artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
「ルネサンスの巨匠 ミケランジェロ」展
会期:2016/04/23~2016/06/12
山梨県立美術館[山梨県]
山梨県立美術館の「ルネサンスの巨匠 ミケランジェロ」展のオープニングに出席する。日本語のタイトルでは外されているが、英語のタイトルには「architecture」と入っているように、天才の建築家の側面にも焦点を当てた企画である。会場では、ミケランジェロのオリジナルのスケッチや関連ドローイングも多数展示されており、ヨーロッパではこういう企画を見ることはできるが、日本ではこれまでも、そしてこれからもなかなか遭遇できない貴重な内容だろう。今回、東北大の五十嵐研の本間脩平が担当し、ラウレンツィアーナ図書館の全体模型を1/100スケールで制作した。また圧巻は野口直人が横浜国立大学のCNCルーターを駆使して実現した、図書館の玄関室の1/20模型である。複雑な古典主義のディテールも見事に再現されている。彼によると、既存の図書館図面がどれもバラバラで、多くの写真を手がかりに模型を制作した過程が興味深い。それは歴史家ではなく、建築家ならではの視点でミケランジェロの形態を読みとく作業でもある。
写真:上から、オープニングの様子、《ラウレンツィアーナ図書館》の全体模型、玄関室の模型
2016/04/22(金)(五十嵐太郎)
莫毅「莫毅:1987-89」
会期:2016/04/09~2016/05/11
ZEN FOTO GALLERY[東京都]
本展は、チベット出身の中国の現代写真家、莫毅(Mo Yi)の、1980年代の軌跡を辿る連続展の「Part
II」として開催された。昨年の「Part I」では、彼の最初期のスナップショットのシリーズ「風景 父親」が紹介されたが、今回はそれに続く1987~89年の3シリーズを展示している。莫毅は中国が政治的、文化的に大きく変動していったこの時期、写真家としての試行錯誤とそこからの飛躍の時を迎えていた。「騒動」(1987)では、多重露光を積極的に用いて、視覚世界の解体をもくろんだ。「1m, 我身後的風景」(1988~89)では、カメラを頭の後ろにセットして、背後の群集に向けて5歩ごとにシャッターを切ったり、「自撮り棒」の元祖のような装置で自分自身を画面のなかに取り入れたスナップ撮影を試みたりした。「搖蕩的車廂(揺れ動くバス)」(1989)では、天安門事件直後の不安げなバスの車内の人々の姿を、自らの運命に重ねあわせて描き出している。
80点あまりの写真を壁にクリップでとめた展示は、莫毅本人の手によるものだが、この時期の作品を見ても、彼はむしろ現代美術の発想を取り込みつつ、ほかの写真家たちとは異なる、身体と表現を結びつける回路を模索し続けてきたことがわかる。その先駆的な仕事の重要性は、2000年代以降に中国国内でもようやく認められつつあるが、日本においてはまだ知名度の高い写真家とはいえないだろう。中国の現代写真を本格的に紹介する写真展が、美術館レベルでまだ一度も開催されたことがないという残念な状況ではあるが、莫毅の仕事もぜひまとまったかたちで見てみたい。
なお、展覧会にあわせて写真集『莫毅 1983-1989』(ZEN FOTO GALLERY)も刊行された。今回の展示や写真集出版が、ぜひ大規模な個展開催に向けた第一歩になるといいと思う。
2016/04/22(金)(飯沢耕太郎)
細倉真弓「CYALIUM」
会期:2016/04/02~2016/05/15
G/P gallery[東京都]
1979年、京都府生まれの細倉真弓の作品は、彼女が日本大学芸術学部写真学科在学中から見ているのだが、このところ表現力が格段に上がってきているように思える。2014年のG/P galleryでの個展「クリスタル ラブ スターライト」(TYCOON BOOKSから同名の写真集も刊行)に続いて、イギリスの出版社MACKから『Transparency is the new mystery』が出版された。深瀬昌久、ホンマタカシの写真集と同時刊行ということは、日本の若手写真家の代表格として選ばれたということで、彼女の作品の評価の高まりのあらわれといえるのではないだろうか。
今回のG/P galleryでの個展「CYALIUM」でも新たな手法にチャレンジしていた。「CYALIUM」というのは「化学発光による照明器具「cyalume(サイリューム)」に金属元素の語尾「lium」を加えた造語」だという。たしかに、カラー照明を思わせる、ハレーションを起こしそうな色味の写真が並んでいるのだが、それはカラー写真の6原色(R/G/B/Y/M/C)のどれかにブラックを加えた、7色の組み合わせによってつくられているのだという。色同士のぶつかり合いに加えて、男女のヌードと植物や岩の画像が対比され、心が浮き立つような視覚的効果が生じてくる。実物の照明器具を使ったインスタレーションも効果的だった。
ただ、作品の展示効果が洗練されていくにつれて、なぜヌードなのか、鉱物なのかという、細倉にとっての切実な動機が希薄になっていくようでもある。その点では、ヌード撮影の現場の状況をざっくりと切り取った映像作品(モニターが床に置いてある)のほうが、むしろ彼女の現実世界との向き合い方を、よりストレートに表現しているように思えた。
2016/04/22(金)(飯沢耕太郎)
今井祝雄「Retrospective─方形の時間」
会期:2016/03/26~2016/04/23
アートコートギャラリー[大阪府]
1970年代半ば~80年代前半に制作された、今井祝雄の写真・映像・パフォーマンス作品を展示(再演)する個展。写真の多重露光、テレビ映像の再撮影、ビデオテープによる記録と身体パフォーマンスを行なっていたこの時期の今井の関心が、映像メディウムと物質性、時間の可視化、時間の分節化と多層化、映像への身体的介入、行為と記録、マスメディアとイメージの大量消費などに向けられていたことが分かる。
《時間のポートレイト》(1979)は、1/1000秒、1/30秒、1秒、30秒、60秒、600秒、1800秒、3600秒の露光時間設定でそれぞれ撮影したセルフポートレイトである。1/1000秒や1/30秒の露光時間では鮮明だったイメージが、次第にブレや揺らぎを伴った不鮮明なものになり、最後の3600秒(=1時間)の露光時間で撮られたポートレイトでは、タバコの光やサングラスの反射光が浮遊し、亡霊じみた様相を呈している。ここでは、秒という単位で分節化された時間が、段階的に幅を広げていくことで、ひとつのイメージに時間の厚みが圧縮され、時間の層が可視化されている。
また、「タイムコレクション」のシリーズ(1981)は、「7:10」「7:42」「9:54」など時刻表示のある朝のテレビ画面を、1分間以内に多重露光撮影したもの。1分という時間単位の間に放映された多様なイメージの積層化であるが、断片化した個々のイメージが重なり合って溶解し、人間の顔の輪郭が重なった事故現場(?)の映像とクラッシュするなど、お茶の間で日常的に受容している映像が、安定した知覚を脅かす不気味なものへと変貌していく。ファッション雑誌などに載った写真を15秒間ずつスライド投影し、画像の輪郭をなぞって抽出した線を描き重ねていく《映像による素描》(1974)と同様、マスメディアが大量生産するイメージの受容経験が、分節化した時間と行為の反復によって多重化/解体されている。
一方、今井が「時間の巻尺」と呼ぶビデオテープの記録性や物質性をパフォーマンスに持ち込んだのが、《方形の時間》(1984)と、初日に行なわれたその再演である。展示室の4m四方に設置された観葉樹に、撮影直後のビデオテープを手にした今井が巻き付けていく。そのビデオテープには、直前の作家の行為が記録されており、中央に置かれたブラウン管モニターに「中継」され続けるが、テープはリールに巻き取られることなくデッキから吐き出され、作家の手で四隅の観葉樹にぐるぐると巻き付けられていき、やがて黒い結界で囲まれた空間が出現する。フィルムと異なり、黒い磁気テープには記録された像が見えず、それは「物質」として立ち現われる。現在進行形の行為と一瞬遅れのディレイをはらむ記録が入れ子状に進行する時間と空間が、その黒いテープによって封じられていく。「製造停止となって久しい貴重な機材を入手できたことで可能となった」今回の再演・再展示は、テクノロジーの発展と表裏一体の技術的衰退という時間の流れとともに、アナログ機器ならではの「時間の手触り」を感じさせ、メディアの発展と知覚の変容(もしくは技術的衰退とともに失われてゆく知覚体験──低い解像度の粗い粒子という物質的肌理、ビデオテープ1本=「
2016/04/22(金)(高嶋慈)
ニュー“コロニー/アイランド”2~災害にまつわる所作と対話~
会期:2016/03/11~2016/06/26
アートエリアB1[大阪府]
会期中に熊本地震が起きたことで、よりアクチュアリティを増して体験された本展。東日本大震災の被災地となった故郷・陸前高田を撮影した畠山直哉の写真、阪神・淡路大震災から10年後の街を撮影し、風景の中の痕跡の(不)可視性を探る米田知子の写真、放射能汚染と食品の安全性について尋ねる買い物客と店員の会話を「再演」した高嶺格の映像作品など、アーティストによる表現物に加えて、仙台の「3がつ11にちをわすれないためにセンター」や女川の「対話工房」など、地域に根差した記憶や震災経験のアーカイブ活動が紹介されている。さらに、災害史や地質学の資料を合わせて展示することで、通時的な軸線と地球規模の視座へと拡がりを見せ、私たちの日常生活が、不可視だがつねに動き続けている不安定な岩盤の上に成立していることを改めて意識させる。
本展が秀逸なのは、展示会場を一軒家の間取りに見立てて、アーティストの作品、地域のアーカイブ活動、災害史や地質学の資料をその中に共存させている点だ。駐車場から始まり、実寸のスケールで仮設壁が立てられ、玄関のポーチ、子ども部屋、居間、台所、トイレ、浴室や寝室へと続く。ソファやベッドなどの家具や家電製品も実際に設置され、モデルルームのような空間だ。例えば、せんだいメディアテークがNPO法人20世紀アーカイブ仙台と協働して行なった「3月12日はじまりのごはん」は、震災後の最初の食事についての記憶を写真や文章で記録するプロジェクトだが、停電に対処した生活の知恵を綴った文章や炊き出しの様子の写真などが食卓や冷蔵庫に貼られ、生活空間に移し替えられることで、見る者の実感に訴えかける説得力を増している。
一方で、居心地よく設えられた室内空間の「外」には、「庭」に見立てた空間の中に、志賀理江子の写真作品「螺旋海岸」が展示され、異様な緊張感をもって対峙する。洞窟の内部や胎内を思わせる、あるいは神の宿る神聖な御座所のような白い岩。その白い塊は、新たな生命の宿りなのか体を蝕む浮腫なのか定かでない、下腹部の白い膨らみへとリンクする。無数の手に掲げられて浮遊する体と、葬送の儀式。オパールのように虹色の光を宿して輝く、鋭い動物の目の接写と思しきイメージは、星くずの散らばる無限大の宇宙空間を思わせるとともに、始源からこちらを見つめる巨大な目となって眼差しを差し返す。イメージの魔術的な連鎖を通して、生と死の循環、それを滞りなく行なうための祭祀、生命が自然の中へと還っていくことが幻視される。その展示はまた、畏怖を抱かせる自然の得体の知れない力が、人間の居住空間と扉一枚を隔てて蠢き、いつ「内部」へと侵入してくるか分からない存在であることを、無言の迫力でもって示していた。
2016/04/22(金)(高嶋慈)