artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ロジェ×束芋
会期:2017/07/05~2017/07/06
浜離宮朝日ホール[東京都]
フランスの印象主義音楽+吉松隆を弾く背景で、束芋らしいアニメーションが投影される。手描きをベースにしたややおどろおどろしい映像ゆえに、2人の世界の相性がよいというよりも、むしろ不思議な東西の組み合わせと言うべきか。またプロジェクションされた大きな映像の効果を際立たせるために、クラシックの演奏会ではありえない暗闇に近い状態で音楽を体験したのが印象的だった。
2017/07/06(木)(五十嵐太郎)
沖潤子 月と蛹
会期:2017/06/30~2017/07/23
資生堂ギャラリー[東京都]
古布に微細な刺繍を施す作品で知られる沖潤子の個展。ステッチの間隔を見出すことができないほど細かい刺繍は、「接合」や「装飾」という意味を超えて、独特の造形物を生んでいる。本展では、それらの造形物を白いフレームで囲ったうえで天井から吊るして見せた。ほかに、刺繍に用いた針や映像作品なども展示された。
丸みを帯びた形体と床に落ちた影。タイトルに示されているように、そこから月と蛹のイメージを連想することはたやすい。だが、沖の刺繍作品は月や蛹を具象的に再現したわけではあるまい。具象的に見るならば、それらは日の丸のようにも見えるし、機能形態的に見れば、帽子のような作品も含まれているからだ。月と蛹は、再現的なイメージの起源ではなく、おそらく何かの暗喩なのだろう。
空中をたゆたうような刺繍を見ていると、独特の時間感覚を感じずにはいられない。その浮遊感が浮き世離れした時間性を垣間見せるだけではない。刺繍という身ぶりが、それに費やされた果てしない時間の厚みを見る者の脳裏に刻みつけるのだ。狂気と言えば、そうなのかもしれない。だが、会場で実感するのは、むしろ何物にも取り乱されることのない、じつに静謐な時間の流れである。
透明度の高い時間──。それこそが再生ないしは変身の比喩である月と蛹が暗喩するイメージではなかったか。眩しい太陽や華々しい蝶を見せたがるアーティストや、それらを見たがる鑑賞者が多勢を占める姦しい時代にあって、純度の高い時間とともに、その原型を静かに想像させるところに沖潤子の真骨頂がある。
2017/07/06(木)(福住廉)
書だ! 石川九楊展
会期:2017/07/05~2017/07/30
上野の森美術館[東京都]
書には興味ないが、以前作者の著書を読んで染みる部分があったので見に行く。70年代から40年以上にわたる書を展示。書といっても初期のころは、文字を線として書くというより、面として描いている感じ。それが後半になると、線の運動になり、波動になる。こうなると文字として読もうとしてもほとんど、あるいはまったく読めないし、かといって絵として見てもモノクロームの変わった絵でしかない(変わった絵ならいくらでもあるから)。じゃあつまらないかといえば、そんなことはない。むしろとてもおもしろかった。まさに文字でもなく絵でもない、線であり印であり記号であり地図であり、染みであり、にじみであり、かすれであり、ほとばしりであり、ノイズであり、宇宙であり……じつに豊かな視覚体験であった。
そういえば最近これに近い体験をしたなと思ったら、アドルフ・ヴェルフリをはじめとするアウトサイダー・アートだ。もちろん石川はアウトサイダーではない。アウトサイダーが作品に無自覚的なのに対して、石川は自覚的にアウトサイダーたらんとしているからだ。アウトサイダーはワンパターンだが、彼はどれだけ多くのパターンを紡ぎ出せるかに挑戦しているようにも思える。またアウトサイダーは画面の枠にそれほどこだわらないが、彼は画面にきっちり収める(そのための下絵や下書きはするのだろうか)。彼は計算ずくでアウトサイダーしようとしている。彼が書の世界でどのような立場にいるのか知らないけれど、書とか華とか茶とか伝統的な「道」の内圧が強ければ強いほど、弾ける力もハンパないのかもしれない。
2017/07/05(水)(村田真)
境界を跨ぐと、
会期:2017/06/25~2017/07/06
東京都美術館[東京都]
2年前、隣接する武蔵野美大と朝鮮大の境界に仮設の橋を架け、双方のギャラリーを行き来できるようにする「突然、目の前がひらけて」という交流展が開かれた。いくつかのメディアで紹介されたこともあり、ぼくも見に行きたいと思いつつ、残念ながらかなわなかった。そのときのメンバーを中心にしたグループ展「境界を跨ぐと、」が開かれるというので、これはひょっとして2年前の交流展を振り返るドキュメント展かもしれないと思って見に行く。出品は市川明子、鄭梨愛、土屋美智子、灰原千晶、李晶玉の5人。で、期待は見事に裏切られ、タイトルどおり「境界を跨」いだあとの、つまり現在の各人の作品を紹介しているのだ。彼女たちは過去に留まってはいなかった。トホホ。仮にぼくが2年前の交流展を訪れたとしても、個々の作品を見ることより、むしろ両会場をつなぐ「橋」を渡るという体験に興味があったのだ。同様に今回もそれぞれの作品より、この5人をつなげた「橋」とその後の状況(向かい風も予想される)を知りたかったわけ。われながら失礼な話だが、本当だから仕方がない。
といいつつ、ひとりだけ目に止まった作家がいた。最初は少女趣味のイラストかと勘違いしたが、よく見るとすごく筆達者な李晶玉。会田誠か山口晃を思い出してしまった。数百円のカンパで入手した小冊子にも、「絵画内の絵画という設定は往々にしてダサい。フレーム額縁やら絵画の四角やら、出さんほうがいい。どうせ作者による虚構という事に変わりないのだから、むしろそれは構造が複雑化するほど強調されていくしかないのだから」とか「美術は脆弱だ。ピクシブは自由だからこそ、もはや不自由だ。旗は模様になるか。君が代はただの歌になるか。アリランはただの歌になるか」など、きわめて冷徹な批評性を有する文章を寄せている。彼女が今後どのように世に出るか、出ないか、楽しみにしたい。
2017/07/05(水)(村田真)
國府理「水中エンジン」REDUX
会期:前期2017/07/04~2017/07/16、後期2017/07/18~2017/07/30
アートスペース虹[京都府]
國府理(1970~2014)が2012年に発表した問題作《水中エンジン》。同作は彼が愛用していた軽トラックのエンジンを水槽に沈めて稼働させるもの。エンジンを水に沈めること自体に無理があり、2012年の個展(初お披露目)では彼がつきっきりでメンテナンスを続けていた。同作は発表時期からも分かる通り、東日本大震災の原発事故から着想したものだ。その後、2013年に西宮市大谷記念美術館(兵庫県)での個展に出品され、今年4月から6月にかけて小山市立車屋美術館(栃木県)で行なわれた「裏声で歌へ」展にも再制作版が展示されている。さて肝心の本展だが、会期を2週間ずつ前期と後期に分け、前期は記録映像とエンジンのみを吊り下げた状態で展示し、後期は再制作版と2012年の個展で撮られた写真2点で構成された。同作は震災後につくられた美術作品のなかでも特に重要なものであり、その姿が記録だけでなく(再制作版とはいえ)実物で示されたのは特筆すべき成果だと思う。別の観点でいえば、われわれはひとつの美術作品が伝説化されていく過程をつぶさに見たことになる。例えば関根伸夫の《位相─大地》のように、何十年経っても消えない美術アイコンがここに生まれたということか。こういう卑俗な発言をすると美術ファンや関係者から軽蔑されるかも知れないが、それもまた一面の事実だと思う。
2017/07/04(火)、2017/07/18(火)(小吹隆文)