artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
青龍社の女性画家 小畠鼎子~苦しみながら描くことの楽しみ~
会期:2017/01/14~2017/02/26
武蔵野市立吉祥寺美術館[東京都]
小畠鼎子(1898-1964)は川端龍子の青龍社に所属していた日本画家。大正末期から晩年まで吉祥寺で長く暮らしていた。本展は、小畠の遺族から同市に寄贈された作品のうち、約20点を展示したもの。比較的小規模な展示とはいえ、小畠の画道を的確に紹介した好企画である。
青龍社といえば、日本家屋の床の間に鎮座する優美な日本画とは対照的に、近代的な美術館にふさわしい「会場芸術」としての日本画を目指したことで知られているが、おもに花鳥を描いた小畠の大作は川端龍子や横山操のような「剛健なる芸術」とは明らかに異なっている。それは、サイズこそ大きいものの、全体的な印象はむしろ大味で、筆運びもどちらかといえば粗い。まるで巨大な画面を持て余しているかのような印象だ。鳥を描いた小品が精緻で丹念な筆致で描かれていることを考えると、小畠の本領はじつのところ大作には向いていなかったのではないかとすら思える。
しかし、そのようなサイズによる質の偏りが意味しているのは、小畠の未成熟な技術というより、むしろ彼女の私的な境遇ではないか。というのも、本展でも強調されていたように、小畠鼎子の画道は彼女が家庭の主婦として家事や育児に追われながら絵筆を振るったという事実と分かちがたく結びつけられているからだ。小畠は言う。「親も兄弟も亦、他に楽しみがない身には、筆をやめては生きがいがないので御座います。少なくとも筆を持って居ります間だけは何事もなく、只それのみの世界に入る事が出来ると思ひます」。つまり、小畠にとって絵を描くことは、人生のすべてを費やすことを余儀なくされる家事労働からの一時的な離脱という一面が強かったのである。
生活圏という重力に拘束された日本画。小畠の大作が小品に比べて著しく魅力に乏しく見えたのは、おそらく、それらがいずれも彼女自身の生活圏に大きく規定されていたからである。あるいは日々の生活に追われる「主婦」という立場が、大作の制作に必要とされる十分な時間も集中力も彼女に許さなかったのかもしれない。だからこそ、その才覚はその生活圏に収まりうる小品でこそもっとも十全に発揮されたのだった。小さな和紙の上に描写された鳥たちの、なんと生き生きとしていることか。
裏を返して言えば、小畠鼎子の作品は、従来の「日本画」がいかに生活圏から遊離しているかを逆照している。川端龍子にせよ横山操にせよ福田豊四郎にせよ、ダイナミックで迫力のある大作は確かに見応えがあり、作品の質も高いことに疑いはないが、そのような大作が私たちの生活圏とほとんど無縁であることは否定しがたい事実である。いや、日本画の事大主義が戦争画と結びついた歴史的事実を思えば、むしろ「日本画のマチズモ」こそ批判的に位置づけなければならないのではないか。とうぜん、小品より大作を高く評価しがちな私たち自身の偏った視線も自己批判しなければなるまい。
2017/01/22(日)(福住廉)
endless 山田正亮の絵画
会期:2016/12/06~2017/02/12
東京国立近代美術館[東京都]
全身画家が半世紀以上にわたって描いた膨大な作品を、よくもまあこれだけ、日本各地から集めたものだと感心する。従来の展示に比べて、多くの壁を必要とするため、迷路のように空間が続く。作家の意図には反するのかもしれないが、特に異様な密度でストライプ絵画が並べられた部屋は凄まじい空間だった。
2017/01/22(日)(五十嵐太郎)
谷川俊太郎展
会期:2018/01/13~2018/03/25
東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]
谷川俊太郎が60年以上にわたって発表し続けてきたコトバ、モノ、映像など多彩な作品世界が開陳されている会場に、1982年にダゲレオ出版から刊行された写真集『SOLO』におさめられた写真群がかなり大きなスペースを占めて展示されていた。これは嬉しいことだ。というのは、谷川はとてもいい写真家ではないかと前からずっと思っているからだ。
『SOLO』はかなり実験的な写真集で、当時仕事場として借りていた新宿のワンルームマンションの一室を舞台に、日常の断片がアトランダムに切り取られ、無造作に投げ出されている。チラシや新聞記事、楽譜などのコピー、昔の写真なども挟み込まれており、その雑然とした、やや不穏な空気感は、その時期の彼のやや荒んだ精神や身体の状況を反映しているようでもある。いわば、谷川流の「私写真」というべきこの仕事を、彼が大事にしていることが、展示からもしっかりと伝わってきた。
じつは谷川にはもうひとつ、重要な写真の仕事がある。個人的な関わりもあるので、その写真文集『写真』(晶文社、2013)の作品が展示されていなかったのはちょっと残念だった。『写真』を見れば、デジタル時代になっても谷川がこの表現メディアに強い関心を寄せ続け、そのあり方について思いを巡らし、テキストを書き続けていることがよくわかる。その関心は、いまも持続しているはずだ。あらためて、「写真家・谷川俊太郎」という観点から展覧会を企画することも充分に可能なのではないだろうか。
2017/01/21(日)(飯沢耕太郎)
芳木麻里絵「触知の重さ Living room 」
会期:2017/01/17~2017/02/04
SAI GALLERY[大阪府]
芳木麻里絵は、版画(シルクスクリーン)の工程における「版の刷り重ね」がもたらす積層構造を戦略的に活用し、二次元に圧縮された画像(情報)/三次元に出力されたインクの層(物質)とのズレや差異について問題提起を行なう作家である。芳木がモチーフとするのは、レースのカーテン、チョコレートや飴の包み紙、絨毯や布張りのソファなど、「表面」の繊細な陰影や起伏、柔らかな手触りを持ち、触覚性を喚起する質感を持つものだ。作品の制作工程は、以下のような段階的な手順を踏んでいる。1)作家が「質感の気になる手にしたくなったモノ」を写真に撮影し、2)パソコンの画像編集ソフトに取り込み、光の階調に沿って形状を参考にしながら6~8版に分解する。3)アクリル板の上にシルクスクリーンで、1つの版につき数十~百回くらいインクの層を刷り重ねていく。こうして、刷られたモチーフは数mm~1cmほどの立体的な膨らみを獲得し、近寄って斜めから見ると、インクの色ごとの層が地層のように積み重なっていることが分かる。
このように、デジタル化された画像データが、積層構造の出力によって再-物質化されるプロセスは、3Dプリンターによる造形を連想させる。また、「版」という概念は複製性とも結び付く。しかし芳木の作品は、単に「元のかたちの復元・再構築」ではない。1)写真撮影=画像化によっていったん二次元へと置換され、フラットに均質化された表面は、2)版分解の操作において、質感や光沢といった感覚的な差異を増幅され、3)インクの層として多層化・物質化されて再び三次元の世界へ送り返されることで、触知可能なものへと変換される。それは、イメージを原資とし、二次元の画像世界に一方では係留されていながら、物質性を帯びた三次元の世界へとわずかだが確実にせり出している。イメージでも物質でもあると同時に、非物質的なイメージの世界にも実在的な物質の世界にも完全には定位できない。むしろ、芳木の作品が仕掛けるのは、イメージ/物質、二次元/三次元、表面/本質という二項対立の撹乱、両者を完全に弁別することへの疑義である。
それは同時に、「私たちは何にどのようにリアリティを感じるのか」という問いの提出でもある。試しに、写真画像から質感や光沢といった感覚的情報を剥ぎ取ってしまったら、のっぺりと単調になった表面は何も魅力を語らず、私たちの目を惹きつける力を失ってしまうだろう。質感や光沢は、表面に依存する点でそれ自体は自律的存在ではないものの、「繊細できれい」「柔らかくて気持ち良さそう」「つややかで高級感がある」と感じさせるリアリティの在りかを逆説的に支えている。その効果が最も発揮されるのが、印刷物やモニター画面といった二次元の画像の領域だ。芳木作品は、「表面」に現象的に付随する──それゆえ「非実体的」「非本質的」とされる質感や光沢を、物質化=実体化するという矛盾・反転によって、私たちを取り巻く画像の視覚経験のあり方を照射している。
また、本展では、新たな展開として、「空間」「奥行き」に対する意識が見られた。以前の作品では、モチーフをスキャンして得た画像データを元に、一枚のアクリル板の上にインクを刷り重ねていた。一方、本展で発表された新作・近作では、「レースのカーテンのかかった窓辺」を撮影した写真が元になり、支持体のアクリル板が5~6cmほどの厚みのあるボックス型になった。「表面」をなめるように均一に読み取っていくスキャニングの水平的な視線から、「窓にかけられたカーテン」という垂直性への移行。そこには、透明なガラス面を境に、窓の桟の影が示す向こう側の空間と、カーテンの襞の揺らぎが示す手前の空間、といった奥行きや空間的秩序が発生する。インクの物質的な多層化と、手前から奥へと展開する空間的秩序が互いに陥入し合ってせめぎ合う作品は、美しく繊細な見かけの中に、「見ること」の安定した視座を崩壊させる暴力性をも秘めていた。
2017/01/21(土)(高嶋慈)
NACT Colors─国立新美術館の活動紹介
会期:2017/01/20~2017/01/30
国立新美術館[東京都]
4時間半に及ぶシンポジウムからようやく解放されたので、気分転換に入ってみる。壁に開館から10年間に開かれた展覧会の期日や入場者数などのデータをパネル展示し、だだっ広いスペースには色のついた厖大な量の数字が吊り下がって、虹のようにグラデーションを構成し、下部は通り抜けられるようになっている。はて、なんの数字だろうと一周してみると、2、0、1が多いので、開館した2007年から10年間の西暦年号を表わしているようだ。ザッと数えてみると、5万枚ほど。10年間の総入場者数はほぼ2500万人というから、これの500倍。思ったより多いな。でもそれを数字で表せば(25000000)たった8枚で済む! 関係ないけどね。
2017/01/21(土)(村田真)