artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ヨコオ・マニアリスム vol.1
会期:2016/08/06~2016/11/27
横尾忠則現代美術館[兵庫県]
備忘録とアイディアスケッチを兼ねた日記、作品のモチーフとして引用された写真や印刷物、作品から派生した商品やグッズ、絵葉書やレコード、フィギュアなどの膨大なコレクション。こうした横尾忠則の制作に関するアーカイブ資料に光をあて、調査過程の現場も含めて公開する展覧会シリーズが「ヨコオ・マニアリスム」である。本展はその第一弾。
横尾が1960年代より書き続けている大判の日記には、その日の出来事の記録や写真の貼付に加えて、アイデアのメモやラフスケッチも記されている。日記の見開きページの複写と、「完成作」の絵画作品が対置され、両者の対応関係を読み取れる展示構成だ。さらに、半ズボンの制服姿で探検する少年たちや、涅槃像といった同一モチーフが自己引用的に反復されることで、作品どうしがゆるやかに変奏していくようなシークエンスが構成される。また、絵画やポスターのモチーフの引用元となった雑誌の写真や挿絵、自作を商品化したグッズ、「涅槃像」「猫」「ビートルズ」「ドクロ」といったカテゴリーごとにコレクションされた切り抜きやフィギュアが並置され、イメージが乱反射し合う磁場を出現させている。それは、大量生産されたイメージが「作品」を生み出し、さらに「作品」(の一部)がグッズやポスターなどの複製品として大量生産されていく、イメージが引用と消費を繰り返しながら自己増殖する回路である。横尾の「ポップさ」とは、単に図像の大衆性の問題だけでなく、むしろこうした自己増殖的な回路にこそある。
またここには、アーカイブにおける、収集行為と増殖性、価値のヒエラルキーの解体・相対化といった性質を見てとることができる。さまざまな「資料体」が等価に位置づけられる巨大なアーカイブ、その相互参照的なネットワークの中に「作品」を組み込み、位置づけ直して眺めたとき、「署名されたオリジナルとしての作品」/「作品以外の資料」という価値のヒエラルキーは解体され、相対化されていく。さらに、新たな資料が収集され、リストに付け加えられ、カテゴリーの追加や細分化、分岐や再接続が行なわれることで、ネットワークは絶えず更新され、書き換えられていく。従って本展の場合、「資料」が保管庫から「展示室」の中へ持ち込まれ、「作品」と並置される、あるいは調査過程そのものが「進行中」の現場として展示空間に出現するとき、いかに美術館という制度への批評となるか? という問いこそが問われていると言える。
ただし、本展では、展示室中央に設けられた「作業スペース」は、確かに「ワーク・イン・プログレス」の体をとってはいるが、壁面の展示や展示ケースからは見えない壁で分離され、展示の秩序は新たな変更や追加を受け入れることなく固定化されており、原理的に完成形を持たないアーカイブが潜在的にはらむダイナミックな動態を体感させているとは言い難かった。逆に言えば、「アーカイブ」という視点を持ち込むことは、「美術館」の制度を批評的に問い直す契機となるのではないか。
2016/10/15(高嶋慈)
柳幸典「ワンダリング・ポジション」
会期:2016/10/14~2016/12/25
BankART Studio NYK[神奈川県]
柳は日本の現代美術シーンの中心にいると思ったら、いつのまにか忘れられて、でもまた注目を浴びたかと思ったら、また中心から外れていくという繰り返し。それが「ワンダリング・ポジション」(=さまよえる位置)の意味のひとつだろう。ぼくが最初に見た柳の作品は、たしか土の球体だ。一見重そうだが、ヘリウムガスを詰めたバルーンの表面に土を塗っているので宙に浮く。次に見たのは、色煙を詰めたドラム缶を絵具のチューブに見立て、周囲をカラーに染める作品。その次が地面を鯛のかたちに掘ってモルタルで固めた巨大な鯛焼き状の作品だったと思う。いずれも80年代後半で、どれもダイナミックでありながらとぼけたユーモアを漂わせるが、思いつきでやってるようで一貫性が感じられず、捉えどころがなかった。それも「ワンダリング・ポジション」と呼ばれるゆえんだ。そのせいか、活躍が目立つ割に、90年ごろから増えてきた欧米を巡回する日本の現代美術展に選ばれることも少なかった。あとで考えれば、彼こそ80年代のポストもの派と90年代のネオポップをつなぐ存在だったことに気づくのだが。
この展覧会には初期の土の球体をはじめ、蟻が浸食する「国旗」シリーズ、判子やネオンでつくる「日の丸」シリーズ、憲法9条を分解してネオンで表示する「アーティクル」シリーズなど、代表的な作品がほぼそろっている。圧巻は3階のインスタレーションで、瀬戸内海の犬島プロジェクトの一部を再現したもの。正面に見える光に向かって暗い迷路を歩いて行き、ようやく出口にたどりつくと、そこに広島に投下されたリトルボーイがぶら下がっている。これは迷宮に閉じ込められたイカロスが翼をつけて脱出し、太陽に近づいて落下したという神話を現代に重ねたもの。さらに奥の部屋に進むと、放射能の汚染土を詰めた黒い袋や廃車、廃棄物でつくられた巨大なゴジラの頭が鎮座する。ゴジラが放射能によって突然変異し、放射能をまき散らすモンスターであることを思い出せば、3階のインスタレーションがなにを表わしているかはいうまでもない。ここは見事に一貫している。
2016/10/14(金)(村田真)
クラーナハ展 500年後の誘惑
会期:2016/10/15~2016/01/15
国立西洋美術館[東京都]
クラーナハといえば、マルティン・ルターの肖像画や艶かしいヴィーナス像で知られる画家だが、日本ではデューラーほど紹介されておらず、今回が初めての展覧会となる。それにしてもなんでいまクラーナハなのかと思ったら、来年がルターの始めた宗教改革の500周年に当たるからだ。そうか、ヨーロッパでは宗教改革がらみの展覧会がたくさん企画されてるに違いない。さて、同展にはルターやヴィーナスのほか、みずから胸に剣を突き立てるルクレティア、敵将の首を掻き切るユディット、老人と若い女性の「不釣り合いなカップル」(現代なら援交か)など、エグいモチーフが目立つ。ときおりクラーナハに触発されたピカソの版画や、北方ルネサンスの影響を受けた岸田劉生や村山知義による肖像画、クラーナハのヴィーナスを彷彿させるジョン・カリンのヌード画、ユディットを翻案した森村泰昌のセルフポートレートなどが出てきて面食らう。西洋美術館も進化したもんだ。圧巻はレイラ・パズーキの《ルカス・クラーナハ(父)〈正義の寓意〉1537年による絵画コンペティション》。西洋名画を大量にコピーすることで知られる中国・深圳の芸術家村の画家100人に、クラーナハの《正義の寓意》を模写させたもの。「クラーナハ展」にこんな大量の「贋作」を出していいのか。おもしろいのはこれを描かせたのがイスラム教国イラン人で、描いたのが中国人であること。西洋美術がアジアにシフトしてきている。
2016/10/14(金)(村田真)
デトロイト美術館展 ~大西洋を渡ったヨーロッパの名画たち~
会期:2016/10/07~2016/01/21
上野の森美術館[東京都]
デトロイトといえばかつて自動車の街として栄えたが、近年は自動車産業の低迷で都市は財政破綻し、いまや全米一治安の悪い都市として知られるようになった。とはいえ、かつて栄えた街には必ずすばらしい美術館があるもの。このデトロイト美術館も例外ではなく、ヨーロッパの近代絵画を中心とする質の高いコレクションがそろっている。ということはこの展覧会、コレクションを国外に巡回させて少しでも予算の足しにしようというコンタンだろう。そんな面倒なことをするより、コレクションそのものを売っぱらってしまえという乱暴な話も出たらしいが、そこはなんとか踏みとどまったという。展覧会の導入部は美術館の紹介だが、ホールの壁4面に描かれたディエゴ・リベラのフレスコ画の写真パネルがあり、これは実物を見てみたくなった。
展示は1階が19世紀後半、2階は20世紀前半の近代絵画。ドガは初来日の《女性の肖像》をはじめ5点、セザンヌは《三つの髑髏》など4点と、なかなかの品揃え。オッと思ったのは、ヴァロットンの美しい作品《膝にガウンをまとって立つ裸婦》があったこと。ヴァロットンが選ばれたのは、最近日本でも展覧会が開かれたからだろう。2階に上がるとフォーヴィスムやキュビスムが並ぶ、と予想したら大ハズレ、意外なことにドイツ近代絵画が並んでいるのだ。しかもその大半はナチスに「退廃芸術」の烙印を押された表現主義ではないか。ひょっとしてこれらはナチスがドイツ中から前衛絵画を集めて売り払った際、そのころ羽振りのよかったデトロイトが買ったものかもしれない。ナチスに嫌われそうなキルヒナーの《月下の冬景色》、ルシアン・フロイドに通じるオットー・ディクスの《自画像》がすばらしい。最後が20世紀前半のフランス絵画で、特にマティスの1910年代に集中した3点と、ピカソの初期からキュビスム、古典主義を経て晩年にいたるまでの6点が見られた。「クラーナハ展」の内覧会までの時間つぶしに見たわりに収穫の多い展覧会だった。
2016/10/14(金)(村田真)
甲斐啓二郎「手負いの熊」
会期:2016/10/04~2016/10/16
横田大輔とともに本年度の「写真の会賞」を受賞した甲斐啓二郎が、新作を含む19点で「手負いの熊」展を開催した。甲斐のメインテーマである、人類学的な視点で「スポーツ(ゲーム)の起源」を捉え直そうとする写真シリーズも、かなり厚みを増してきている。
今回の作品は長野県野沢温泉村で1月13日~15日に開催されている「道祖神祭り」のクライマックスとなる「火付け」の行事を、2013~15年の3回にわたって撮影したものだ。数え年で25歳になる若者たちが、社殿に火がついた松明を手に殺到する男たちを、体を張って守り続けるという行事である。例によって、甲斐は祭りの全体像を見渡すのではなく、男たちがぶつかり合う闘争の場面だけに焦点を絞って撮影している。特に今回は火という神話的な形象が効果的に使われているので、画面の緊張感がより高まり、「手負いの熊」と化した男たちの姿からは、なにか巨大な存在に立ち向かっている悲壮感すら漂ってくる。攻めよせる男衆が、荒ぶる自然そのものの象徴のようにも思えてくるのだ。
甲斐は日本だけでなく外国の祭礼も含めて、より大きなスケールのシリーズにまとめることを構想している。サッカーの発祥の地といわれるイングランドの村の行事を撮影した「Shrove Tuesday」(2013)に続いて、すでにジョージア(グルジア)での取材を済ませており、南米やアジアでの撮影も視野に入れているという。日本で撮影された写真群も含めて、それらをまとめて発表したり、写真集として刊行したりする目処をつけてほしいものだ。なお、展覧会に合わせて同名の写真集(デザイン・桝田健太郎)が刊行されている。
2016/10/14(金)(飯沢耕太郎)