artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

渡邉朋也個展「信頼と実績」

会期:2017/01/07~2017/01/29

ARTZONE[京都府]

紛失した割り箸の片割れを、手元に残った割り箸の3Dモデリングと3Dプリンタによって「復元」する。くしゃくしゃになったレシートを「折り紙の一種」と捉え、山折り線/谷折り線の折り図を起こして「再現」可能にする。ぬりえの上に殴り描きしたぐちゃぐちゃのストロークを、そっくり同形で隣のページに「反復」する。二度と同じ模様が生まれないはずのスクリーンセーバーを、もう一台のパソコンの画面に「複製」する。渡邉朋也がさまざまに開陳してみせるのは、ほとんど無価値なものの「修復・復元」や、「複製不可能なものの反復」であり、そのために高度なデジタルファブリケーション技術や徒労に近い手間ひまが惜しげもなく投入される。
こうした「鋳型と発現」「データと出力」の手続きによって現われるのは、「反復・複製における同一性と差異」の問題であり、「二対構造」は本展において「作品解説・キャプション」という制度的なレベルにおいても繰り返される。本展の構造が秀逸なのは、「作家自身による解説キャプション」と「企画者による解説文のハンドアウト」を並置し、その落差を仕掛けることで、展覧会という制度、キュレーションと共犯関係、情報の「客観性」に対するメタレベルの問いを発している点である。
懇切丁寧な説明に説明を重ねる身振りは、ともすれば情報の過剰供給に陥りがちな「現代アート」(とりわけ専門用語を交えた難解な解説を要するメディア・アート)を揶揄するかのようだ。2種類の「解説」を見比べると、企画者が執筆した解説は、中立的で客観的に見える。一方で渡邉による解説は、一見すると作品とは無関係でナンセンスに思えるが、実は作品のポイントを抽象化して吸い上げ、別の例えやストーリーに置き換えたものであることが理解される(潜在的な構造の発見と星座についての語り、「同一性と差異」の問題と落語の『粗忽長屋』)。情報の量や質によって見え方が左右されること。どのレベルの深さで読み込むかによって、解釈が可変的なものになること。それは、「私たちは何を信頼して物事を見ているのか」という問いであり、「表面」への疑いである。例えば、《作品(ars)》は、ホームセンターで買った合板の木目に、ラテン語で「技術」を意味する「a」「r」「s」の文字が見出だされたとする位置をマスキングテープで示したものだが、「企画者による解説」には「コンピュータにおける画像認識のディープランニングの過程を内面化した渡邉が、自身で「a」「r」「s」を見つけ出すに至った」という、科学技術を根拠にしたウソかホントか分からない文章が書かれている。
先端的なメディアや技術を用いつつ、私たちがそれを「信頼」する根拠の危うさや不確かさについてユーモアを込めて問う態度に、メディア・アーティストとしての渡邉の優れた本質性がある。


左:《科学と学習》2015 撮影:砂山太一 右:《作品 (ars)》2016 撮影:新居上実

2017/01/29(日)(高嶋慈)

鴻池朋子展 皮と針と糸と(根源的暴力 vol.3)

会期:2016/12/17~2017/02/12

新潟県立万代島美術館[新潟県]

「根源的暴力」展(神奈川県民ホールギャラリー、2015)、そして「根源的暴力vol.2 あたらしいほね」(群馬県立近代美術館、2016)に続く、鴻池朋子の個展。基本的な構成は以前と同じだが、作品の見せ方を変えたり、新作を部分的に加えたり、その都度新たな一面を発見させる巡回展である。
今回新たに展示されていたのは、《テーブルランナー》(2016)。鴻池が東北の各地で展開しているプロジェクト「物語るテーブルランナー」から生まれた作品で、その土地で暮らす女性たちがかつて経験した逸話を鴻池が聞き取り、さらにそれぞれの話を絵に描き起こし、それらの下図をもとに当人を含む女性たちがテーブルランナーを縫うというものだ。漬物小屋の箪笥を開けるとたくさんのネズミが出てきた話や、人間の顔と同じくらいの大きさのカエルに出会った話、悪いことをして穴蔵に閉じ込められた話、あるいは学校帰りの子どもに向けて入れ歯を外して驚かせていたおじいさんの話。いずれも公の歴史として残るような物語ではないが、だからといってたんなる個人史として括るにはあまりにも惜しい、人間の欲動や情感と深く結びついた、ある種の民俗学的な物語である。それぞれのテーブルランナーには文字が縫い込まれているほか、傍らに語り手による「語り」が掲示されているため、鑑賞者はそれらの言葉を手がかりにしながら、その情景を思い浮かべ、その語り手の肉声や表情をありありと想像するのである。
美術の専門家と美術の非専門家との協働作業。この作品を、そうしたある種のコラボレーションとして考えることは、できなくはない。けれども、鴻池朋子の作品をそのような現代美術の専門用語で解釈したとしても、いかにも物足りない。それらは、人間の条件としては不可欠でありながら実体としては不可視である「人間の想像力」を正面から問うているからだ。
今回の展示で深く印象づけられたのは、表面のイメージである。《テーブルランナー》はもちろん水平面に置かれるものであるし、素焼き粘土に水彩絵具で着色した立体作品も底が浅く広い展示ケースに並べられたせいか、水平方向に果てしなく広がってゆくイメージが強い。牛革を支持体にした平面作品にしても、《皮緞帳》のように天井から吊り下げることで光の世界と闇の世界を切り分ける境界線として見せられている作品もあれば、《あたらしい皮膚》や《あたらしいほね》のように、何枚かの牛革をキャンバスに張って絵画というメディウムを強調した作品もあるが、いずれにせよ奥行きを欠いた表面であることにちがいはない。そして、何よりも本展のタイトル「皮と針と糸と」には、表面と表面を連結してゆくイメージがある。
ただ、ここでいう表面は2つに大別されうるように思う。ひとつは、《あたらしい皮膚》や《あたらしいほね》のような牛革をキャンバス状に仕立てた作品であり、もうひとつは《皮着物》や《白無垢》のような牛革を着物に仕立てた作品である。そのように大別しうると考えられるのは、後者が見る者の視線をどこまでも深く誘うのに対して、前者はむしろ見る者の視線を跳ね返すほど固く閉じていたように見えたからだ。事実、前者の表面には牛革を外側に伸ばす張力が漲っており、見る者の視線を拒むような緊張感が漂っていたが、後者の表面はむしろ柔らかく、不在の身体を想像させる着物という外形も手伝って、私たちの視線を包み込むような抱擁感があった。前者と後者は同じ空間に正対するかたちで展示されていたため、同じ牛革というメディウムを用いた作品でありながら、想像力の質が正反対であることを否応なく痛感させられたのである。
この著しい対照性は、いったい何を意味しているのか。むろん、絵画=現代美術を切り捨てる一方、民衆の想像力=創造力を持ち上げるという一面がないわけではない。だが、より本質的には、そのような想像力の二面性に同時に立ち会うことによって、私たち鑑賞者は現代美術や民俗学といった制度的分類を超えた、根源的な想像力をイメージしたのではなかったか。
そのことを如実に物語っていたのが、《着物 鳥》である。かたちとしては着物でありながら、一枚の絵画のように見える作品だ。中央に羽を広げて翔ぶ鳥のイメージを認められるが、その躯体には森や湖が描かれているため、まるで鳥の中に大自然が広がっているように見える。しかも、その鳥のイメージの背景は、本物の鳥の羽毛で埋め尽くされているため、地と図が反転しながら同一化する世界を垣間見たような気がするのだ。部分と全体が入れ替わりうるという点でいえば、フラクタル構造として考えることもできなくはない。だが、これこそ人間の根源的な想像力を体現した作品のように思われる。イメージは特定のかたちに拘束されているわけではなく、想像力によって解放することができるし、それらの内側と外側を反転させることすらできる。「根源的暴力」とは、じつのところ「根源的想像力」なのだ。

2017/01/27(金)(福住廉)

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第65回東京藝術大学 卒業・修了作品展

会期:2017/01/26~2017/01/31

東京都美術館+東京藝術大学大学美術館+大学構内[東京都]

ヒマだったもんで見に行った。見る側のモチベーションが低かったせいか、ロクな作品に出会わない。まず都美の先端芸術表現科。全学科とも原則的に都美が学部の卒展で、芸大会場は修了展と分かれている。先端はメディアが多彩なだけに、思考がこなれてない作品は学芸会の出し物みたいに稚拙さが目立ってしまう。ビデや温水洗浄機、洗濯機などの家電の効果をpH反応液やメタモカラー、感圧紙などを使って紙に可視化した石橋遙の作品は、見た目は地味だが、改良の余地はたくさんあるけれど、やりたいことは明解だ。油画はいつになく低調な印象。楊博のペインティング《Hey, Mr. Iggy Pop》は描かれた内容もさることながら、天井に届きそうなリッパな正方形の木枠にキャンバス布を張った支持体に注目。彫刻科は、ほかの科より流行の傾向がわかりやすい。ネコ、シカ、ライオンといった動物彫刻、小型のフィギュア彫刻が最近の傾向か。おもしろいのは、人体かなにかを布で覆ったような梱包彫刻。実際に布で覆うのではなく、覆ったように木や石を彫るのだ。これはひょっとして受験時のデッサンの名残か? 藝大の美術館は佐々木敬介の《フアク》1点に尽きる。日本画の修士だが、キャンバスにスプレーで中指を突き立てた絵をグラフィティ調に描いている。フアク……感動した。勝手に村田真賞だ。絵画棟は不作で、箱の上面や本棚の前面に布を張ってペインティングした三瓶玲奈と、藝大美術館の屋上や隙間に展示スペースを増設するプランを提出した佐藤熊弥が目を引いたくらい。ああ疲れた。

2017/01/27(金)(村田真)

マルタ・ズィゲルスカ「Post」

会期:2017/01/14~2017/01/29

Reminders Photography Strongholdギャラリー[東京都]

マルタ・ズィゲルスカは1987年、ポーランド・ルブリン生まれの写真家・アーティスト。このところ、ヨーロッパ各地で展覧会を開催し、2015年には「Post」シリーズで、世界有数の銀行グループHSBCホールディングスが主催するHSBC写真賞を受賞するなど注目を集めている。
ズィゲルスカは2013年に瀕死の交通事故に遭い、その後遺症で不安神経症がぶり返すなど、写真作品の制作を一時中断せざるを得ない危機的な状況に陥った。「Post」は、そこから出発した「トラウマ、沈黙、緊張のプロジェクト」である。《大人のコートを着た少女》、《たくさんの椅子を背中や腰に背負った裸の女》、《プレスされた自動車》、《血の染みのついたコート》などの写真には、トラウマや恐れを払いのけようともがいているさまが、痛々しいほどの身体性の強いイメージとして表現されている。重いテーマだが、写真を通じての精神的な治癒への道筋が明確にさし示されていて、気持ちのいい作品に仕上がっていた。ポーランドの写真家の作品が日本で紹介されることはほとんどないので、貴重な展示の機会といえるだろう。
なお、今回の展覧会は、東京・曳舟のReminders Photography Stronghold(RPS)が公募するグラントの受賞展として開催された。RPSは2012年に後藤由美、後藤勝によって設立された。東京・曳舟でギャラリー、図書館、ワークショップ、宿泊施設などを兼ねたスペースを運営し、写真を通じて「世界で何が起きているのかを人々に伝える」活動を展開している。写真家に企画展を提案してもらい、審査委員会で選ばれた作家にギャラリースペースを無償で提供するのがグラントの制度で、今回のマルタ・ズィゲルスカ展で12回目になる。注目すべき、ユニークなプロジェクトとして育ちつつあるのではないだろうか。

2017/01/27(金)(飯沢耕太郎)

2次元×3次元  秋山祐徳太子・池田龍雄・田中信太郎・吉野辰海による平面と立体の新作展

会期:2017/01/23~2017/02/04

ギャラリー58[東京都]

平均年齢80歳を超える4人の「歩く戦後美術史」によるグループ展。歩くといってもギャラリーはよりによってエレベータのないビルの4階にあるから、会場に行くだけでも大変だ。秋山は相変わらずのブリキ彫刻とレリーフ、田中も相変わらずユーモラスなミニマルドローイング、池田も相変わらず、ホントに相変わらず丁寧なアクリル画を出している。吉野は相変わって、頭にトウガラシの突き刺さった犬の彫刻のほか、犬の目、耳、口、鼻、足の肉球をドアップで描いたドローイングを出品。これは5感を表わすという。新境地か。

2017/01/25(水)(村田真)