artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

「DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに」展

会期:2020/01/11~2020/02/16

国立新美術館[東京都]

「DOMANI・明日展」は、サブタイトルに小さく「文化庁新進芸術家海外研修制度の成果」と書かれているように、文化庁の海外研修(かつて「芸術家在外研修」と呼ばれていたため、以下「在研」)に行った作家たちがその成果を発表する場であり、いわば個展の集合体。と思っていたら、最近は在研の経験のないアーティストも出すようになって、企画性を強めている。とくに今回は11人中5人、つまり半分近くが在研とは無縁の作家たちに占められ、「傷ついた風景の向こうに」というテーマのもと、いつになくメッセージ性の強い作品が並んだのだ。

最初の部屋こそ、これまでの派遣国や地域別人数を記した表を掲げ、同展が在研の展覧会であることを示しているが、次の展示室の石内都とその対面の米田知子は、ともに在研の経験がない作家だ。石内は身体の傷跡を撮った「Scars」シリーズをメインに出しているが、トップを飾るのは、被爆後まもない広島を撮った写真の中央に写る原爆ドームを切り抜き、再度テープでとめて撮影した「ひろしま」シリーズの1点。石内は「傷跡を撮ることは写真をもう一度撮るのと同じかもしれない」と述べているが、被爆地を撮った写真を切ってもういちど撮った写真は、まさに傷だらけ。その向かいの米田は、穏やかな田園や海岸を写した風景写真を出している。が、《道──サイパン島在留邦人玉砕があった崖に続く道》や《ビーチ──ノルマンディ上陸作戦の海岸/ソードビーチ・フランス》といったタイトルを読むと、一見平和そうな風景に潜む傷ついた過去が浮かび上がる。どうやらあまり平穏な展覧会ではなさそうだ。

次の藤岡亜弥は在研経験者で、現在の広島を撮った「川はゆく」シリーズを発表。いまの広島を撮りながら、原爆ドームの写真や被爆者の描いた絵などを画中画のように画面に写し込み、過去と現在を同居させている。その次の大きな部屋は、彫刻家の森淳一と若林奮。森は出身地である長崎を襲った被爆を、光と影の視点から彫刻化した作品を出品。若林は、東京都下の山林に計画されたゴミ処分場に反対するために制作した《緑の森の一角獣座》のマケットやドローイングを出している。どちらも地形に印された傷跡を立体的に作品化したものといえるだろう。

ここまでくると、いつもの「DOMANI」展らしからぬ重苦しさを感じるかもしれないが、全体のちょうど真ん中へんに栗林慧の超ドアップの昆虫の映像が流れ、自然の生み出すユーモラスかつ驚きの姿かたちと動きにしばし見とれるはず。その後、被災後の福島をモチーフにした佐藤雅晴のアニメ、枯れ枝と葉のついた枝を対比した日高理恵子の絵画、キンモクセイの葉6万枚を葉脈だけにしてつないだ宮永愛子のインスタレーションと続き、東北3県の津波被災地を撮った畠山直哉の風景写真で終わる。畠山の写真で印象的なのは、荒涼とした背景に部分的に葉を茂らせて立つ1本の木の姿だ。大半が昨年撮ったものだそうだが、自然は7、8年かけてようやくここまで再生したと見ることもできるし、逆にまだここまでしか再生していないと見ることもできるだろう。背景に写る防潮堤や宅地造成地との対比が象徴的だ。

同展のサブタイトルにはもうひとつ、「日本博スペシャル展」というのもついていた。東京オリンピック・パラリンピックの開かれる今年、「日本人と自然」をテーマに、「日本の美」を体現する展覧会やイベントを体系的に紹介していく「日本博」の特別展として、「傷ついた風景」をねじ込んだのはある意味快挙かもしれない。

関連記事

DOMANI・明日展PLUS X 日比谷図書文化館 ──文化庁新進芸術家海外研修制度の作家たち |柘植響:トピックス(2017年12月15日号)

2020/01/22(水)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00051806.json s 10160410

HER/HISTORY

会期:2020/01/17~2020/01/28

岸和田市立自泉会館[大阪府]

アーティストの稲垣智子がキュレーターを務める、「歴史」をテーマとしたグループ展。「HISTORY」の前に付けられた「HER」が示唆するように、「男性」「権力」「単一性」によって語られてきた大文字の歴史/物語を、周縁性や複数性の視点からズラし、いかに語り直すことが可能かという問いが本展の基底にある。

この問いに正面から向き合い、秀逸だったのが、mamoruと長坂有希。mamoruの映像作品《私たちはそれらを溶かし地に注ぐ》は、太平洋戦争末期の1945年1月、空襲下の台湾にて発掘作業を行なった日本人の考古学者の残した記録資料を基軸に、「国家が(他者の)文化を奪うこと」と「戦争という暴力を先住民が別の形へと変容させること」について語る、映像音楽詩とも言える美しい作品である。興味深いのは、リズミカルに編集されたシーンの展開に応じて、異なる「語りの視点や文体」が採られ、複数の「声」「主体」によって織り上げられている点だ。「彼は」という三人称視点のナレーションで始まる映像は、台湾に残る遺跡を撮影したモノクロ写真を入れ子状に映し出し、物語世界としての対象化と隔たった距離感をまずは提示する。だが、語りが「私は」という一人称視点に切り替わるとともに、見る者は、視点の同一化によって語られる物語のなかへと迎え入れられ、「台北帝国大学所属の考古学者である私」が抱える、学問的な探求心と「研究成果が国家の植民地政策に利用される」ジレンマを聞くだろう。

一方で一人称の語り手は、事務的な発掘日誌を淡々と読み上げていく。発掘作業の進展と、度重なる空襲による作業中止の報告。先住民による合唱の挿入。彼らは、米軍機が落とした弾丸を拾い、溶かして地に注ぎ、装身具に作り替えていたこと。それは、戦争という暴力を溶かし、新たな形と力を与える一種の変身であり、度重なる侵略と抑圧を潜り抜けて受け継がれてきた、軽やかな抵抗の作法ではないかとナレーションは語る。当時の記憶を持つ人々のインタビューを挟んで、終盤では、リズミカルなラップに乗せ、国家的暴力に対する抵抗、同調圧力や自己欺瞞の包囲網、その孤絶感のなかで続く自問自答の戦いについて歌い上げられていく。資料のリサーチ、インタビュー、複数のナラティブの形式の並置により、可視化されてこなかった歴史を多面的に語り直す本作はまた、先住民の歌声や爆撃音、ラップのリズムと同期した字幕編集など、音楽的編集が際立つ。



mamoru《私たちはそれらを溶かし地に注ぐ》(2020)[撮影:植松琢麿]

一方、長坂有希の作品では、波打つ海面の映像を背景に、語り手は一貫して「あなた」という親密な呼びかけで語り続ける。呼びかけの相手は、エーゲ海の島から海を渡って大英博物館に運ばれた大理石のライオン像である。前足と口、そして宝石が嵌められていたであろう光輝く目を失い、傷ついたその姿は、故郷から引き離された難民や移民のディアスポラとしての生や、奴隷貿易のメタファーともとれる。「あなたの目になって、あなたが見ていたものを探しに行くことにしたの」と言い終える語り手は、他者の痛みに向き合うことは、「あなた」という親密な関係性のうちでしか成しえないのではないかと告げる。映像の背後の黒板には、地中海の簡略な地図や旅先の風景と思われるドローイング、「序章」と「終章」という単語が断片的に描かれるのみであり、その物語は、私たち自身が「目」となって痛みの共有と親密な関係性を想像的に結び直しながら、投影しなければならないのかもしれない。



長坂有希《手で掴み、形作ったものは、その途中で崩れ始めた。最後に痕跡は残るのだろうか。02_ライオン》(2020) [撮影:植松琢麿]

物語的叙述、内省的主観、業務的な記録、記憶をもつ当事者の語り、抵抗のラップの歌声など多層的な声の(再)配置と、「あなた」への親密な語りかけ。対照的ながら、「負の記憶にどう向き合うか」という問いに対峙し、その向き合い方を開いていく語りの作法の開発が、静かに提示された展示だった。

2020/01/22(水)(高嶋慈)

第44回伊奈信男賞 岩根愛「KIPUKA」

会期:2020/01/16~2020/01/22

ニコンプラザ大阪 THE GALLERY[大阪府]

戦前にハワイに渡った日系移民と、そのルーツである福島県民。サトウキビ製糖産業の衰退とともに廃れていく移民墓地と、震災後の福島の帰宅困難区域。ハワイの毎夏の盆祭りでいまも熱狂的に踊られている「ボンダンス」のひとつ「フクシマオンド」と、その元歌である「相馬盆唄」。国家の移民政策によって、あるいは原発事故によって故郷から強制的に隔てられた両者をつなぐ「盆踊り」を基軸に、10年以上に渡る精力的なリサーチと撮影を続けている岩根愛。その成果がまとめられた写真集『KIPUKA』(青幻舎、2018)で昨年、第44回木村伊兵衛写真賞を受賞し、ニコンが運営するギャラリーで個展が開催された。その展示が、年間の最優秀作品に選ばれたため、約半年後に同じ会場にて再び個展が開催された。


個展タイトルは変わらないものの、展示構成は大きく変更を加え、自身の企図をより深く伝える熟考の跡が感じられた。前回の個展では、ハワイ/福島を明確に分け、対置させる意識が強かった(向かい合った展示壁面の片方にハワイを、もう片方に福島を対置。それぞれの盆踊りで「乱舞する手」のクローズアップを360度のパノラマカメラで捉えた超横長の写真が背中合わせで吊られ、両者のあいだを対角線上に区切る。それぞれレンズにカラーフィルタを付けて撮影されたそれらは、ハワイ=熱狂的なエネルギーの奔出を伝える「赤」に、福島=死者への哀悼や深い哀しみを想起させる「青」というように、対照的な色に染められている。対置や背中合わせの構造も相まって、「私たち」と「彼ら」、「日本人」と「日系人」といった分断を強調しかねない展示構成には疑問が残った)。


だが、今回の展示構成では、ハワイと福島が分断ではなく連続性を保ちながら円環状につながり合い、その延長線上に生と死が循環する相さえ感じさせる、充溢した空間が立ち上がっていた。



会場風景

展示はまず、福島の帰宅困難区域をパノラマ撮影したモノクロ写真で始まる。倒壊したまま無人化した家屋やビニールハウス。時間が凍結したかのような光景の上を、繁茂する自然が覆っていく。その様相は、溶岩流に巻き込まれた墓石が傾いたり、自然の力に飲み込まれて荒廃していく日系移民の墓地の光景へとスライドしていく。そして、夜のサトウキビ畑のざわめく葉の上に投影された、かつてそこで働いていた日系移民の家族写真は、亡霊の召喚を告げる。重なり合った葉の合間に見え隠れする、目鼻立ちや輪郭が曖昧に溶け合って個人としての顔貌を失い、自然と同化しつつある亡霊的存在。亡霊の出現は、美しさと熱気と畏れを合わせ持つ盆踊りの光景へとつながっていく。漆黒の闇の中に福島の「青」が浮かび上がり、それは美しい色彩のグラデーションを描きながら、次第にハワイの「赤」が鮮烈さを帯びて立ち現われ、熱狂と命の奔流は壁の終わりで頂点に達する。本展の白眉と言えるこの壁面では、福島とハワイ、「こちら」と「あちら」、彼岸と此岸の境界がなだらかに交じり合って溶け合う。



会場風景

「死」の凍結から始まり、福島からハワイへ、死者の霊の召喚から「生」の祝祭へと、二つの土地を往還しながら円環状に展開する本展は、「生」の高揚が最高潮に達する終盤のハワイから再び冒頭の福島へとつながり、生と死もまた円環状につながり合う。移民の歴史、ディアスポラの悲哀、土地と身体に根づく歌と踊りの生命力を捉え、その果てに壮大な「生と死の循環」を描き出す本展は、「KIPUKA」というタイトルに込められた意味──「溶岩の焼け跡に生えた植物」、再生の源となる「新しい命の場所」を意味するハワイ語の言葉──をより内在的に浮かび上がらせていた。

関連レビュー

岩根愛「KIPUKA」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年11月01日号)
第44回 木村伊兵衛写真賞受賞作品展 岩根愛「KIPUKA」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年07月15日号)

2020/01/22(水)(高嶋慈)

笠木絵津子『私の知らない母』

発行所:クレオ

発行日:2019年12月21日

笠木絵津子は1998年の母の死をきっかけにして、その記憶を写真で辿り直す作品を制作し始めた。最初は、母が写っている戦前の家族アルバムの写真を題材にし、その中に母の着物や服を着た笠木自身の姿を埋め込むシリーズに取り組んだ。朝鮮咸鏡北道、台湾高雄市、満洲国撫順市など、母とその一家の足跡を辿る作品は縦横数メートルの大きさとなり、実際に現地に足を運んで撮影した風景に母や自分の写真を合成するようになる。母の死後20年あまりを経た2019年の藍画廊での個展「『私の知らない母』出版記念新作展」で、そのプロジェクトは一応完結し、今回同名の写真集が刊行された。

鈴木一誌、下田麻亜矢、吉見友希がデザインした本書は、120ページを超す大判写真集である。同シリーズの代表作が網羅されているだけでなく、それぞれの写真がどんなふうにでき上がってきたのかというバックグラウンドが、詳細かつ丁寧に綴られている。このユニークな作品は、笠木自身の個人史の再構成というだけでなく、一家族の移動によって見えてくる、戦前の日本とアジア諸国との関係の見取り図でもある。同時に、デジタル化による画像の加工や合成が可能となることで、はじめて成立した作品ともいえるだろう。笠木の粘り強い試みは、家族の写真をテーマにした作品づくりを考えているより若い世代にも、さまざまな示唆を与えてくれるのではないだろうか。

関連レビュー

笠木絵津子「『私の知らない母』出版記念新作展」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2019年07月01日号)

2020/01/22(水)(飯沢耕太郎)

百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」

会期:2019/12/07~2020/01/18

EFAG East Factory Art Gallery[東京都]

百瀬文の個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」は三つの映像作品で構成されていた。《Jokanaan》は二面スクリーンの作品で、一面にはシュトラウスのオペラ「サロメ」の一場面を踊る男性ダンサー(武本拓也)が、もう一面にはモーションキャプチャーで男性ダンサーと同じように踊るCGの(陶器像のようなテクスチャーの)少女が映し出される。だが、両者の動きは次第に乖離していき、サロメというモチーフも相まって、虚構の存在であるはずの少女が場を支配していくかのようである。

興味深かったのは、両者の体の動きが次第に乖離していくのに対して、顔の表情は最初から一致していなかった点だ。顔の表情をトレースしてCGに反映する技術も存在するが、今回のモーションキャプチャーは体の動きだけを対象としていて、顔の表情はその範囲外だった。するとあの場を支配していたのは男でも少女でもなく振付だったのだと言ってみたくなる。外部からの指示によって動かされる体と、その動きが呼び起こす情動。顔は唯一許された自由の場だ。曲が終わりに近づくと少女は操り人形のように奇妙に捻れながら崩れ落ち、モーションキャプチャースーツを脱ぎ捨てた男もまた床に横たわる。振付が尽きたとき、二人には動くためのモチーベーションは残されていない。

《Social Dance》はろうの女性とその恋人である男性の手話による対話を映した作品。彼女は恋人の過去の言動を責め、男は彼女をなだめようとしながらもときに強い調子で反論する。激昂する彼女の手を男が取るとき、「愛」と暴力は一体のものとなる。親密な接触が言葉を奪う。

ところで、残念ながら私は手話を解さない。二人のやりとりの内容は画面中央に映し出される日本語と英語の字幕によってしか知ることができない。だが例えば「だって私が介入すると/You got angry」で彼女の言葉が遮られたとき、彼女の手話は日本語英語どちらの内容に対応していたのだろうか。言葉はすぐに再開され、文全体としては日本語と英語とで意味の違いはないことがわかる。しかし彼女は「私が介入すると」と「あなたは怒る」のどちらを先に伝えていたのか。日本語で示されていた「私が介入すると」の方だろうとなんとなく思ってしまうのだが(しかも日本語字幕は英語字幕の上に表示されている)、映像では彼女の頭部はフレームアウトしており、外見から話している言語を推測することはできない(いや、そんなことはそもそも不可能なのだが)。作品に英語タイトルが付されていることから考えれば、むしろ英語の方が主なのだと考えるのが妥当かもしれない。あるいは彼女はまったく別のことを話していて、そもそも二人は喧嘩などしていないという可能性もある。

《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.》はカメラ=鑑賞者の方を向いた女性がひたすらにまばたきをし続ける作品。女性は初めのうちは落ち着いた様子でゆっくりとまばたきしているが、7分弱の映像のなかでだんだんと顔は歪み、その調子は激しい(あるいは苦痛に満ちた?)ものになっていく。まばたきはモールス信号でI can see youと発しているらしいのだが、手話と同じくモールス信号も解さない私がそれを知っているのは、会場で配布されていたハンドアウトにキュレーターによるそのような記述があったからでしかない。だが、I can see youというメッセージは誰から誰へと向けられたものなのか。それが作品のタイトルにもなっていることを考えれば、画面に映る彼女から鑑賞者へと向けられたメッセージだろうか。だが、彼女から鑑賞者が見えるわけもなく、すると「私にはあなたが見えます」という言葉は端的に嘘になってしまう。作品鑑賞の場において「私にはあなたが見えます」という言葉が正しく成立するのはそれが鑑賞者から彼女に向けられたときだけだ。だが、それは本当だろうか。彼女は確かに見えている。しかし「解説」を読んだ私は彼女の「モールス信号」を自ら解読する努力を放棄してしまった。いや、そもそもあれは本当にモールス信号だったのか。私は本当に彼女を見ていたか。タイトルの裏に潜んだDo you see me?という問いかけは展示全体へと敷衍される。


公式サイト:http://ayamomose.com/icanseeyou/?ja

2020/01/20(月)(山﨑健太)