artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

赤鹿麻耶「あかしかまやのオープンスタジオ」

会期:2016/12/01~2017/01/11

ビジュアルアーツギャラリー[大阪府]

赤鹿麻耶は2015年に大阪と東京で開催した「ぴょんぴょんプロジェクト」をきっかけにして、作品と会場とを一体化して、観客が自由に鑑賞できるような展示のスタイルを模索している。今回は、大阪・桜橋のビジュアルアーツ専門学校大阪のギャラリーを「オープンスタジオ」として開放し、期間中に制作した写真作品やオブジェを加えて「約一カ月間、すこしずつ変化してゆく展覧会」を開催した。
最終日になんとか間に合って、展示を見ることができたのだが、会場にはプリンターやモニターが持ち込まれ、展示作品は天井、壁面、床一面に増殖していた。いつも通り、ややエキセントリックな周囲の人物たちのパフォーマンスを記録した写真が多いのだが、連続的に撮影した写真をそのまま並べていくことで、インスタレーションにアクセントがついている。ただ、事前の予想を超えた破天荒な展示だったかといえば、そうでもない。専門学校に付設したギャラリーという制約もあったのかもしれないが、もっと展示という概念自体をひっくり返すような過激さ、過剰さが欲しかった。コンセプトそのものはとても面白いので、場所を変えて何度かトライできるといいと思う。
会場の床に紙が置かれ、その上に写真の束がまとめてあった。そこに記されていた言葉が興味深い。「存在」、「始まり・起源・入り口」、「さそい・いざない」、「うたがい」、「実験」、「コトバ・夢・ねむり」、「発見」、「植物・共存」、「感動・リアル・生・出口」、「感触・予感」。彼女なりに、自分の作品をいくつかのカテゴリーに分類しようという試みなのだが、これらの言葉に沿って写真を再組織していけば、新たな方向性が見えてくるはずだ。まだやりかけの作業のようだが、ぜひ最後まで続けていってほしい。

2017/01/11(水)(飯沢耕太郎)

アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国

会期:2017/01/11~2017/02/26

兵庫県立美術館[兵庫県]

アドルフ・ヴェルフリ(1864~1930)は、アール・ブリュットを代表する作家であり、ジャン・デュビュッフェがアール・ブリュットという概念を提唱するきっかけとなった作家の一人でもある。彼は精神病院で全45冊・25,000ページにおよぶ膨大な物語を綴った。それらは絵、文字、楽譜などで構成されており、本展では彼の最上級の作品74点を見ることができる。その感想を一言で述べると、やはり「圧巻」の一言。妄想的イマジネーションによるディープな物語世界が、凄まじい強度と執拗さで展開されており、画面を埋め尽くす図柄、文字、楽譜から目が離せなくなる。一方、彼の作品にはある種の中毒性があり、没入するのは危険だとも思った。現在日本では、アール・ブリュットを単に障害者アートとして取り上げることが多い。そこでしばしば語られるのはSMAPの楽曲『世界に一つだけの花』的な心あたたまる世界だが、そんな価値観を持つ人にこそ、本展を見てもらいたい。アール・ブリュット(生の芸術)とは本来どういうものかが分かるはずだ。

2017/01/11(水)(小吹隆文)

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荒川朋子 個展「つぼ」

会期:2017/01/07~2017/01/15

KUNST ARZT[京都府]

荒川朋子は、民俗信仰のご神体や秘教めいた呪具、性器を象った儀礼的オブジェを思わせる木彫をつくり、その表面を体毛のような毛が覆ったり、長い黒髪が垂れ下がる彫刻作品を発表している。コロンと丸みを帯びたフォルムは愛らしいが、ツルツルに磨きこまれた表面は、体毛のような毛が生えることで人間の皮膚を思わせ、グロテスクで何とも薄気味悪い。
加えて本個展では、陶で制作した壺の表面にびっしりと「植毛」を施した《毛の生えた壺》が発表された。表面の滑らかさを嘲笑うかのように、毛穴のような極小の穴から「生えた」無数の毛。それは「皮膚」へと接近し、「彫刻」において捨象されてきた「表面(表皮)」と「触覚性」の問題を前景化させる。「表面に毛を生やす」荒川の作品は、視覚的フォルムと空間に占めるボリュームの問題として制度化されてきた彫刻に対して、捨象・抑圧されてきた「表面(表皮)」及びその「触覚性」を取り戻す批評的試みである。また、「彫刻」がその外部へと排除してきた民俗的・宗教儀礼的なオブジェを擬態していることを合わせて鑑みれば、「彫刻」の制度に対する二重の批評性を胚胎させていると言えるだろう。
さらに、荒川が表面に生やす「毛」の素材が、「つけまつ毛」であることに注目したい。つけまつ毛は本来、女性の目をパッチリと大きく美しく見せるために付けるものだ。しかしここでは、表面をびっしりと覆うまでに過剰に増殖し、グロテスクな変貌を遂げている。「表面の過剰な装飾」という点でそれは、携帯電話や小物の表面をキラキラのビーズやラインストーンで覆って多幸感あふれるオブジェに変身させる「デコ」という現代女性の文化・嗜好とも通じる感性だ。だが荒川は、女性をカワいく見せる「まつ毛」という増やしたいものを過剰に増殖させることで、「毛(ムダ毛)」という除去すべき(とされる)ものへと変貌させてしまう。「美」へのオブセッショナルな欲望が増幅されることで、むしろグロテスクでおぞましいものへと反転してしまうこの転倒した身振りは、女性が抱える「美(=他者からの肯定)」の強迫観念に対する批評としても解釈できる。荒川作品は、「ムダ毛」という、忌み嫌うべきものであるからこそ執拗に回帰してくる存在を「祓い、鎮める」現代の呪具なのだ。

2017/01/10(火)(高嶋慈)

中原浩大 Educational 前期

会期:2017/01/07~2017/01/21

ギャラリーノマル[大阪府]

本展は中原浩大の個展であり、もちろん彼の作品が展示されている。しかし、そのほとんどは幼児から少年時代の中原、つまり美術家になる前の彼が描いた作品である。展覧会は前後期に分かれていて、筆者が取材した前期では、彼が2歳から幼稚園の頃に描いた絵が展示されていた(現在の作品も別室で展示)。そこで見られるのは幼児ならではの自由なものだが、幼稚園に入るとテレビ番組のヒーローが登場するようになり、同時に一種の定形化というか、社会的矯正のようなものが混じってくる。なるほど、人は幼稚園の頃から社会化が始まるのか。一方でこれら幼児期の絵には現在の中原のエッセンスが詰まっているようにも見え、一人の芸術家が形作られていく過程として興味深く見ることができた。後期(1/23~2/4)には小学校以降の作品が展示される。少年・中原浩大の絵がどのような軌跡をたどっていくのかに注目したい。それにしても彼のご両親は、よくもこれだけ大量の絵を保存していたものだ。確か父母ともに教師だったと記憶しているが、我が家とは大違いだ。

2017/01/10(火)(小吹隆文)

董其昌とその時代─明末清初の連綿趣味─

[東京都]

会期: 2017/01/02~2017/02/26  東京国立博物館
会期: 2017/01/04~2017/03/05  台東区立書道博物館

14回目となる東京国立博物館と台東区立書道博物館の連携企画は、明時代に文人として活躍した董其昌(1555~1636)の書画の特集。董其昌は書においてははじめ唐の顔真卿を学び、王羲之ら魏晋の書にさかのぼった。画においては元末四大家から五代宋初の董源にさかのぼり、宋や元の書家の作風を渉猟。文人画の伝統を継承しつつものちに奇想派と呼ばれることになる画家たちの作品の先駆けとなる急進的な描法による作例も残した。董其昌が生きた時代は明王朝から清王朝への移行期。清の康煕帝と乾隆帝が董其昌の書画を愛好したことで、その影響は大きく、その理論と作風は江戸期の日本の書画にも反映されているという。展示は東博会場と書道博物館会場でそれぞれ董其昌前夜から同時代、日本を含む後世への影響までを国内所蔵作品により6つの章で紹介している。出展作品の中でとくに興味深く見たのは、「行草書羅漢賛等書巻(東博会場)」、「臨懐素自叙帖巻(書道博物館会場)」。いずれも唐代の書家・張旭、懐素らがはじめた狂草とよばれる、草書をさらに崩した書だ。
董其昌には書画に関する優れた鑑識眼を持ち、後代にまで影響を与える作品を残した書家としての評価がある一方で、人物的には大いに問題があったようだ。35歳で科挙に及第した董其昌は10年後にいったん官職を辞しているが、その後官職への復帰と辞職をくりかえすなかで権力を濫用し、高利貸しなどによって蓄財、それを広大な邸宅の建築、書画の蒐集や趣味に費やし、美しい女性たちに囲まれて暮らした。本展図録のコラム「画禅室余話─董其昌の光と闇─」では、董其昌の人物面について、こうした興味深いエピソードがいくつか紹介されている。[新川徳彦]


2017/01/10(火)(SYNK)