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美術に関するレビュー/プレビュー

サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで

会期:2017/07/05~2017/10/23

森美術館+国立新美術館[東京都]

森美術館と国立新美術館といえば六本木の2大美術館。その2館が国立と私立の枠を超えて共同企画した最大規模の、日本で最大ということは世界でも最大の東南アジア現代美術展ということだ。しかしなんで東南アジアなのか。2館共同で大規模な現代美術展を開くなら、腐っても鯛ではないがやはり欧米の最新動向を知りたいし、国策として重要というならそれこそ中国と韓国を(できれば北朝鮮も)採り上げるべきだし、それ以前になぜ日本の現代美術をやらないのかとの不満も出てくるはず。そんな疑問がもたげてくるのも、必ずしも展覧会が満足いくものではなかったからだ。
展覧会は1980年代から現在までASEAN10カ国から選んだ86組のアーティストによる約190点を、「情熱と革命」「さまざまなアイデンティティー」「発展とその影」「歴史との対話」など9つのセクションに分け、大ざっぱに国立新美術館から森美術館へと時代が移るように構成されている。初期のころには絵画もあるが、大半を占めるのはインスタレーション、パフォーマンス、映像、そして観客が参加することによって成立する作品だ。このように絵画が減って作品が非物質化していくのは世界的傾向だが、特に東南アジアに著しいように感じられるのは、もともと油絵の伝統がないため初めから本気で取り組んでいる者が少なく、たとえ本気で取り組んでも一線に浮上する可能性が低いからではないか。いきおい伝統も技術も資本もさほど必要ないパフォーマンスや参加型作品に走ってしまいがちなのだ。また、それぞれの国の抱える問題を作品化するには、絵画よりインスタレーションやパフォーマンスのような形式なき形式に訴えるほうが手っとり早いからでもあるだろう。そして選ぶほうもそれが東南アジアの現代美術と思い込み、ついそうした作品を中心に選んでしまいがちになるのではないか。あくまで推測だが。
それはそれとして、見ごたえのある作品が出ていれば問題ないのだが、残念ながら見て楽しんだり感動したりする作品はきわめて少なく、大半は解説を読み、それぞれの国の事情や作者の置かれている状況に思いを馳せることで、初めて作品の意図を理解することができるのだ。もちろん理解して「ああよかった」と納得できる作品ならいいのだが、逆に「だからどうした?」と問いたくなるような作品もある。加えて、出品作家の何割かは90年代から福岡あたりで紹介されていて、絵画やインスタレーションならまだしも、いまさら似たようなコンセプトの観客参加をやられても興ざめするばかり。あるいはそれを伝統なき「伝統芸」として受け入れるべきなのか。と文句ばかり書いたので、最後に少しだけホメたい。森美術館にあったフェリックス・バコロールの《荒れそうな空模様》。手前の展示室にも音が漏れてくるのでなにごとかと思って入ってみると、天井から吊り下げられた1000個を超す風鈴が扇風機の風でジャーと音を立てているのだ。色も音も動きもあって、美しくもあり、恐ろしくもある作品。

2017/07/04(火)(村田真)

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サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで

会期:2017/07/05~2017/10/23

国立新美術館×森美術館[東京都]

東京・六本木の2つの美術館、国立新美術館と森美術館の展示室をフルに使った大規模展示である。インドネシア、カンボジア、シンガポール、タイ、フィリピン、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオスの現代美術家、80組以上が集結するという展覧会は、これまでにないスケールであり見応えがあった。ただあまりにも多彩な内容なので、全体像をつかむのがむずかしい。写真を使った作品としては、本展のポスターにも使われた、赤い提灯のオブジェの衣装を着て歩き回るリー・ウェン(シンガポール)の《奇妙な果実》(2003)、イー・イラン(マレーシア)が写真スタジオで撮影された大量の肖像写真をインスタレーションした《バラ色の眼鏡を通して》(2017)、リム・ソクチャンリナ(カンボジア)の国道沿いの家の変容を克明に記録した《国道5号線》(2015)など、興味深いものが多かったが、大きなインスタレーション作品と同時に見るのは、やや辛いものがあった。
展覧会の関連企画として、森美術館で「MAMリサーチ005:中国現代写真の現場──三影堂撮影芸術中心」展が開催されていたが、こちらもとても有意義な企画だった。三影堂撮影芸術中心(Three Shadows Photography Art Centre)は中国・福建省出身の榮榮(RongRong)と日本・横浜出身の映里(Inri)のカップルが、2007年に北京郊外の草場地に立ち上げた現代写真センターである。中国の若手写真家たちの公募展「三影堂撮影大賞」、フランスのアルル国際写真フェスティバルと提携した「草場地 春の写真祭」など、意欲的な企画を次々に実現し、中国現代写真の展開に大きな役割を果たしてきた。2015年には中国・廈門にも、三影堂廈門撮影芸術中心をオープンしている。
創立者の一人の映里が日本人ということもあって、三影堂と日本の写真界とのかかわりは深い。森山大道(2010、2015)、細江英公(2011)、原久路(2012)、荒木経惟(2012)、蜷川実花(2016)など、日本の写真家たちの個展も何度も開催している。にもかかわらず、中国の現代写真家たちの作品が、日本ではほとんど紹介されていないのは問題ではないだろうか。同様に、「サンシャワー」展に出品した東南アジア諸国の写真家たちの仕事も、もう少しきちんとしたかたちで見てみたいものだ。

2017/07/04(火)(飯沢耕太郎)

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川内倫子『Halo』

発行所:HeHe

発行日:2017/06/27 (限定版)

光背、光輪を意味する「Halo」をタイトルにした川内倫子の新作写真集は、これまでにないほどの強度と緊張感を感じさせる力作だった。冬のヨーロッパで撮影された、巨大な生き物のように空を動き回る鳥の群れ。中国・河北省の、灯樹花と呼ばれる灼熱した鉄屑を壁に打ち付けて火花を散らせる行事。出雲・稲佐の浜の神在月の行事の海──それぞれの写真に直接的な繋がりはないが、全体を通してみると、それぞれの場面に何か大きなエナジーがうごめき、渦を巻いているように感じられる。あとがきにあたる文章(詩)が素晴らしい。

「すべては闇の中にかすかに見える塵のようだ/マイナスの世界できらきら光るさまはほんとうだ/すぐに消え去ってしまうことは残酷な事実だ
塵も雪も雨も鉄くずも同じひとつの球だ/車のボンネットの鳥の糞/それも同じ水玉模様だ
銀河系と渦潮が同じかたちなのは偶然ではない/美しいものが見たいという気持ち/見えないけれど在るものへの畏れ/いくつもの感情を混ぜて抱えて進む/遠くに小さく光るなにかを灯火にして[以下略]」

川内は昨年女の子を出産したと聞いたが、そのような身辺の変化を含めて、より確信を持って写真を撮り、まとめあげていくことができるようになっているのではないだろうか。「見えないけれど在るもの」を感じとることの震えるような歓びが、一枚一枚の写真から伝わってくる。なお、写真集の出版に合わせて、東京都内の2カ所、森岡書店(銀座、6月27日~7月16日)、POST(恵比寿、6月30日~7月23日)で展覧会が開催された。

2017/07/02(日)(飯沢耕太郎)

没後90年 萬鐵五郎展

会期:2017/07/01~2017/09/03

神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]

萬鉄五郎の没後90年記念展。1997年には没後70年の回顧展が東京国立近代美術館で行なわれたが、10年後にはキリよく没後100年記念展が開かれるだろうか。生誕でいうと、1985年には生誕100年展が鎌倉などを巡回したが、別に10年とか100年単位で企画しなければならない決まりはないので、来年生誕133年記念展を開いてもかまわないわけだ。だれも企画しないだろうけど。ちなみに、萬の初の本格的な回顧展は1962年に鎌倉で開かれたもので、画家が亡くなってから35年もたっていた。そんなわけで今回、約20年周期の大規模な回顧展となる。
萬というと乱暴にいってしまえば、東京美術学校の卒業制作として描かれた《裸体美人》が、日本におけるポスト印象派やフォーヴィスムの代表作とされ、5年後の《もたれて立つ人》が日本のキュビスムの受容を体現する作品として知られている。美術史の教科書にもこの2点がしばしば掲載されるが、そのどちらも東京国立近代美術館の所蔵だから、さすがお目が高いというか、いいとこどりというか。まあ東近が持ってるから日本近代美術史の代表作として祭り上げられた面もあるかもしれない。ともあれ、それ以外の大半の作品は故郷の岩手県立美術館か、萬鉄五郎記念美術館の所蔵品だが、故郷の美術館に大量に入ってるということは、作品がほとんど売れず画家の手元に残っていたことの証でもあるだろう。生前はあまり評価されていなかったのだ。
出品は、油彩が131点、水彩・素描・版画が157点、水墨画が75点の計363点、資料を加えれば442点。途中展示替えがあるとはいえ、これだけのボリュームの展覧会はめったにない。意外なのは水墨画が多いこと。特に故郷に戻ってからと晩年に集中しているのは、売る目的で描いたからか。田舎では(東京でもそうだが)油絵より水墨画のほうが確実に売れるからだ。モダンアートの先駆者という顔を持ちながら、生活のために伝統的な水墨画もこなしたとすれば、画家としての評価に響いたはず。それが美術史的な評価の遅れにつながった可能性もある。
しかし一方で、萬のモダンアートは、先の代表作以外にも《風船をもつ女》にしろ《裸婦(ほお杖の人)》にしろ、日本独特(あるいは東北特有?)の泥臭さが目立ち、それは水墨画との関連で見ていかなければならないかもしれない。特に「水浴」シリーズは素描でも水彩でも版画でも水墨画でも油彩画でも試みられているが、いずれも素材が違うというだけで様式的には大差ない。むしろ初期のころは油彩と水墨を別ものとして描き分けていたのが、相互に影響し合いながら近づいていったといえそうだ。そのへんを水沢勉館長は、「それは二者択一されるべきものではなく、また、そうできるものでもなく、いうならば画家の内部に共生していた」ものであり、それが「萬鐵五郎の創作活動に楕円状の動きをあたえたように思われる」と述べている。たしかにモダンアートだけならわかりやすいが、それだけだとあまりに教科書的すぎてつまらないともいえる。そこに水墨画という異質な要素が介入することで焦点がブレ、モダンアートそのものをも撹乱させる。それが萬の芸術なのだ。と、ここまで書いてふと、これって近代日本の画家の多くにも当てはまるんじゃないかと思ったりして。

2017/07/01(土)(村田真)

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新いけばな主義

会期:2017/06/24~2017/07/02

BankART Studio NYK3F[神奈川県]

「気鋭の現代いけばな作家が集結!」「現代いけばなの歴史的展覧会」「平成のいけばな史に残るであろう本展」と、力の入った文言がチラシに踊る。流派を超えて集ったいけばな作家は計27人。うち草月流が10人、小原流が5人、龍生派、未生流、古流松藤会、一葉式いけ花などなんらかの流派に属しているのが8人、フローリスト、フラワーアーティストなどインディペンデントが4人という内訳。一人にあてがわれたスペースは、不公平にならないようにグリッド状に並んだ柱から柱まで5×5メートルの空間に統一されている。
さてその作品だが、「新」とつくからには花瓶や水盤に生ける古風な花なんぞ期待してはいけない。ベニヤ板を重ねたり、ナスを漬けたり、花びらを水に浮かべたり、およそ植物を素材にしたものならノープロブレム。しかしいけばなとして見れば新鮮かもしれないが、現代美術として見れば特に目新しいものでもなく、既視感はぬぐえない。グランプリは、これはなんという植物だろう? 肉厚の巨大な葉を重ねて龍の姿に仕立てた原田匂蘭が獲得。しかしよく見ると、グランプリの対象になるのは公募による審査を通過した12人だけで、残り15人は招待作家なのだ。これはいわゆる公募団体展と同じやり方ですね。まあ小原流も龍生派も未生流も宣法未生流も古流松應会も古流かたばみ派も、家元が出してるから落とすわけにはいかず、あらかじめグランプリの対象から外したのかもしれない。どうでもいいけど。

2017/06/30(金)(村田真)