artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
未来を担う美術家たち 19th DOMANI・明日展 文化庁新進芸術家海外研修制度の成果
会期:2016/12/10~2017/02/05
国立新美術館[東京都]
「文化庁新進芸術家海外研修制度の成果」を見せる展示。これまでは派遣されてから20-30年もたつ還暦すぎの作家もいて、なにかアナクロというかナツメロな空気も漂っていたけど、今回は大半が2010年以降に派遣された70-80年代生まれの現役バリバリのアーティスト13人。といってもバリバリに感動するような作品にはなかなか出会えない。そもそも「成果」を発表する場なのに、旧作を出す人もいれば新作ばかりの人もいて、海外に滞在・制作してどんな成果が上がったのかはわかりにくい。まあ「使用前/使用後」みたいにわかりやすいのもウソっぽいけどね。いくつか目に止まった作品を挙げると、ホラー的なものを描いた岡田葉の30点を超す不穏な絵画、コマ撮りで津波を表現した折笠良によるクレイアニメ、クシャクシャにしたレースを陶で再現した保科晶子のインスタレーション、済州島の海女学校を卒業した山内光枝による防潮堤の前で撮ったヌードなど。最後の部屋の金子富之は、派遣先のカンボジアの宗教美術に感化されたとおぼしき大作絵画3点を出しているが、それより100冊以上はあろうかというドローイングノートに惹かれた。神仏像の詳細なスケッチに、細かい字でびっしりとメモが書かれている。本人は作品のつもりで出したわけじゃないと思うけど、どの作品より心を動かされた。
2016/12/17(土)(村田真)
宮田彩加「裏腹のいと」
会期:2016/12/10~2016/12/25
Gallery PARC[京都府]
宮田彩加は、大学で染織を専攻し、手やミシンによる刺繍をベースにした作品制作を行なっている。手塚愛子、伊藤存、青山悟、竹村京、秋山さやか、清川あさみなど、刺繍という技法を用いる現代美術作家は珍しくないが、宮田が注目するのは「コンピューターミシン」の特性を逆手に取った表現だ。コンピューターミシンでは、専用ソフトで作成した刺繍図案データを読み込ませ、糸の色や密度、ステッチの種類などを指定すると、コンピューター制御されたミシンが自動的に図案を刺繍してくれる。この入力→出力のスムーズな回路に対して、宮田は意図的なバグ(画像データ上の空白)を介入させることで、予想外の糸の振る舞いを出現させている。「WARP」シリーズでは、野菜や果物のイメージを緻密に紡いでいた糸が、不自然な段差や縫い目の飛んだ空白といった「エラー」を生み出し、バーコード状に露出した糸のグラデーションの美しさを見せるとともに、突然変異を起こしたかのような変容のイメージを生み出す。こうした生物学的な関心は、ダーウィンの進化論を支持したドイツの博物学者エルンスト・ヘッケルが描いた、放散虫や珪藻類、植物などの精緻な生物画をモチーフにした作品例からもうかがわれる。宮田は、コンピューターミシン/生物学的図像という制作手段/モチーフを組み合わせることで、「プログラム制御とバグの介入」を「有機的生命体の創造的進化」へと読み替える。それは、バグやエラーの意図的な侵入によって、完全に制御されたシステムの完結性や管理の徹底性に対して亀裂を入れる抗議的振る舞いであると同時に、予定調和を外れた分岐的な可能性を肯定する態度である。
また、新作「MRI SM20110908」のシリーズは、自身の脳のMRI画像を元にした刺繍作品。糸の密度を分厚くすることで、布という支持体を無くし、多層的な糸の絡まり合いだけで構築されている。肉眼視できない身体の断面、しかも厚みを持たないはずの画像データが、糸という物質に置換され、さらに刺繍の特性のひとつである「裏」面(と「表」面との落差)も見ることができる。「制御されたプログラムとバグの侵入」という今日の社会状況へ敷衍できる批評性に加え、画像データと物質、イメージと認識、手工芸と機械生産、「裏」面の存在を忘却した絵画への批評という支持体をめぐる問題など、さまざまな示唆をはらんだ展示だった。
2016/12/17(土)(高嶋慈)
後藤靖香展「必死のパッチ」
会期:2016/12/16~2017/01/21
京都精華大学ギャラリーフロール[京都府]
後藤靖香は、祖父や大叔父など親族の戦争体験を基に、劇画を思わせるマンガ的な筆致で絵画化した作品で知られる。コマ割り、フキダシ、集中線や記号化された擬音といったマンガの表現文法はないものの、大胆にデフォルメされたパースや構図で、目鼻立ちの特徴を強調した人物を躍動感に満ちた線で描く後藤の作品は、マンガとの親近性を強く感じさせる。親族の出征体験を「戦地の若者群像」として絵画化した初期の作品群は、「アメリカの軍事的庇護の下で経済的に繁栄した戦後日本が、戦争の記憶(とりわけ加害の記憶)を忘却しつつ、サブカルチャーのオタク的欲望の中で戦争イメージを肥大させてきた」という図式の範疇に連なるものではあった。
一方、近年の後藤は、展示場所の歴史や記憶に関するリサーチをベースに制作を行なっている。大阪の元造船所とかつてそこで働いていた設計技師たち、東京の第一生命ビルと戦時中の暗号解読作業、広島の被爆建築として現存する元銀行と植字工育成施設としての前史などが主題化されてきた。「ここではないどこか」の/どこにもない架空の戦場という閉鎖空間の中の若者たちの群像劇から、固有の場所や建築が内包する「近代史」「近代産業と戦争」といったフィールドへの拡張がなされてきたと言える。本個展では、祖父の軍服の徽章(所属や階級を表わすバッジ)が、京都の西陣織でつくられていたことに着目した新作《必死のパッチ》が発表された。徽章を掌にのせてこちらに差し出す職人風の男性を中央に、「陸軍航空士官学校」「陸軍少年飛行兵」「海軍主計」「軍属胸章」などそれぞれの所属や階級を示す徽章を身に付けた十数名の男たちが集合する、架空の記念写真のような大画面だ(個性豊かな表情に加え、制服も描き分けられている)。西陣織物館に保管されていた、実物の西陣織の徽章の見本帳も合わせて展示されており、興味深い。戦時下で物資統制が強まるなか、高価な着物や帯は贅沢品として禁止され、織機などの機械も売却や供出で約60%が廃止されたという。一方、太平洋戦争末期の昭和19年、軍部は徽章を金属の代わりに西陣織で代替生産することを決定し、大量発注した。織物業者たちは戦争で途絶えかけた技術の継承に活路を見出したという。戦争と産業振興の皮肉な関係が、伝統工芸にまで及んだことを示すエピソードだ。
ここで、後藤の絵画作品における「マンガ的」な描画スタイルが孕む問題圏の射程について触れたい。祖父や大叔父の出征体験を基に絵画化した初期作品を初めて見たとき、私はマンガ『はだしのゲン』を直感的に連想した。後藤作品は、「戦争=男性の物語」を、戦争画=リアリズム絵画の代わりに、戦後に大いに発達した「マンガ(青年・少年向けの劇画)」というメディアの描法を用いて絵画化している。つまりそれは、自身が直接体験していない他者の記憶を、「マンガ(劇画)」という共有された表象のコードを介して視覚化することで、どのように伝達・共有できるのか、という記憶の語り方や共有の問題に関わっている。後藤の作品が呼び起こすのは、「戦争の記憶」そのものではなく、「戦争の記憶をマンガなどサブカルチャーの表象を通して受容した」という媒介された経験の記憶なのである。
また、マンガがジェンダーと密接に関係するメディアであることも無視できない。後藤作品の特徴のひとつは画面の巨大さにあるが(《必死のパッチ》の横幅は10mを超える)、劇画風の描画に加えて、記念碑的なサイズに拡大して描くことで、絵画的なスケールが持つ視覚的快楽を提示するとともに、戦争=「男性」の物語が孕むマッチョさを強調していると言えるだろう。そこには、困難な状況下で生きる男性たちへの理想像の投影とともに、現代に生きる女性作家としての後藤の批評的な眼差しがある。
2016/12/17(土)(高嶋慈)
VvK Programm 17「フクシマ美術」
会期:2016/12/13~2016/12/25
KUNST ARZT[京都府]
VvK(アーティストキュレーション)の17回目は、KUNST ARZTを主宰する岡本光博がキュレーションした「フクシマ美術」。岡本がこれまで企画した「美術ペニス」(2013)、「モノグラム美術」(2014)、「ディズニー美術」(2015)に続き、自主規制や検閲とアートの問題も内包した、問題提起的なグループ展だ。
出品作品は、「フクシマ」を直接的に主題化したものと、直接的なメッセージ性を超えた射程を持つものとに二分される。前者に属すのが、瓦礫になった被災地の若者と円陣を組んで気合いを上げるChim↑Pom《気合い100連発》と、岡本光博と井上明彦の作品だ。岡本は、放射性汚染土を詰めた黒い袋(フレコンバッグ)に目玉と足を付けてキャラクター化し、「漏れ」を掛け合わせて「モレシャン」と命名。ポップにかわいく変容させて「無害化」することで、逆説的に得体の知れない不気味さを増幅させるとともに、「土地の精霊」を思わせる彼らが打ち棄てられた風景を可視化させる。また、井上は、会津磐梯山や猪苗代湖など福島県の地形を模型化し、汚染土壌の仮置場用の遮水シートでその上を覆った。観客は、靴を脱いでその上を歩くことで、土地の起伏とともに、「何かが隠されている」違和感を足裏への抵抗として感じることになる。
一方、「フクシマ」の直接的な主題化を超えて、「境界線」や、鎮魂と想起の営みについてそれぞれ言及していて秀逸だったのが、やなせあんりと吉田重信。やなせの《線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)》は、2015年夏、国会周辺のデモに集った群衆の足元の道路に、「チョークで線を引く」パフォーマンスの記録映像である。問い質す警察官、「こちら側を歩けってこと?」と聞き返す人、「コンタクトレンズを落としたのか」と心配する人。「線を引く」というシンプルな行為が、周囲のさまざまな反応を引き起こし、撹拌しながら、デモという一時的な共同体をいつの間にか二つに分断してしまう。その行為は、擬似的に一体化した群衆の内部に主張や立場などのさまざまな差異が潜在することを露わにするとともに、地震による亀裂という物理的な線、「原発20km圏内」や警察の規制線といった人工的な境界の恣意性、さらに当事者/非当事者の線引き、分断や排除の構造の可視化など、「線(境界線)」が孕む意味の多重性を提示していた。
また、福島県いわき市在住の吉田重信が震災後に取り組む《水葵プロジェクト2016》も紹介された。「水葵」は、湿地の干拓によって姿を消した準絶滅危惧種だが、津波の被害を受けた海岸沿いの水田跡などに自然に群生している姿が発見された。地表がえぐられ、古い地層に眠っていた種子が自然に発芽・開花したものだという。吉田は水葵の花の写真の展示とともに、採取した種子を鉛でくるんで配布し、共に育てていく協力者を募る取り組みを行なった。毎年夏に青紫の花を咲かせる水葵は、一年草のため、種を採取して再び撒かなければ次の年に引き継げない。花の開花と種の採取という、一年毎に繰り返すサイクルや回帰性は、鎮魂の営みであると同時に、想起の営みや記憶の継承それ自体の謂いとしても象徴的だ。元の場所から人の手によって運ばれ、故郷の喪失と移動を繰り返しながら受け継がれていくこと。種の遺伝情報を受け継ぎながらも発芽・開花の度に異なる形態的現われを持つこと。それは、想起の営みが、場所・時間の断絶によって駆動すること、過去の完全な復元ではなく変容を孕むことを、自然の無慈悲なまでの残酷な美しさとともに象徴的に示していた。
2016/12/17(土)(高嶋慈)
ようこそ!横尾温泉郷
会期:2016/12/17~2017/03/26
横尾忠則現代美術館[兵庫県]
お風呂が恋しい季節に合わせて、横尾忠則が銭湯や温泉を描いた絵画、版画、ポスターが集められた。展示の主体になったのは2つのシリーズ。ひとつは2004年に元銭湯の画廊SCAI THE BATHHOUSEで個展を行なった際に発表した「銭湯シリーズ」、もうひとつは2005年から約3年間にわたる誌連載のために描かれた「温泉シリーズ」だ。その合間に、1970年代から現代までの全国各地を描いた作品も配置された。筆者が注目したのは「銭湯シリーズ」である。横尾が子供の頃に母に連れられて入った女湯の記憶を元にした同作では、画中に鳥居清永、ピカソ、ドローネ、デュシャンらの引用が散りばめられており、作品の上下左右が繋がるように描かれるなど仕掛けが満載だった。また本展では城崎温泉などから協力を仰ぎ、会場内に蛇口、洗面器、脱衣籠、脱衣箱、扇風機、体重計などが配置され、観客が座って観覧できる座敷や浴槽、さらには温泉卓球ができる卓球台まで用意されていた。こうした演出もあり、本展は非常に楽しい展覧会に仕上がっていたのだが、記者発表時には横尾からは「まだまだ遊びが足りない」と駄目出しが出ていた。学芸員はつらいよ。でも、毎回作家から厳しいチェックを受けることで、彼らは鍛えられていると思う。
2016/12/16(金)(小吹隆文)