artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
鈴木理策「Mirror Portrait」
会期:2016/11/26~2016/12/24
タカ・イシイギャラリー東京[東京都]
肖像写真がずらりと並ぶ。が、伏し目がちだったりあらぬ方向を見ていたり、なにか違う。瞳を見ると白い点々が四角く映り込んでいる。じつはこれ、ハーフミラー越しに撮ったもの。ふつう肖像写真を撮るときモデルは撮影者と対面するけど、今回モデルは鏡に映った自分の顔を見ながら撮られたわけだ。もちろん撮られることは知っていたとはいえ、撮影者と対峙するのに比べてリラックスしているように見える。これは性格まで映し出されそうだな。奥の部屋に行くと周囲に電球のついた四角い鏡があった。瞳に映っていたのはこれだ。
2016/12/21(水)(村田真)
フォトモ作品展
会期:2016/12/14~2016/12/24
東京宝くじドリーム館[東京都]
東京宝くじドリーム館で開催されている糸崎公朗のフォトモ作品展へ。つくり方のノウハウを体験してから見ると、また違って見える。ここの宝くじの歴史展示も興味深い。日本では天保の改革以来、長く禁止されていた宝くじが、1945年に戦費調達のために再開したものの、すぐに敗戦。今度は復興宝くじや、焼け跡の住宅難を踏まえて、一戸建てが当たるくじが出現したという。
2016/12/21(水)(五十嵐太郎)
奥山由之「Your Choice Knows Your Right」
会期:2016/11/19~2017/04/02
RE DOKURO[東京都]
東京・千駄木の裏通りにあるギャラリースペースには、モノクロームの写真が23点並んでいた。それらをざっと見て、都市的なモノ、ヒト、風景がちりばめられたカッコいい写真だと思ったのだが、展示のコンセプトがいまひとつ呑み込めなかった。会場に置いてあった、大判の写真集とチラシを手に取ってみて、ようやくそのバックグラウンドがわかった。
写真集は、千駄木を拠点とするファッションショップのウルフズヘッドの25周年を記念した2冊組の特装本(『WOLF'S』と『HWAD』、ブックデザイン=町口覚)で、そのうち『WOLF'S』のパートの写真を奥山が担当している。今回の展示は、特製のハワイアンシャツを着た100人の関係者を撮影したその写真集の副産物だったのだ。といっても、ハワイアンシャツとモデルをフィーチャーした写真は少なめで、むしろその周辺で拾い集められた場面が中心になっている。写真を分割してグリッド状に配置したり、2枚の写真を同じフレームにおさめたり、写真の上に写真を貼ったりする小技も気が利いていて、相変わらずの映像センスのよさが発揮されていた。
とはいえ、2016年1月~2月の個展「BACON ICE CREAM」(パルコミュージアム)でも感じたのだが、奥山にはぜひファッションの引力圏から離脱した写真にチャレンジしてほしい。「いつ、何をどう選び、誰と共に握りしめ、どこへ向かうのか。選択の日々を生きる僕らは、目の前に見えるそれらが即ち自分自身でもあります。自己とは他者のあらゆる事象であることに気が付いた」。展覧会のDMに掲げられたこのメッセージは、彼が自己といまの世界との関係のあり方をきちんと認識し、思考できることを示している。繰り返しになるが、ファッションから遠く離れて、さらに先へ、写真で何ができるのかを手探りで求め続けていってほしい。
2016/12/21(水)(飯沢耕太郎)
前谷開「Drama researchと自撮りの技術」
会期:2016/12/14~2016/12/20
Division[京都府]
写真家・前谷開の本個展は、先立って上演された舞台作品に前谷自身が写真家として出演し、舞台上で同時進行的に「撮影」した写真を展示するというものだ。この舞台作品『家族写真』は、演出家・振付家と写真家が協働して制作する企画『わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした』のひとつとして、2016年8月に上演された(この上演の詳細は、以下のレビューをご覧いただきたい)。
『家族写真』は、舞台中央に置かれた簡易テーブルの周囲に、男女の出演者6名が集い、「父親」役が自分の死と生命保険について語ったり、激しい動きのソロやデュオが展開される作品だった。そこで描かれる「家族」「家庭」は、テーブルが象徴する一家団欒の温かい光景とは裏腹に、不協和音や痙攣的身体に満ちた不穏なものだった。前谷はこの「家族」の一員を演じつつ、時折、舞台の端に身を引いては三脚に据えたカメラを操作し、三脚を移動させ、内部と外部、見られる客体と見る視線を行き来しながら撮影を行なっていたが、上演時にはそれらのイメージ自体を見ることはできなかった。
本展で展示された「上演時に撮影された写真」は、奇妙な印象を与える。「自撮り」と題されているように、それらはすべて、ダンサーたちが激しく交差する舞台上でただ一人、静止してこちらを見つめる前谷自身の「セルフ・ポートレイト」なのだ。前谷は、自分が写らない舞台上の光景を「外から」撮影していたのではなく、レリーズ(カメラのシャッターボタンに取り付けるケーブルで、遠隔でシャッターを切るための道具)を舞台上で操作し、密かに「自撮り」を行なっていたのである。これらの写真を眺めていると、舞台の鑑賞時と見え方の印象が反転する。生の舞台の鑑賞時、私の眼は動いているダンサーに注がれ、前谷の地味な動作は後景に退きがちだった。一方、写真では、ダンサーの激しい動きはブレやボケとなって曖昧に希薄化し、フレームアウトして「意味の中心」から退くのに対して、こちらを見つめ返す前谷の存在が突出して前景化し、「異物」として見えてくる。
加えてここでは、舞台のフレームと写真撮影のフレームという、視線のレイヤーの二重化が起きている。自撮りという身体的行為の介在によって、舞台のフレームの正面性が撹乱され、解体され、瞬間的な凍結がいくつもの切断面に切り分けていく。連続した時間の流れはコレオグラフィの構成という必然性から切り離され、「シャッターの遠隔操作による自撮りのタイミング」という別の必然へと転送される。
この転送の結果として切り取られたイメージでは、作為と偶然、静止した一瞥と運動の軌跡の揺らぎが一つの画面内に奇妙に同居する。そこでは、「予め厳密に振付られた動き」がむしろ予測不可能なブレやノイズのように現われ、「振付られた身体の運動」というフィクションが曖昧なブレによって意味を解消させられていく一方で、その合間を縫って遂行された「撮影(自撮り)」が、強い作為性をまとって屹立し、写真という別のフィクションの機制を浮かび上がらせる。前谷は、舞台という「一方的な視線に晒される場」に自らも立ちながら、しかし同時にこちらを「見つめ返す」ことで眼差しの主体性を取り戻そうとする。そのとき、写真の中の前谷の眼差しを受け止め、(疑似的に)視線を交わす観客は、フレームの解除と再設定、眼差しの主体性の回復という企てに立ち会う目撃者として、共犯関係に巻き込まれるのだ。
関連レビュー
2016/12/20(火)(高嶋慈)
プレビュー:クラーナハ展 500年後の誘惑
会期:2017/01/28~2017/04/16
国立国際美術館[大阪府]
すでに国立西洋美術館で見た人も多い「クラーナハ展」を今さら取り上げるのもどうかと思うが、未見の筆者としては大阪展が楽しみでならない。その理由は当方のドイツ・ルネサンス(北方ルネサンス)体験の乏しさにある。まとめて作品を見たのはデューラーぐらい。いや、大昔の海外旅行でボッスも見たか。でもそれぐらいで、ブリューゲルやクラーナハは皆無に等しい。大体、昔は「ルーカス・クラナッハ」と表記されていて、それも絵ではなく山本容子の著作『ルーカス・クラナッハの飼い主は旅行が好き』(徳間書店、1989)で知ったぐらいだ。その後も森村泰昌の作品を通してオリジナルを知るなど、歯がゆい状況が続いていた。東京展の評判は関西にも届いているので、内容に対する不安は一切ない。万全を期して展覧会に臨みたい。
2016/12/20(火)(小吹隆文)