artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

樗谿グランドアパート

樗谿グランドアパート[鳥取県]

鳥取アートシーン探訪記その2。「樗谿(おうちだに)グランドアパート(佐々木家住宅)」は鳥取市内の歴史的建築物。機会に恵まれ、保存会の方の案内で内部を見学させていただいた。1930年に竣工した木造2階建の住宅だが、時代や持ち主の変遷に伴って増築や改変が加えられ、様式や文化の混在とともに重層的な歴史が刻まれた建築だ。当初の建築(正面向かって左側)は、元々は医院として建てる計画だったが、途中で住宅へと変更されたため、建設途中で改築が施された。また、玄関に入ると、重厚感ある木製の螺旋階段が出迎えるが、これは明治後期に建てられた別の病院から移築したもの。移築先のこの空間に収まるよう調整を施したため、階段の幅が入り口と踊り場で異なるなど、奇妙なねじれが発生している。外観は洋風建築だが、内部には和室も有し、バルコニーがある一方で屋根瓦には家紋をあしらうなど、和洋折衷が随所に見られる。



外観

さらに輪をかけて複雑にしたのは、占領期にGHQによって接収され、占領軍将校の住居として使用するため、増築されたことだ(正面右側)。増築部分の1階は、ベランダを支える柱に植物的な柱頭装飾が施され、手前の日本庭園と奇妙な齟齬を見せる。室内の壁にはペンキを塗られた痕とともに、扇情的な衣装の踊り子の絵が残され、ひときわ目を引く。「占領軍の将兵が描いた」と言われているが、顔立ちや線描は日本的で、描き手やモデルはどのような人物だったのか、想像がふくらむ。この絵が描かれた部屋はダンスホールとして使用され、接収解除後もダンスホールやホテル、後にアパートとして使用された。現在、1階増築部分は織物作家のスタジオとして使用されている。



ダンスホールだった部屋の壁に残る、踊り子の絵


さまざまな断片が接合され、奇妙なパズルのように組み立てられた建築。とりわけ興味深いのは、「二重の占領の記憶」が書き込まれている点だ。床の間の床柱に用いられた黒い木は、南洋から運ばれた材木であり、南方材を床柱に用いることが当時流行していたという。その「軍事的進出」の記憶は、占領軍将校による壁のペンキ塗りとして、文字通り上書きされる。「支配」と「被占領」が文化装置として顕現する、そのことを色濃く伝える点でも非常に興味深い建築だった。



左:螺旋階段 右:床の間

2018/08/05(日)(高嶋慈)

HOSPITALE PROJECT

HOSPITALE PROJECT[鳥取県]

鳥取アートシーン探訪記その1。「HOSPITALE PROJECT」は、鳥取市内の旧横田医院を全館用いて、アートに関わるさまざまなプログラムを実施しているアート・プロジェクト。1956年に地上3階建ての鉄筋コンクリート造りとして建てられた旧横田医院は、円形が特徴的であり、内部は扇形をした小部屋で区切られている。ここでは、年間数名のアーティストを招聘するアーティスト・イン・レジデンス・プログラム、滞在制作された作品の展示や空間の特性を生かしたパフォーマンスを行なうギャラリー・プログラムに加え、コミュニティのための庭づくりや野菜の栽培を行なう「庭プロジェクト」、アート・プロジェクトの事例紹介や課題について話し合う「はじめてのアート・プロジェクトトークシリーズ」など、計6つの活動が行われている。筆者の見学時は残念ながらイベント開催期間ではなかったが、「読まなくなったけど捨てられない本」を集めて公開する「すみおれ図書室」は見ることができた。

合わせて、近所にある「プロジェクトスペース ことめや」も見学。元旅館のこちらはコワーキングスペースとして使用されているほか、レジデンス施設としても活用されている。どちらも地元に残る建築物を地域に根付いたアート・プロジェクトの場とコミュニティづくりとして活用する好例であり、「地方なので外から入ってくるものに対して警戒感はあるが、受け入れるキャパはある」と話してくれた案内役のインターンの方の言葉が心に残る。


左:外観 右:すみおれ図書室

2018/08/04(土)(高嶋慈)

渡辺眸「東大全共闘1968-1969 続 封鎖の内側」

会期:2018/07/13~2018/08/04

nap gallery[東京都]

渡辺眸が全共闘の学生によって封鎖されていた東京大学安田講堂のバリケード内で撮影した写真集『東大全共闘1968-1969』(新潮社、2007)が、角川ソフィア文庫から未発表作品も含めて復刊された。今回のnap galleryでの個展はその出版に合わせてのもので、これまでの同テーマの展覧会では最多の、40点以上が出品されていた。

あらためて渡辺の写真を見直して、この「東大全共闘」のシリーズは、むろんあの激動の時代の貴重な記録として重要だが、それ以上に彼女の独特の眼差しの質を体現した写真群であると感じた。写真のなかには、渡辺の友人の夫だった元・東大全共闘代表の山本義隆をはじめとして、闘争中の学生たちの姿が数多く写り込んでいる。だが、むしろ目につくのは、彼らの周辺に散乱し、増殖していくモノたちの様相である。謄写版、ヘルメット、旗、壁や床を引き剥がした瓦礫、バリケードの材料として使用された机や椅子──渡辺はそれらのモノたちの感触を確かめるように、ゆっくりと視線を移動させ、そのたたずまいを丁寧に写しとっていく。結果として、東大全共闘がもくろんでいたのが、政治体制だけではなくモノや風景の秩序に対する叛乱でもあったことが、写真から確実に伝わってきた。

渡辺のそのユニークな視点を可能としたのは、彼女が観念的にではなく、あくまでも身体的、生理的な反応としてシャッターを切っていたからだろう。一見、非日常的に思えるバリケードのなかにも、多様で豊かな日常の光景が広がっていたことを、渡辺の写真を見ながら追体験することができた。

2018/08/03(金)(飯沢耕太郎)

試写「太陽の塔」

[東京都]

太郎にゆかりの研究者、学芸員、万博関係者、芸術家らへのインタビューに昔の映像を織り交ぜ、多角的な視点から「太陽の塔」に迫る。どっちかというと造形面より思想的な背景が語られる。太陽の塔から縄文へ、アイヌ、沖縄、民族学、バタイユ、マンダラ、チベット仏教、南方熊楠、粘菌へとテーマは連想ゲームのように広がっていく。おもしろいけど、風呂敷広げすぎ。インタビューされたのは平野暁臣、赤坂憲雄、中沢新一、椹木野衣、関野吉晴、糸井重里、Chim↑Pomまで25人におよぶ。これも多すぎ。あれこれ詰め込みすぎ。映画長すぎ(112分)。90分でよかった。

興味深いのは、だいたいみんな太郎に関しては同じような意見を持っていること。だれかの意見を、最後のほうだけ別の人の結論につなぎ合わせても違和感がない。みんな似たようなことを考え、みんな太郎を神格化している。でもこれって、太郎がいちばん嫌ったことじゃなかったっけ? 「太陽の塔」に対して「みんな深読みしすぎ。あれはできそこないの裸の王様」とかいうやつはいないのか。もっと異論を差し挟んだり、ケンカになったり、映画自体が空中分解したほうが太郎にふさわしかったのではないか。

2018/08/03(村田真)

杉浦邦恵「うつくしい実験 ニューヨークとの50年」

会期:2018/07/24~2018/09/24

東京都写真美術館2階展示室[東京都]

1942年、名古屋生まれの杉浦邦恵は、1963年にお茶の水女子大学物理学科を中退して渡米し、シカゴ美術館付属のシカゴ・アート・インスティテュートに入学する。杉浦が師事したケネス・ジョセフソンはインスティテュート・オブ・デザイン(ニュー・バウハウスの後身)でハリー・キャラハンやアーロン・シスキンに学んだ実験的なスタイルの写真家であった。杉浦は彼の影響を受けて室内のヌードモデルを魚眼レンズで撮影し、フォトモンタージュなどの技法を駆使して画面に構成した写真作品「孤(Cko)」を制作する。1967年には、シカゴからニューヨークに移転し、カンヴァスに感光乳剤を塗って写真を焼き付け、アクリル絵具による抽象的なドローイングと合体した、「フォトカンヴァス」のシリーズを制作・発表するようになった。

杉浦の代表作といえば、1980年代以降に制作し始めた「フォトグラム」作品を思い浮かべる。だが、日本での最初の本格的な回顧展となる今回の「うつくしい実験」展を見て、シカゴ時代、あるいはニューヨーク時代の初期に制作された「孤」や「フォトカンヴァス」のシリーズが、じつにみずみずしく、魅力的な作品であることに気づいた。たしかに、コンセプトを重視する「シカゴ派」の写真作品や、当時流行していたポップ・アートの影響は感じられる。だが、若い日本人女性アーティストが、身の回りの事象に好奇心のアンテナを伸ばし、作品化していくプロセスがしっかりと組み込まれていることで、共感を呼ぶ作品として成立していた。

そのような、のびやかで流動的な作品づくりの流儀は「フォトグラム」作品にもそのまま活かされている。そこから、飼い猫が暗室内の印画紙の上で戯れる様子をそのまま定着した《子猫の書類》(1992)のようなユニークな発想の作品も生まれてきた。1999年以降に制作された「アーティスト、科学者」のシリーズでも、モデルとの親密な関係をベースにしながら、即興的に画面を組み上げていくやり方をいきいきと実践していった。

50年以上にわたるシカゴ、ニューヨークでの生活に根ざした杉浦の作品世界は、ほかの追随を許さない領域に達している。だが、それらは孤高の高みというよりは、親しみやすく、とてもオープンな印象を与える。2009年から日本各地で撮影されているという「DGフォトカンバス」のシリーズを含めて、その柔らかな感受性は、これから先も写真という表現メディアの特性を活かして、さまざまな方向に伸び広がっていきそうだ。

2018/08/02(木)(飯沢耕太郎)

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