artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

梅佳代『白い犬』

発行所:新潮社

発行日:2016/12/22

梅佳代はよく、岩合光昭や星野道夫のような動物写真家たちの仕事に対して、憧れや共感の思いを語ってきた。彼女の「日常スナップ」と動物写真とは、かなり違っているように思えるが、たしかに被写体に対する距離感の測り方、シャッターを切るタイミングのつかみ方など、共通性もありそうだ。そんな梅佳代の「初の動物写真集」が本書『白い犬』である。
被写体になっているのは、彼女が18歳で写真学校に入った頃に、弟が野球部の寮から拾って来たという「白い犬」。リョウと名づけられたその犬は、石川県能登町の実家の飼い犬となる。それから17年間、帰省の度に折に触れて撮り続けた写真群が写真集にまとまった。それらの写真を見ていると、被写体との絶妙な距離感を保ちつつ、「シャッターチャンス」を冷静に判断していく梅佳代の能力が、ここでも見事に発揮されているのがわかる。リョウは時にはユーモラスな表情で、時には哀愁が漂う姿で、また意外に獰猛な野生の顔つきで、いきいきと捉えられている。どこにでもいそうな雑種の犬の、何でもない振る舞いから、奇跡のような瞬間が引き出されてくるのだ。身近だが、異質な「いのち」のあり方を写真によって問い直す、いい「動物写真集」になっていた。
この写真集は、名作『じいちゃんさま』(リトルモア、2008)の続編ともいえる。普段の瞬発的な「日常スナップ」の集積とは違って、『じいちゃんさま』のような長期にわたって撮り続けられたシリーズには、ゆったりとした時間の流れが醸し出す、民話のような物語性が生じてくる。梅佳代のなかに、「物語作家」という新たな鉱脈が形をとりつつあるのではないだろうか。

2017/01/25(水)(飯沢耕太郎)

村山康則/Rieko Honma「raison d’être─存在理由」

会期:2017/01/21~2017/01/29

BankART Studio NYK/1F Mini Gallery[神奈川県]

村山康則とRieko Honmaは、2015年にパシフィコ横浜で開催された「御苗場vol.16」に参加していた。互いの作品に共感を抱いた2人は、2年後に写真展を共催しようと考える。それが今回のBankART Studio NYKでの展示に結びついていくことになった。「raison d’être─存在理由」というタイトルには、「私たち自身の社会の中での在り方、なぜ写真を撮るのか、なぜArtが必要か、さまざまな理由を自らの視点から見つめ直し、もう一歩踏み込みもう一歩超えて行けるように」という思いが込められているという。
Honma の展示のメインは「cube」のシリーズで、透明なガラスの箱をいろいろな場所に置き、その中にモデルを入れてポーズをとらせている。箱を配置する空間の設定、撮影の条件の選び方、モデルのポージングなどがよく考えられていて、破綻がない作品に仕上がっていた。ただ、モデルがすべて若い女性であり、シチュエーションもほぼ均一で、予想の範囲に留まっているのがやや物足りない。可能性のある作品なので、さらに大胆に、予想がつかないような展開を盛り込んでいく工夫が必要になりそうだ。
村山の「T.L.G.B」も、コンセプトを先行させたシリーズである。都市空間の中で、頭上から光が下に落ちてくるような場所をあらかじめ選び、そこに誰かがちょうど通りかかった瞬間を狙ってシャッターを切る。あたかも舞台のスポットライトのような光の効果がドラマチックに作用して、見ごたえのある場面が写し取られていた。一枚だけ、自分自身がモデルとなって画面の中に入り込んだ写真があって、その「女装する」という意表をついた設定も効果的だった。写真の大きさ、フレーミングの処理など、最終的な展示効果をもう少し丁寧に押さえていけば、いいシリーズになっていくのではないかと思う。
Honmaや村山のような、次のステージに出て行こうとしている写真家にとって、このような展覧会の企画は、とてもよいステップアップの機会になる。次は「もう一歩」作品世界の内容を深めて、ぜひそれぞれの個展を実現してほしい。

2017/01/24(火)(飯沢耕太郎)

サントリー美術館新収蔵品 コレクターの眼 ヨーロッパ陶磁と世界のガラス

会期:2017/01/25~2017/03/12

サントリー美術館[東京都]

近年サントリー美術館に寄贈された2人のコレクターのコレクションを紹介する展覧会。ひとつは、野依利之氏によるヨーロッパの陶磁器で、もうひとつは故・辻清明氏による古代から近代にかけての世界のガラス器だ。
「ヨーロッパ陶磁」と聞いて筆者が想像していたのはマイセンやセーブルなどの高級磁器だったのだが、野依氏の寄贈品はマヨリカウェアやデルフトウェアなどの錫釉陶器が中心。展示を見て少々驚いたと同時に、日本でヨーロッパの錫釉陶器をまとめて見る機会はそうそうないので興奮する。展示でとても興味深いのは、意匠と技術の変遷。16世紀から17世紀のイタリア錫釉陶器にはヨーロッパ的な意匠や紋章が施されたものが多い。スペインの陶器にはイスラムの影響が色濃く見える。他方で、デザインの形式には中国磁器──とくに芙蓉手──が影響している。これがデルフトウェアになると器の形も、意匠も形式も中国磁器を模したものが中心になる。1602年に東インド会社を設立したオランダは、アジアとの貿易で大量の磁器を輸入するようになり、そのデザインを模した陶器がたくさんつくられたのだ。東洋磁器の模倣がより顕著になるのは17世紀半ば。中国の内乱でヨーロッパへの磁器輸入が途絶え、その代替品としての需要が増大したからだ。磁器の原材料であるカオリンが得られないため(知られていなかったため)製品はあくまでも陶器であったが、次第に素地は薄く、釉薬は白くなり、酸化コバルトで絵付けした上に透明釉を掛けた製品はかなりよく染付磁器を再現している。色絵磁器を模した製品もなかなかの出来である。ただし、野依氏のコレクションは置物、装飾陶器が中心なのでその質が高いということに留意しておく必要がある(デルフトの主要な製品は実用的で簡素な食器類だ)。寄贈品には他にエミール・ガレの陶器も(これも錫釉だ)。
ガラス器を寄贈した辻清明氏のコレクションは古代ローマからオリエント、中国、ヨーロッパ、日本の和ガラスにまで及ぶ。展示品を見ると、凝った造形よりもガラスという素材、質感に魅力を感じていたのではないかと思われる。
ヨーロッパ陶磁を寄贈した野依氏はガレやドームなどアール・ヌーボーのガラスを扱う美術商。ガラス器を寄贈した辻清明氏は陶芸家。ガラス商が陶磁を愛し、陶芸家がガラスを愛でたというのは、面白い。どちらのコレクションも見ていて幸せな気持ちになるのは、作品に対するコレクターの愛が見えるからだろうか。
なお、本展ではすべての作品の写真撮影が可能となっている。[新川徳彦]

2017/01/24(火)(SYNK)

ティツィアーノとヴェネツィア派展

会期:2017/01/21~2017/04/02

東京都美術館[東京都]

いくら日伊国交樹立150周年記念だからといって、つい数カ月前に「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展を見たばかりなのに、今度は「ティツィアーノとヴェネツィア派展」かよ。たくさん見られるのはありがたいけど、贅沢いわせてもらえるなら、ひとつにまとめて「拡大版ルネサンス・ヴェネツィア絵画展」として見せてほしかった。でも前者はTBSと朝日新聞社、後者はNHKと読売新聞社の主催だからありえないね。ちなみに両展とも出品作家は目玉のティツィアーノをはじめ、ベッリーニ、ティントレット、ヴェロネーゼとずいぶん重なっているが、ティツィアーノ作品に関しては今回のほうが明らかに上。なにしろ今回はフィレンツェのウフィツィから《フローラ》、ナポリのカポディモンテから《ダナエ》《マグダラのマリア》《教皇パウルス3世の肖像》の計4点が来ているからね。とりわけ女性ヌードの上に金貨が降り注ぐ《ダナエ》は、いくつかのヴァリエーションがあるなかでも絶頂期の傑作だ。これに比べるとベッリーニもティントレットも見劣りするなあ。ティツィアーノの偉大さを証明する展覧会でもあるようだ。

2017/01/24(土)(村田真)

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池田学展 The Pen ─凝縮の宇宙─

会期:2017/01/20~2017/03/20

佐賀県立美術館[佐賀県]

細密描写の超絶技巧で知られる池田学の個展。幼少時に描いた絵画から東京藝術大学の卒業制作、その後の代表作、そしてアメリカ・ウィスコンシン州で3年ものあいだ滞在しながら制作した新作まで、約120点に及ぶ作品によって池田の画業の全貌に迫る本格的な回顧展である。おおむね時系列に沿って作品を展示した構成は堅実だが、要所で資料や映像を見せるなど、ほどよく抑揚をつけているため、最後まで飽きずに楽しむことができる。まちがいなく、見逃してはならない個展だ(同館ののち、金沢21世紀美術館と日本橋高島屋に巡回する予定)。
1ミリにも満たない線の重なり──。このほど刊行された画集(池田学『The Pen』青幻社、2017)でも存分にその細密描写の妙を味わうことはできるにせよ、その絵肌を肉眼で鑑賞することができる点が本展の醍醐味である。細密描写というと強い筆圧の狂気を連想しがちだが、池田の線はむしろ柔らかい。いや、むしろ「弱い」と言ってもいい。結果として画面に出現した対象の量感性が大きいぶん、その構成要素である一本一本の線のはかなさが際立って見えるのである。
内向的な求心力と外向的な遠心力の拮抗。あるいは、見る者を画面に誘わずにはいられない繊細な線の技巧と、見る者をのけぞらすほどのマッスの圧倒的な迫力との同時経験。池田絵画の真髄は、そのような相矛盾する志向性が絶妙な均衡を保ちながら同居している点にある。いずれか一方に傾いてしまえば、全体の統一性や有機的な調和がたちまち破綻してしまいかねない。思わずそのように危惧してしまうほど、それは鑑賞者の視線すらも危ういバランス感覚に巻き込むのだ。事実、展覧会場を出た後に残る心地よい疲労感は、細部に目を凝らした眼精疲労というより、バランス感覚を研ぎ澄ましながら全身の筋肉を躍動させるロッククライミングのそれに近い。
考えてみれば、このような快い疲労感は日本の絵画史上稀に見る経験ではなかったか。外来の理論や現代思想を鵜呑みにしてきた類の抽象絵画は、鑑賞者にも同じ水準の知的努力を強要したため、絵画を堪能する視線の快楽を奪い取ったばかりか、知的徒労感だけを残してやがて滅んだ。その後に現われた具象的な傾向の強い現代絵画にしても、理論や思想を無邪気に退ける一方、アニメやマンガの意匠をふんだんに取り込むことで同時代性を獲得しようとしたが、結局のところそのようなイメージを絵画で表現する必然性に乏しいため、世代的な共感は呼んだかもしれないが、真の意味での同時代性を獲得するには至っていない。特定の趣味と結託した世代論ほど退屈かつ厄介な言説はほかにあるまい。
これらに対して池田学の絵画は、絵画を鑑賞する視線の快楽を肯定する身ぶりを一貫させることによって、現代絵画が陥りがちなそのような徒労感を巧みに回避している。事実、池田の絵画を前にした私たちは、細部と全体のあいだに視線を幾度も往復させることができるし、平面に沿って水平方向に滑らせることもできれば、平面に対して垂直に奥深く突き刺すこともできる。しかも池田の絵画は、基本的には再現性の高い具象絵画だが、随所にリアリズムの観点からは不自然なイメージが織り込まれているから、それらの意味や連関を想像する楽しみもある。あえて極論を言えば、池田学の絵画の前に立ったとき、私たちは、たとえ空前絶後の疲労感に襲われたとしても、その一方で、いつまでも絵を鑑賞していられるような、ある種の永遠性の感覚に包まれるのだ。おのれの眼球がかつてないほどの悦楽を味わっていることを自覚できること。それこそ凡百の現代絵画には到底望めない、池田学の絵画ならではの特質にほかならない。

2017/01/23(月)(福住廉)

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