artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

鈴木敦子『Imitation Bijou』

発行所:DOOKS

発行日:2019/06

「TOKYO ART BOOK FAIR 2019」で目についた一冊。鈴木敦子は福井県在住の写真家だが、携帯電話のカメラで折に触れて撮影した写真を、写真集にまとめた。写っているのはごく身近で些細な経験であり、その意味では、ありがちな「日常スナップ」に見えなくもない。Instagramにアップされていてもおかしくない写真もたくさんある。だが、目に入ってくる事物を捉える眼差しの角度とタイミングに独特のバイアスがかかっていて、写真集のページをめくるうちに、その世界に誘い込まれていく。タイトルの『Imitation Bijou』というのは「模像宝石」という意味だそうだが、写真の内容にぴったりしている。安っぽいけれども切実な、どこか悲哀感を感じさせる輝きが、どの写真にも宿っているのだ。写真の選択と配列が的確ということだろう。

特筆すべきは相島大地によるデザインで、文庫本とほぼ同じ大きさの、小ぶりなサイズにしたのがうまくいった。小さな経験の集積に、小さい写真集が見合っている。通常版のほかに、アクリルのケースに入れた特装版(30部限定)もあるのだが、こちらはプリントが1枚つく。こういう丁寧な造りの写真集を見ていると、日本の写真家、出版社、印刷・製本業者が長年にわたって積み上げてきた写真集制作のクオリティの高さが、揺るぎないものになりつつあることがわかる。いま一番大きな問題は、せっかく完成したいい写真集を、どうやって読者に届けていくのかということだろう。写真集流通の回路作りが、より必要になってきている。

2019/07/15(月・祝)(飯沢耕太郎)

TOKYO ART BOOK FAIR 2019

会期:2019/07/12~2019/07/15

東京都現代美術館[東京都]

2009年にスタートした「TOKYO ART BOOK FAIR」も10回目の区切りの年を迎えた。今年はリニューアル・オープンしたばかりの東京都現代美術館に会場を移し、エントランスホールと地下2階の企画展示室に国内外の出版社、ギャラリー、アーティストなど、約300組が出展していた。相変わらず、連日大変な数の入場者が訪れ、会場は活気を呈している。ただ、ブック・フェアとしてはそろそろ限界に達しつつあるのではないかという印象を受けた。

僕が行ったのが最終日の15日の午後だったこともあると思うが、入場者があまりにも多過ぎてほとんど身動きができない状態だった。ブースに立ち止まって本をゆっくり見る余裕はなく、出展者とのコミュニケーションもうまくとれない。また以前は、どちらかといえば写真集中心のイヴェントだったのだが、イラスト集やアート・ブックの割合が増え、Tシャツなどのグッズを販売しているブースもあって混乱に拍車がかかっている。出展物の内容が洗練されてきていることは間違いないが、逆に均質化も目立つようになった。好みの本を見つけ出すのは、砂粒からダイヤモンドを探すような状況になってきている。

「TOKYO ART BOOK FAIR」では出展ブースに加えて、独自企画も展開している。今年はゲスト国がアメリカということで、同国で1970年代から刊行されてきたZINEの展示やトークイヴェントなどが開催されていた。ほかにも「カタログでたどる、資生堂ギャラリーの100年」、若手写真家グループのカルチャーセンターが主催する「Boring Books 退屈な本」展なども開催されていたのだが、メイン会場の雑踏に紛れてほとんど目立たない。会場のスペースや運営のやり方を、根本的に見直す時期にきているのではないだろうか。

2019/07/15(月・祝)(飯沢耕太郎)

宮本隆司 いまだ見えざるところ

会期:2019/05/14~2019/07/15

東京都写真美術館[東京都]

展示はシリーズごとに5つに分かれている。まずネパール北部の農村ロー・マンタンを撮ったシリーズ。高地で乾燥しているせいか白黒のコントラストが強く、土壁の建物や路地ばかりで人がほとんど写っていない。次が、香港やバンコクやホーチミンなどアジアの都市風景。こちらは人や物があふれていて濃密な空気が漂っている。次に、最初の写真集『建築の黙示録』から、サッポロビール恵比寿工場の解体現場。これは写真美術館のある恵比寿ガーデンプレイスの開発前の姿。このころ宮本は、すぐ近くの再開発を見下ろすマンションに住んでいた。その次が東京スカイツリーを撮ったピンホールカメラのシリーズ。縦長の画面の上半分にスカイツリーを電信柱とともに写した奇妙な写真だ。あれ? 1点だけ電信柱のみでスカイツリーが写っていない写真があるが、これは徳之島の電信柱。


ここまでが前半で、後半はすべて徳之島を撮った《シマというところ》。宮本の両親は徳之島の出身で、彼自身も生後4カ月から2歳までこの島で暮らしたそうだ。もちろん記憶はないが、だからこそある程度年がいってから気になり始めたのだろう。近年はしばしば島を訪れるという。その写真には、海岸や田畑、ソテツ、じいさんばあさん、お祭り、ウミガメの産卵などが写されていて、明らかに前半の写真とは違う。「廃墟の宮本」像が崩れてしまいかねないほど違う。なにが違うかというと、たぶん温度だ。シマとは島ではなく、小さな共同体のこと。だからぬるい。写真がぬるいのではなく、ぬるさを写している。そのぬるさは幼少期の身体を包んでいた空気のような、あるいはひょっとして、羊水のようなぬるさかもしれない。

2019/07/14(日)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00048690.json s 10156192

原三溪の美術 伝説の大コレクション

会期:2019/07/13~2019/09/01

横浜美術館[神奈川県]

開館30年を迎えた横浜美術館では今年、コレクションを巡る3本の企画展を並べた。1発目は6月まで開かれていた「Meet the Collection」で、自館の収集作品を紹介するもの。2発目が、今回の原三溪(1868-1939)が集めた「伝説のコレクション」の全貌に迫ろうという展覧会。そして3発目が秋の「オランジュリー美術館コレクション」展だ。人が入りそうなのはルノワールを目玉にした「オランジュリー」だが、展覧会としてはなんといっても「原三渓」がおもしろそう。たまたま同時期に国立西洋美術館で開かれている「松方コレクション展」と同じく、大コレクションを築きながら歴史の波に飲まれて大半を失ってしまうという波乱のドラマが秘められているからだ。


原三溪こと青木富太郎は、横浜で生糸業を営む原家に婿入りし、生糸の貿易や銀行業にも事業を拡大する一方、社会貢献として古美術品の収集と公開、美術家への支援にも熱心に取り組んだ実業家。もともと美濃の豪農の家に生まれた青木は、南画家だった母方の祖父や伯父に幼少期から絵画や詩文を学んだというから、彼自身も美術家(のはしくれ)だった。だから彼のコレクションは、ありがちなようにだれかの入れ知恵で集めたものではなく、みずからの趣味と審美眼で選んだものなのだ。また、同世代の岡倉天心(1863-1913)とも親交を結び、日本美術院を支援。さらに、当時の成功した実業家の常として茶の湯に親しみ、茶道具を集め、茶会を催し、茶人としても名を成していく。

こうしたことから同展では、三渓の全貌を「コレクター」「茶人」「アーティスト」「パトロン」という4つの側面に分けて紹介する構成となっている。ちなみに「アーティスト三溪」の章には50歳をすぎてからの書画が何点か出ているが、彼が集めた鉄斎などに比べれば児戯に等しい。まあ比べるのも酷だけど、まだ16歳時の手習いの水墨画のほうが一途に描いていて好感が持てる。

ともあれ、三溪のこうした文化活動も関東大震災により自粛せざるをえなくなり、復興事業に専念することになる。こうして彼の集めた5千点以上ともいわれるコレクションは、ひとつの美術館に収まることなく散逸し、現在は東博や京博をはじめ根津美術館、大和文華館、ミホミュージアムなど各地の美術館に収まっている。これを見ながら、やはり同世代の松方幸次郎(1866-1950)を思い出してしまった。松方も社会貢献として西洋絵画を集めたものの、不況と大震災によってコレクションを散逸させてしまったところは同じ。大きな違いは、松方がおもに西洋の近代美術を集めたのに対し、三溪は日本の古美術に特化していたこと。しかし、西洋美術を日本人に見せようと美術館の建設を計画した松方の野望も、廃仏毀釈から古美術を守り、近代日本画を後押しした三溪の信念も、明治・大正期の実業家が共通して持っていたフィランソロピー精神に根ざしたものに違いない。いや、もっと砕いていえば、旦那の心意気ってやつか。

2019/07/12(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00049548.json s 10156191

PGI Summer Show 2019 “monoとtone”

会期:2019/07/10~2019/08/24

PGI[東京都]

PGIではほぼ毎年、夏のこの時期に若手写真家たちのグループ展を開催してきた。今年は小島康敬、嶋田篤人、田山湖雪、西岡広聡、平本成海の5人が、それぞれのモノクローム作品を発表している。たしかに、デジタル化が完全に行きわたった現在でも、銀塩プリントのモノクローム写真にこだわる写真家は意外に多い。デジタルカメラ、デジタルプリンタを使っていても、あえてモノクロームで出力することもある。それだけの根強い魅力があるということだろう。

今回発表された5人の作品を見ると、やはり白から黒までの精妙で豊かなトーンコントロールができるという点が大きいのではないだろうか。カラープリントだと、どうしても作家の思惑を超えたノイズが写り込んでくるが、モノクロームなら画面の隅々にまで意識を働かせることができるからだ。ベルリンの都市風景を切り取る小島、風景を断片化して再構築する嶋田、祭りなど日常と非日常の境界に目を向ける田山、夜の建物の微妙な気配を探索する西岡、謎めいたパフォーマンスを披露する平本と、作風の幅はかなり広いが、画面を破綻なく構築していく能力の高さは共通していた。

逆にいえば、小さくまとまってしまいがちだということで、今回の展示に関しても、思考と実践のダイナミズムを感じる作品はほとんどなかった。作品としてのまとまりやクオリティを追求するだけではまだ物足らない。なぜモノクロームなのかという問いかけが、あらためて必要になってきそうだ。グループ展なので、各自に割り当てられたスペースが小さかったということは割り引いても、「暴れる」写真をもっと見たかった。モノクロームでも、それは充分に可能なはずだ。

2019/07/10(水)(飯沢耕太郎)