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美術に関するレビュー/プレビュー

さいたまトリエンナーレ 2016

会期:2016/09/24~2016/12/11

岩槻駅周辺[埼玉県]

2度目のさいたまトリエンナーレ訪問では、岩槻エリアの旧民俗文化センターに向かう。会場が駅から遠く、シャトルバスを走らせているのは、とても助かるが、車中がガラガラで心配になった。旧民俗文化センターはメイン会場というヴォリューム感で、それぞれに埼玉という場所を読みといた作品が多い。目による屋外のトリッキーな空間体験のほか、ソ・ミンジョンの新展開、多和田葉子、小沢剛、大洲大作、川埜龍三、藤城光、マテイ、アピチャッポン、オクイ、ウィスットらの作品をまとめて楽しめる。

写真:左=上から、旧民俗文化センター、多和田葉子 右=上から、小沢剛、川埜龍三

2016/10/07(金)(五十嵐太郎)

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月─夜を彩る清けき光

会期:2016/10/08~2016/11/20

渋谷区立松濤美術館[東京都]

いきものにとって太陽が不可欠なことはいうまでもないが、視覚的には太陽よりも月のかたちが意識に上りやすく思うのはそれが満ち欠けによって日ごとに姿を変える存在だからだろうか。明治時代に太陽暦が採用されるまで、日本ではながらく太陰暦が用いられ、月の満ち欠けによって生活のサイクルが決まっていたことも、月の姿に意識的になる理由であろうか。本展はそうした日本人の生活と深い関わりを持つ月をモチーフとした絵画、工芸品を7つの章に分けて紹介するテーマ展。第1章は「名所の月」。中国湖南省の洞庭湖の上空に浮かぶ秋月を描いた《洞庭秋月図》から始まり、浮世絵に描かれた近江八景《石山秋月》、名所江戸百景など広重が描いた月へと至る。「月」に注目すると橋の下に満月を配した広重《甲陽猿橋之図》の構図がひときわすばらしい。第2章は文学。月に関わる詩歌や物語を絵画化した作品のなかで注目すべきは竹取物語であろうか。第3章は月にまつわる信仰で、月天像が紹介されている。第4章は「月と組む」。月と山水、月と美人、月と鳥獣など、月と組み合わせることで作品には季節や時間帯が含意される。広重《月に雁》のように季節は秋が多いが、中には朝顔や桜花との組み合わせもある。第5章は月岡芳年が月を主題として描いた「月百姿」。第6章は武具と工芸。月はしばしば刀の鐔のモチーフに用いられているが、出品作品のなかでは棚田に映る三日月を意匠化した西垣永久《田毎の月図鐔》が興味深い。第7章「時のあゆみと月」には暦や十二カ月を主題にした作品が並ぶ。なお、会期中の11月14日には満月が地球に近づく「スーパームーン」を見ることができるそう。それも今回は68年ぶりに月が地球に最接近するとのことだ。[新川徳彦]

2016/10/07(金)(SYNK)

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アウラの行方

会期:2016/09/17~2016/10/08

CAS[大阪府]

藤井匡がキュレーションを行ない、國府理、冨井大裕、末永史尚の作品で構成された本展。テーマは美術の制度と場を再考することだが、筆者にとってそれは二の次だった。では何が一番なのか。國府理の映像作品《Natural Powered Vehicle》が見られたことだ。この作品には、古い国産軽自動車に帆を張った國府の作品が登場し、彼が自らハンドルを握って田舎道や海岸の砂浜を疾走する。その開放感、ロマンチシズムにグッときたのだ。また、筆者が初めて國府理と彼の作品に出会ったときの記憶もフラッシュバックした。企画の本筋とは無関係に感動しているのだから、キュレーターには申し訳ない限り。でも、たまにはこんな展覧会の見方があっても良いだろう。

2016/10/07(金)(小吹隆文)

芸術写真の時代─塩谷定好展

会期:2016/08/20~2016/10/23

三鷹市美術ギャラリー[東京都]

塩谷定好(1899~1988)は鳥取県東伯郡赤碕町(現琴浦町)出身の写真家。大正~昭和初期の「芸術写真」の黄金時代における中心的な担い手の一人であり、同じく鳥取県出身の植田正治が「神様」として敬愛していたという。1970~80年代にイタリア、ドイツ、アメリカなどで展覧会が開催され、あらためてその独特の作品世界に注目が集まった。昨年も「─知られざる日本芸術写真のパイオニア─塩谷定好作品展」(FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館)が開催されるなど、このところ再評価の機運が著しい。
本展では鳥取県立博物館所蔵の作品を中心に、100点の作品が展示されたのだが、これまでの展覧会とはやや異なったアプローチを見ることができた。ひとつは出品作に、これまで塩谷の写真のベースと考えられていた、故郷の赤碕の風土や暮らしに根ざした人物写真や風景写真だけではなく、ほぼ未発表の実験的な作品が多く含まれていたことである。《静物》(1928)はモノクロームのプリントに手彩色したカラー作品であり、《海》(1937)や《お堂》(1942)のような、ほとんど何が写っているのか判然としない、曖昧模糊としたピンぼけの写真もある。斬新な画面構成の《骸骨と鶴嘴》(1935)は、あたかもメキシコあたりの写真家の作品のようだ。もうひとつは、第二次世界大戦後の作品にもきちんと目配りがされていることである。《暮色群雀》(1957)や《砂丘》(1966)のようなスケールの大きな風景写真を見ると、塩谷の創作意欲がまったく衰えていなかったことがわかる。彼の「芸術写真」の時期を特徴づけていた、極端なソフトフォーカス描写や、墨や絵具での「描き起こし(雑巾がけ)」のような絵画的な技法は影を潜め、ストレートなプリントが試みられている。だが、被写体に向き合う姿勢には一貫したものがあったということだろう。
塩谷の仕事の写真史的な位置づけはまだ確定したわけではない。そのクオリティの高い作品世界には、さらなる未知の可能性が潜んでいそうだ。

2016/10/06(木)(飯沢耕太郎)

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GOCHO SHIGEO 牛腸茂雄という写真家がいた。1946-1983

会期:2016/10/01~2016/12/28

FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館[東京都]

牛腸茂雄は不思議な写真家で、没後30年以上経ても、彼への関心が薄れるどころか、さらなる展示や出版の企画が続いている。今回の、FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館での展示は、いわば彼の作品世界のダイジェスト版と言うべきものだが、それでも牛腸の写真には見る者の目をとらえて離さない、強力な磁力のようなものが備わっているように感じた。
展示の全体は3部に分かれ、第1部の〈こども〉には初期のスナップ写真が5点、第2部の〈SELF AND OTHERS〉には代表作というべき同名の写真集から27点、そして第3部の〈幼年の「時間(とき)」〉には、彼の最後のシリーズとなった子供たちの写真5点が出品されていた。全37点という数は、あまり多いとはいえない。だが、緊張感を感じさせる写真群を見続けていると、これくらいがちょうどいいという気もしてくる。
牛腸は被写体をあたかも標的のように、画面の真ん中に寄せて撮ることが多い。それゆえ彼の写真を見るときには、写っているモデルたちと真正面から顔を見合わせて対峙することになる。それはあまり普段は経験することのない、特殊な状況と言える。そして、モデルがたとえ幼い子供たちであっても、そこには一個の人間としての揺るぎない存在感がある。牛腸自身もまた、それらの顔と向き合いつつ、「自己とは?」、「他者とは?」、そして「人間とは?」と、自問自答を繰り返していたはずだ。そんな問いかけに答えなければならない地点へ、否応なしにわれわれを追い込んでいく力が、彼の写真には確かに備わっているのではないだろうか。

2016/10/05(水)(飯沢耕太郎)

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