artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

没後40年 髙島野十郎展──光と闇、魂の軌跡

会期:2016/04/09~2016/06/05

目黒区美術館[東京都]

東京帝大を首席で卒業したのに周囲の期待に反して画家の道を選び、美術団体に属さず家庭も持たずひたすら画業に専念し、にもかかわらず作品が売れることも名が知られることもなく、孤独のうちに亡くなったという生涯を追うだけでも泣けてくる。画家・ 髙島野十郎だ。でもいちばん泣けてくるのは、太陽のように裸眼では見えない光や、雨や雪や川の流れやロウソクの炎みたいに絶えず変化する現象や、木の枝1本1本や葉っぱ1枚1枚のように細かすぎて描きにくいものを、愚直にも描き尽くそう、いや描き尽くさずにはいられないという画家の業みたいなものを保ち続けたことだ。ひょっとしたら髙島の場合、画家の業だけでなく東京帝大で研究した学者としての業も加わっているかもしれない。彼は経験を通してフラクタルの概念をすでに体感していたはずだが、それをコンピュータではなく油絵というドン臭いメディウムを通して表現しようと半世紀以上を費やしたのだ。ま、一言でいえば「バカ」である。それが泣けるのだ。

2016/05/13(金)(村田真)

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メディチ家の至宝 ルネサンスのジュエリーと名画

会期:2016/04/22~2016/07/05

東京都庭園美術館[東京都]

15、16世紀のフィレンツェに君臨した、というより、イタリア・ルネサンス文化を牽引したメディチ家の宝飾品と肖像画の展示。一口にメディチ家といっても、歴史的に重要なのは15世紀のコジモ、ピエロ、ロレンツォの「黄金時代」だが、今回は衰退していく16世紀以降の君主たちに焦点を合わせている。衰退は展示を見れば一目瞭然で、プライベートな肖像画や細々としたジュエリーは、15世紀のメディチ家がパトロネージした建築やフレスコ画などの公共芸術に比べれば、個人的なフェティシズムの対象にすぎないからだ。人間が小さくなったというか、趣味に閉じこもるようになったというか。でもだからといってつまらなくなったわけではない。むしろ果物は腐りかけがうまいように、芸術も往々にして衰退期に魅力的な作品が現れるもの。例えば17歳で亡くなった《マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像》(ブロンズィーノ作)に見られる妖しさは、凡庸な《ロレンツォ・イル・マニフィコの肖像》の比ではない。一筋縄ではいかないマニエリスムの典型だ。ジュエリーでも、あえて歪んだ真珠を人体の一部に見立ててペンダントに利用するなど、「バロック」の語源に思わず納得してしまう例に出会える。とはいってもやっぱり作品は小粒。会場がアールデコ様式の邸宅を改造した庭園美術館以外だったら、ショボイ展覧会になっていたかもしれない。

2016/05/13(金)(村田真)

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W.H.フォックス・タルボット写真展 「自然の鉛筆」

会期:2016/04/18~2016/06/05

写大ギャラリー[東京都]

東京工芸大学中野キャンパスの写大ギャラリーでは、1977年9月にW.H.フォックス・タルボットの没後100年を記念して、「近代写真術の発明家FoxTalbot 自然の鉛筆」展を開催した。そこでは、彼が発明したカロタイプの技法を使った24枚のプリントを貼付した、「世界最初の写真集」である『自然の鉛筆』(The Pencil of Nature, 1844~46)の収録作品をはじめとして、42点のタルボットの作品が展示された。プリントはフォックス・タルボット美術館の館長を務めていたマイケル・グレイによるもので、カロタイプ・ネガから当時実際に使われていた塩化銀紙(ソルテッド・ペーパー)に焼き付けてある。没後100年にあたって3セットつくられたうちの1セットが日本で初公開され、そのまま写大ギャラリーにコレクションされることになった。本展は、その「自然の鉛筆」展のリバイバル企画ということになる。
カロタイプ特有の、ややソフトフォーカス気味の描写や、淡くはかなげな色味は、今見ても充分に魅力的だ。それに加えて、数学、歴史、文学にも造形が深く、アッシリア語やバビロニアの楔文字の研究家でもあったというタルボットの知的な関心の広さは、建築物から彫刻、絵画まで及ぶ被写体の選択にもよくあらわれている。画面構成に繊細な美意識がはたらいていることにも注目すべきだろう。まさに写真表現の源流、原型として、何度でも参照すべき作品群といえるのではないだろうか。
ところで、先頃赤々舎から青山勝の翻訳で日本語版の『自然の鉛筆』(畠山直哉のエッセイ、マイケル・グレイの解説も含む)が出たのだが、その作者名の表記は「トルボット」になっている。この「タルボット/トルボット」問題は悩ましいもので、たしかに現地の発音は「トルボット」に近いようだが、長年「タルボット」という表記を使ってきたことで、今さら変更するのがむずかしいという事情もありそうだ。少しずつ「トルボット」に統一されていきそうだが、しばらくはどうしても混乱が続くのではないだろうか。

2016/05/13(金)(飯沢耕太郎)

石山貴美子展──わたしが出会った素敵な作家たち

会期:2016/05/09~2016/05/14

巷房(3階、地下、階段下)[東京都]

『面白半分』(1972~80)は、僕の世代にとってはとても懐かしい雑誌だ。作家や詩人が半年交代で編集長を務め、それぞれの特徴を打ち出した洒脱な編集ぶりで人気を集めた。初代編集長は吉行淳之介で、以下野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆と続く。これらの顔ぶれは、若い世代にはぴんと来ないかもしれないが、高度経済成長下に花開きつつあった「70年代文化」のエッセンスそのものといってよい。石山貴美子は、その『面白半分』でインタビューや対談記事の写真撮影を担当していた。本展では、その時代に撮影したポートレートを、ヴィンテージ・プリント6点を含めて65点ほど展示している。
文学者たちの普段着の気取らない表情を、いきいきと捉えることができたのは、石山があくまでも傍観者としての位置からシャッターを切っているためだろう。黒子に徹することで、むしろ彼らの無防備な、壊れやすい内面が写り込んできているように見える。今回の写真展のDMには吉行、野坂、開高、五木、金子、井上といった『面白半分』の歴代編集長に加えて、羽仁五郎、草野心平、田中小実昌、寺山修司、大島渚、唐十郎のポートレートが使われている。皆若々しい風貌だが、その12人のうち、五木と唐を除いて10人が故人になっていることに気づくと、感慨深いものがある。「70年代」が、すでにはるか彼方になりつつあるということだが、逆にこれらの写真を見ていると、彼らの記憶が生々しくよみがえってくるように感じる。写真に力があるので、いいエッセイをつけて、ぜひ一冊の本にまとめてほしいものだ。

2016/05/12(木)(飯沢耕太郎)

蜷川実花「ファッション・エクスクルーシヴ」

会期:2016/04/23~2016/05/08

表参道ヒルズ スペースオー[東京都]

東京・原宿の表参道ヒルズ開業10周年記念展として開催された、蜷川実花「ファッション・エクスクルーシヴ」展に向かう階段の上から会場を見渡した時、空気がどよめいているように感じた。蜷川独特の浮遊する原色の塊が、強烈なエネルギーを放射しており、それが周囲の環境にまで影響を及ぼしている気がしたのだ。近頃あまりお目にかかれない、会場全体をある種のワクワク感が包み込んでいるような展示だった。
主に天井から吊り下げられた、広告・ファッション写真85点を見ていると、蜷川が2000年代以降の時代のテイストを汲み取りつつ、じつに的確にヴィジュアル化し、撒き散らしていったことがよくわかる。広告・ファッション写真が果たすべき役割は、もちろん企業イメージを視覚的情報として打ち出していくことだが、それは同時に「時代の鏡」に磨きをかけていくことでもある。2000年代の日本のヴィジュアルはまさに「蜷川実花の時代」であったと断言してもいいだろう。
いつも不思議に思うのは、蜷川が「アート」としての側面を強調した写真を発表する時、広告・ファッション写真から発する輝きやオーラが、薄まり、弱まってしまうように感じることだ。天性のヴィヴィッドな色彩感覚や、ひとつの場面を細部まで緊密に気を配って(とはいえその場の臨場感は保ちながら)組み上げていく能力の高さは、むしろ「アート」作品にこそ活かされるべきではないかと思う。むろん蜷川本人は、そのあたりのことはとっくの昔に承知していて、世界戦略のなかに組み込んでいるかもしれない。

2016/05/08(日)(飯沢耕太郎)