artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
瀧弘子展 うつしみ
会期:2016/05/14~2016/06/04
CAS[大阪府]
自身の身体を用いたパフォーマンス、写真、ヴィデオ・インスタレーションなどで知られる瀧弘子の新作展。最近の彼女は、鏡に写る自身の姿を鏡面になぞり描きし、照明を当てて反射光を壁面に投影する作品を手掛けている。本展では光の代わりに自身を撮影した動画を用いて、壁面に静止画と動画が重なって投影される新作を発表。同シリーズのさらなる深化に成功した。また、男性器をモチーフにした創作折り紙を発表していたのも気になるところ。彼女の創作折り紙は以前にも見たことがあり、即興的につくったとは思えぬ出来栄えに感心した記憶がある。今回の作品を見て、その才能がただ者ではないことを確信した。こちらも今後の展開が楽しみだ。
2016/05/16(月)(小吹隆文)
Still Life
会期:2016/05/11~2016/05/22
バンビナートギャラリー[東京都]
若手画家6人展。なんかリュック・タイマンスかミヒャエル・ボレマンスみたいな絵が多いなあ。以上だ。
2016/05/15(日)(村田真)
3331アートフェア
会期:2016/05/11~2016/05/15
3331アーツ千代田メインギャラリー[東京都]
キュレーター、ギャラリー、オルタナティブスペースのディレクターらが推薦した作家に、今年1月に急逝した小林史子を加えた計69組のアーティストが出展するアートフェア。勝手に捧げる村田真プライズは、八角形の支持体にいろんなポーズのビキニ女のレリーフを30体ほどくっつけた、ありそうでなさそうなサブリナ・ホラークの絵画。準プライズは、7脚の椅子に7色のカラーシャツを着せた、絵画とも彫刻とも工芸ともつかない久村卓の《7 Clothed Stools》。おめでとう! 買わないけど。
2016/05/15(日)(村田真)
金サジ「STORY」
会期:2016/05/03~2016/05/15
アートスペース虹[京都府]
昨年の個展に続く、「物語」シリーズの写真展。緻密に構成された鮮烈なイメージで綴られる、「架空の創世の神話」の新たなページが、一枚、また一枚と繰り広げられた。生/死、人間/動物、動物/植物、人間/神、男性/女性といった境界が混ざり合う中に、東アジアの各地域の神話や民話、祭礼、美しい衣装、象徴的な事物が混淆的に混じり合い、作家自身の見た夢や空想が織り交ぜられて、多層的なイメージへと結晶化する。
クマの頭部と美しいチマチョゴリを着た少女の身体が融合した像は、作家の直感的なイメージに基づくというが、実際に朝鮮半島の建国神話には、熊が人間の女性に変身して古代の王を産んだという伝説が存在する。人間と動物の融合は、ベールをかぶり、豚の鼻をもつ女性像へと受け継がれる。暗闇に浮かぶ月に根を張った巨大な五葉松は、宇宙樹のようにそびえ立つが、枝の先端は白く枯死し、骨を思わせる。神聖な動物として神格化される鹿の体からは、色とりどりの花が生い茂り、自然の神秘的な力の具現化や、生命をことほぐかのようだが、ひときわ鮮やかなピンクの花をつけたハナズオウの木は、ユダが首を吊った木として不吉な意味も持つ。さまざまな読み解きを誘うこれらのイメージは、黒い背景から浮かび上がるように照明を当てられ、西洋古典絵画の肖像画や宗教画を思わせる荘厳さを帯びている。あるいは、正面性が強く様式化されたポートレイトは、「架空の共同体の祭礼を記録した民族誌の記録写真」を思わせる。
今回の「物語」シリーズの展開では、さまざまな境界や複数の文化の有機的な融合、単一の起源を喪失した汎東洋的な神話世界、実在の神話や民話と個人的なフィクションの混淆、「死」「生」「女性」を連想させる象徴性の高いモチーフ、西洋古典絵画への参照といった特徴に加えて、「女性と生殖」というキーワードが浮上している。《子宮への出入口》と題された一枚では、鳥の巣の中に女性の黒髪が敷き詰められ、無数の露の玉が極小の卵のように輝き、巣の真ん中には子宮へと続く割れ目が口を開けている。また、《巫女(火を用い作成した刃で隔てる)》では、赤い衣装をまとった巫女が、冷えて固まった溶岩と繋がった、へその緒のような白く長い紐を持つ。手にした刃で、母体=溶岩=循環する生命エネルギーの根源との繋がりを断ち切り、新たな命をこの世に送り出す役割を司っているのだろうか。骨盤の白い骨を冠のように頭上にのせた巫女は、しかしよく見ると、男性的な顔立ちをしており、濃い化粧の下の性別は分からない。金サジの作品世界では、「巫女」とは必ずしも女性ではなく、男女の性別を含め、あらゆるものに超越的な存在であるのかもしれない。
「巫女(ムーダン:巫堂)」はまた、架空の存在ではなく、現在も人々の心の拠り所として存在し、金自身の祖母もかつて巫女業に従事していたことがあったという。現在も巫女を生業とする人々や、かつて従事していた祖母の話を聞く過程を経て制作される作品は、作家の内的なイマジネーションの中に、オーラル・ヒストリーの要素を含んでもいる。それは祖母や母から娘へ、といった個人の記憶の家族史であるとともに、国家、民族、近代、戦争、アイデンティティに関わるディアスポラの歴史でもあり、占いやお祓い、医療やセラピー、歌や踊りといった芸能など、複数の職能を持っていた巫女の歴史とも繋がっている。そうした、複数の水脈との繋がりから「物語」シリーズの作品を捉えることは、表面的なイメージの鑑賞を超えて、より豊かな受容経験を開くだろう。
2016/05/15(日)(高嶋慈)
宮岡俊夫 個展「名前を奪われた風景」
会期:2016/05/10~2016/05/15
KUNST ARZT[京都府]
樹木の茂る田園風景、草地の向こうに見える家屋、川、無人のプール。宮岡俊夫が描くのは、匿名的で平凡な風景に見える。だがそれらは、二重、三重の手続きを介して絵画化されている。まずそれらは、宮岡自身が直接目にしたものではなく、雑誌の写真やインターネット上の画像に基づいている。さらに、元の写真や画像を180度反転させて描くことで、対象の再現よりも、色面やコンポジション、塗りの方向性や絵具の物質的厚みを意識した、抽象度の高い画面に仕上がっている。また、白く塗られた「余白」の存在は、画面上のコンポジションの一要素として機能するとともに、「矩形に切り取られた風景」を強調し、カメラのフレームや誌面のレイアウトを想起させ、「二次元のイメージ」に過ぎないことを露呈させる。
こうした宮岡の絵画は、上下反転した自作を偶然目にしたことから抽象絵画を開始したというカンディンスキーの半ば伝説的なエピソードや、雑誌の誌面レイアウトをひとつのイメージと捉えて絵画化したリヒターを連想させる。また、宮岡の絵画では、キャンバスの裏面に引用元の画像が貼られていることから、河原温の「Today」シリーズ(「日付絵画」)が想起される。河原の「Today」シリーズでは、その日滞在した国の言語表記で記された日付の刻印が、画家の生存の証となるとともに、封入された新聞がその日世界で起きた出来事を記録し、個人的営為と絵画の延命と社会的次元(時に世界史的文脈の大事件)との接続が起こっていた。
宮岡の場合、写真や画像を180度反転させて描く行為は、抽象への傾斜の操作だけにとどまらない。180度反転したイメージ、つまり水面に映った反映像を描くという意味で、水面=スクリーンに映る風景という二重性を帯びるのだ。その風景は、雑誌やインターネットに掲載された画像という、大量生産され、共有・拡散され、たちまち消費されていく束の間の存在である。特にネット上の匿名的な画像は、容易に共有可能な反面、いつ削除されるかも分からない、不安定で儚いものだ。宮岡の試みは、そうした儚い画像を絵の具によって物質化する行為であるとともに、膨大な情報の海に埋没して消えゆく元の画像を裏に貼って保存することで、アーカイブを埋め込まれた絵画であるとも言えるだろう。
2016/05/15(日)(高嶋慈)