバスでなく毛皮に描いてみたり、いろいろ試したようだ。それでも60年代なかばにはフット・ペインティングをいったん封印し、スキージを使って円弧を描くように作画した作品を発表。だが、具体が解散する1972年ごろからこれにも限界を感じ始め、70年代末には再び足で描くようになり、晩年まで続けていく。出品作品を年代別に見ると、40年代が2点、50年代が20点、60年代が19点、70年代が11点、80年代以降が7点で、重要作品が初期の50-60年代に集中していることがわかる。

作品そのものに注目すると、フット・ペインティングはたしかに個性的でダイナミックだが、絵としてはキャンバス地に絵具を伸ばしただけ、いいかえれば地の上に図を載せただけともいえる。それに対して後のスキージを使った作品は、見た目のインパクトでは劣るものの、地塗りを施した上に絵具を載せ、ときに地の色と混じり合って地と図が浸透し合い、絵画空間としてはより複層的に見える。それでもフット・ペインティングに回帰したのは、いったん定着した白髪イコール「足で描く人」のトレードマークを捨てきれなかったからだろうか。まあフット・ペインティングが売れ始めたから、という理由もあったかもしれないが、画家としてはどうなんだろうと考えてしまった。

2020/02/04(火)(村田真)

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太陽の塔

太陽の塔[大阪府]

大阪日帰りの旅。あべのハルカスの「カラヴァッジョ展」が目的だが、ついでに(というには反対方向にある)太陽の塔を見に行ったら、予約なしでも内部を見られるというので入ってみた。万博が開かれた当時、関西に住んでいたので3回も足を運んだけど、ものすごく混んでて塔のなかには入れなかったからな。これはラッキー!

いまでこそ太陽の塔は広大な万博記念公園にポツンとぼっちしているが、当時はお祭り広場を覆う丹下健三設計の大屋根をぶち抜くようにオッ建っていた。それだけでなく、広場の地下展示場からエスカレーターで塔内を昇り、大屋根に抜ける「テーマ館」の展示施設および通路の役割も担っていたのだ。内部には高さ41メートルの「生命の樹」がそびえ、アメーバから人類まで進化の過程をエスカレーターに乗りながら見る仕掛けだったという。万博終了後はほかのパビリオンと同じくこの塔も撤去される予定だったが、なぜか塔だけが残され、以後半世紀近く放置されていた。

それが公開に向けて動き出すのは比較的最近のこと。2016年から塔の耐震補強工事と展示物の再生工事が行なわれ、2018年から予約制の一般公開が始まった。塔の裏から入り、「地底の太陽」(オリジナルは行方不明のため復元された)を拝んで塔の内部へ入場。エスカレーターは取り払われているので、階段を上りながら生命の樹に貼り付いている生物を進化順に見ていく。なんとなく半世紀前の時代を感じさせるのは、全体の色彩や照明がサイケ調で、アメーバや太陽虫や原始的な魚類の姿がウルトラマンに出てきそうな怪獣っぽくて、ティラノザウルスに似たトラコドン(カモノハシ恐竜)がゴジラみたいに立ち姿だからだ。あの時代、円谷プロの影響が相当なものだったことがうかがえる。

生命の樹のてっぺんはチンパンジーからネアンデルタール人を経て、腰蓑姿のクロマニヨン人(これも時代を感じさせる)で終わっていて、現代人は展示されていない。たぶんこれを見に来た観客本人が「現代人」ということだろう。大屋根に続いていた腕(羽根? ひれ?)の部分のエスカレーターも取り除かれ、鉄骨構造がむき出しになっている。帰りは裏口から狭い階段を下りるだけで素っ気ない。いやーそれにしても「カラヴァッジョ展」よりおもしろかったなあ。比べるもんでもないけど。



[筆者撮影]


2020/01/31(金)(村田真)

香港の不自由展

会期:2020/01/27~2021/02/15

ギャラリーQ[東京都]

昨年、世界を騒がせた香港の民主化デモも、今年に入って新型コロナウイルス騒動でめっきり報道されなくなってしまったが、別に終息したわけではない。最近は、感染拡大を招いた中国政府を批判する学者たちが当局によって拘束されているが、それに対する抗議デモが起こっているという。しかしデモに加わってスクラムでも組もうものなら、すぐに感染しちゃいそうだ。そうか、新型ウイルスは香港のデモを鎮静化するために当局が開発した生物兵器だったのかもしれない。ウソです。

ギャラリーQでは、香港のデモの経過を時系列に沿って紹介しつつ、デモ参加者による絵画、彫刻、ポスターなどを展示している。目玉は、ヘルメットを被り、ガスマスクをつけた民主主義を象徴する頭像。白ヘルを被って出てきたノリのいいギャラリーオーナー、上田雄三氏によると、これは香港の学生たちが制作し、山の上まで運んで据えつけたものの、当局によってすぐに破壊された全身像の頭部だそうだ。その一部始終を映像でも見せている。ほかにもドラクロワやマグリットのパロディなど、複製ながら興味深い「革命画」が並んでいる。



[筆者撮影]


2020/01/30(木)(村田真)

開館記念展 見えてくる光景 コレクションの現在地

会期:2020/01/18~2020/03/31

アーティゾン美術館[東京都]

休館していたブリヂストン美術館が「アーティゾン美術館」に名前を変え、展示スペースも一新して再出発した。「アーティゾン」とは「アート」と「ホライゾン(地平)」をつなげた造語だが、こういう「アート+なんとか」って発想はオヤジっぽくてダサいなあ。あ、BankARTも似たようなもんか。でも、あえてブリヂストンという母体の企業名を排して「アート」を強調したのは、ブリヂストンの企業戦略かもしれない。

旧美術館は戦後まもない時期、本社ビルの建設中に石橋正二郎がニューヨークを視察したとき、MoMAに感銘を受けて急遽ビル内に美術館を入れたというエピソードを読んだことがある。そのため外観からは美術館があることがわからず、天井高も展示空間としては低いのが難点だった。つまりブリヂストン社内の美術館だったのだ。それが、ビルの建て替えで中央通に大きく新美術館のエントランスを構えて新社屋の「顔」とし、その背後に本社機能を据え、ビルの名も「ミュージアムタワー京橋」と称することで、企業よりも美術館を前面に押し出したってわけ。最近流行の「ビジネスに役立つアート」を実践したかたちだ。

美術館は23階建てビルの低層階に位置し、面積は約2倍に増床。1階の広々とした吹き抜けのエントランスを入り、3階で受付を済ませて6階から4階まで3フロアにおよぶ展示室を見ていく。4階の一部は吹き抜けになっていて、5階から見下ろすことができる。2階にはミュージアムショップ、1階にはカフェも完備。これなら気軽に立ち寄りたいところだが、残念ながらチケットは日時指定の予約制なので、気が向いたときに立ち寄れるわけではない。

開館記念展は「見えてくる光景 コレクションの現在地」で、2800点ものコレクションから選りすぐった約200点を、「アートをひろげる」「アートをさぐる」の2部に分けて公開。第1部は、セザンヌ《サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》、ルノワール《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》といったおなじみの印象派絵画に始まり、フォーヴィスム、キュビスム、アンフォルメル、抽象表現主義、具体、草間彌生あたりまでほぼ時代順に並べている。印象的だったのは、ピカソの《腕を組んですわるサルタンバンク》とマティスの《縞ジャケット》のあいだに、関根正二の《子供》が置かれていたこと。いずれも100年ほど前に描かれた人物像で、ピカソとマティスはさらりと描いているのに、関根は色彩こそ明るいけどなにかどんよりと重苦しい空気が覆っている。ピカソとマティスはともに40代の脂ののった時期だが、関根はその半分にも満たない年齢だったことを思うと感慨深い。

第2部は、さらに「装飾」「古典」「原始」「異界」「聖俗」「記録」「幸福」に分け、シュメールやエジプトの彫刻から、明の景徳鎮、江戸期の洛中洛外図屏風、レンブラント、モロー、ゴーガン、青木繁、岸田劉生、そしてアボリジニのエミリー・カーメ・イングワリィまで幅広く紹介している。余計なお世話だけど、国公立の総合美術館じゃないんだから、時代やジャンルをもう少し絞ってコレクションしたほうが色をはっきり打ち出せるんじゃない?

2020/01/30(木)(村田真)

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art trip vol.3 in number, new world/四海の数

会期:2019/12/07~2020/02/09

芦屋市立美術博物館[兵庫県]

芦屋市立美術博物館の所蔵品とともに、現代美術作家の作品を紹介する企画「art trip」。前回のvol.2より、出品作家がそれぞれの関心や展覧会テーマに基づいて所蔵品を選び、自作と並置あるいは作品内に取り込む展示形態が採られている。vol.3となる今回は、「数」というテーマを設定。「コレクションとの競演」という要素に加え、「数」「数字」「時間」といったテーマが絡む、複層的なレイヤーをはらんだ展示構造だ。

「コレクションとの競演」の点でそれぞれ興味深いのが、津田道子、久門剛史、中村裕太。津田のインスタレーション《あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。》では、平行、斜め、直交など異なる角度で吊られた9つの黒いフレームが林立する空間内を鑑賞者が歩き回る。フレームの内側は、鏡、スクリーン、何もない空になっており、自身の鏡像、仕掛けられたカメラがリアルタイムで捉えた映像、透過された向こう側、さらにそれらが鏡に映り込んだ光景が見え、二重、三重の入れ子状態が出現する迷宮的構造を見る者はさ迷う。



津田道子《あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。》(2016/2019) [撮影:表恒匡]

視線の主体である唯一の「私」は、鏡の反映、カメラの視線、フレーム=(他者の)視線の多重的な配置によって、鏡の乱反射のように解体・複数化される。タイトル中の「あなた」「私」といった人称代名詞や「翌日」「そこ」といった指示代名詞すなわちシフターは、指し示す中身が文脈によって無数に代替可能な「空白地帯」であることを示す。本展では、この不在と実在、視線の迷宮的構造のなかに、津田が選んだ菅井汲の「建築シリーズ」9点が映り込み、角度によって見え隠れする。より興味深いのは、同じく津田が選んだ白髪一雄と村上三郎のダイナミックな抽象絵画について、身体的ストロークの軌跡を分析・図解した「動きのスコア」だ。「(鑑賞者/画家の)身体運動の軌跡による構築物」として「作品」を捉えるあり方は津田作品と通底するが、A4の紙に印刷したものが会場配布されるに留まり、より踏み込んだ自作との呼応や新たな創造にまで至らなかった点が惜しまれる。

また、久門剛史は、吹き荒れる暴風雨のようなノイズと激しい雷鳴のようにライトが明滅するインスタレーション空間のただなかに、田中敦子の絵画を設置し、より物理的な干渉を試みた。傍らには、呼吸のように瞬きを繰り返す電球の集合体と、円を描いて床を這い回る電線が設置され、電球と電気回路を抽象化した田中作品を形態的に模倣、反復、立体化する。激しい音と光による暴力的なまでの干渉は、田中作品の(美術館であるべき)静的な鑑賞を妨げる一方で、文字通り「明滅する光」を当てる行為は、命を吹き込み蘇生を試みているようでもある。



久門剛史《Artist》(2019)[撮影:表恒匡]

一方、所蔵品に対してより解釈的に踏み込み、分解と再構築のプロセスそれ自体を作品化したのが、中村裕太の《かまぼこを抽象する》。中村は、戦前の抽象絵画のパイオニア、長谷川三郎が「かまぼこ板」を版木に用いた版画作品と、版木に整理番号を振って組み合わせを考察した河﨑晃一(元同館学芸課長)の研究に着目。河﨑の数え方に習い、長谷川の手書き原稿の筆跡をいくつかの断片的な造形要素に分解・還元し、それらを版木のように組み合わせて再構築した。かまぼこ板を使用した制作について長谷川が書いた文章を、彼自身の造形手法を参照して再提示したメタな試みであり、同時にそこには画家自身の言葉、研究者の解釈、アーティストの創造と、時間も立場も異なる三者の行為が幾重にも折り重なって堆積する。



中村裕太《かまぼこを抽象する》(2019) [撮影:表恒匡]

このように、「出品作家に選ばせる」ことで所蔵品に新たな光を当て、見え方の活性化を促す本展の企図は、成功していたと言えるだろう。

一方、改めて作品の凄みを感じたのが、今井祝雄が1979年5月30日からライフワークとして継続している「デイリーポートレイト」。「1日1枚、ポラロイドでセルフポートレイトを撮影する」行為の厚みを、アクリルボックスに納めた1年間分の写真の束=物質化された時間の層として提示する。ポラロイドの余白には撮影した年月日が記され、列柱のように並んだ写真の層を辿ると、今井の顔が徐々に若返る/年齢を刻んでいく。会期中も毎日、ポートレイトが美術館に送られ続け、層を形成していく証左として、郵送された封筒がボックスの傍らに積み上げられている。



今井祝雄「デイリーポートレイト」(1979-) [撮影:表恒匡]

だが、この作品の真の恐ろしさは、「前日に撮影したポラロイド写真を手に持って撮影する」仕掛けにある。今井が手に持った「前日に撮影したポラロイド写真」には、「その1日前に撮影した写真」が入れ子状に写り込み、さらにその写真には「もう1日前の写真」が写り込んでおり…というように、「今日、撮影された1枚」には、今井が撮影を開始した日付から流れた時間の総体が(もはや目視できなくとも)圧縮され、封じ込められているのだ。「1枚の写真の表面」にこれまで生きた時間を入れ子状に取り込み、(作者の死という終止点が打たれるまでは)原理上、半永久的に続行可能なシステムの維持に個人の生を飲み込んでしまう。迷宮的眩暈の感覚を突きつける、恐るべき作品である。

2020/01/25(土)(高嶋慈)