artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
村上華子「ANTICAMERA(OF THE EYE)」
会期:2016/04/09~2016/05/07
タカ・イシイギャラリー東京[東京都]
およそ1世紀前の最初期のカラー写真「オートクローム」の未使用の乾板を現像して引き延ばした作品が並ぶ。全体に濃い青紫色で、周囲は褐色に縁どられ、ところどころ内側に滲み出すように触手が伸び、その先に小さな円形の島ができている。枠を意識したマーク・ロスコの絵画を思い出す。目を近づけると赤、青、緑の微粒子が見え、そのまま離れていくと今度は点や円が星や星雲のように感じられ、まるで電子望遠鏡で捉えた天体写真を見ているよう。ここで過去が現在に接合され、ミクロコスモスとマクロコスモスがワープしてつながるのだ。もうひとつ《APPRITION(OF THE SUN)》という作品は、ネットから拾った太陽の画像をダゲレオタイプで焼きつけたもの。ダゲレオタイプが流通していた19世紀には知り得なかった黒点やフレアまで写り込んでいて、これも過去と現在の出会いと言っていい。
2016/05/07(土)(村田真)
ロバート・モリス&菅木志雄
会期:2016/03/12~2016/05/07
BLUM & POE[東京都]
奥に長いギャラリーの手前に菅木志雄、奥のガラス窓沿いにロバート・モリスのインスタレーションがある。菅は5つの楔形の石のうち4つを矩形に並べ、ひとつをその外側に置き、全体を小さめの木の板で覆った《辺界》という作品。木の板はそれぞれの石に寄り添うように立て掛けられ、またそれぞれの石を関係づけるように配置されている。モリスはL字型にカットした黒いフェルトと鉛の板を無造作に積み上げた作品で、タイトルは文字どおり《鉛とフェルト》。廃棄された工業製品という印象だ。どちらも60-70年代の作品の再制作だが、場所に合わせて変形されている。おもしろいのは、ふたつの作品とも石と木、鉛とフェルトという鉱物素材と生物素材、硬いものと柔らかいものの組み合わせであること。そして菅の石が山を、木の板が平地の田畑を連想させるのに対し、モリスは混沌とした森を連想させる。どこまで意図したかは知らないけれど、図らずもふたりの作品から日本的なものと西洋的なもの、自然と人工の対比が浮かび上がる。
2016/05/07(土)(村田真)
深川の人形作家 石塚公昭の世界
会期:2016/04/23~2016/05/08
深川江戸資料館レクホール[東京都]
石塚公昭の仕事に注目しはじめたのは最近だが、人形作家としてのキャリアは1980年代からだから、かなり長い。ジャズやブルースのミュージシャンからスタートして、近年は小説家を中心に細部まで作り込んだ人形を制作し続けている。今回、東京・清澄白河の深川江戸東京資料館で展示された、泉鏡花、稲垣足穂、江戸川乱歩、澁澤龍彦、谷崎潤一郎、寺山修司、中井英夫、夢野久作、さらにエドガー・アラン・ポーやジャン・コクトーといった顔ぶれを見ても、彼の好みがどちらかといえば耽美・幻想系の小説家に偏っているのがわかる。
さらに、それぞれの小説家の作品を読み込み、人形を使ってその作品世界を再構築するために、石塚は写真を積極的に用いている。例えば江戸川乱歩なら、怪人二十面相ばりに気球に乗り込もうとしているとか、三島由紀夫なら燃え盛る金閣寺の前に立ち尽くすとか、稲垣足穂なら人力飛行機に乗り込むとか、作品中のある場面を設定してセットを組んだり、実際の風景のなかにはめ込んだりして撮影しているのだ。その凝りに凝った場面設定はどんどんエスカレートしており、日本の写真家には珍しい洗練された「コンストラクティッド・フォトグラフィ」として成立しているのではないかと思う。近年は、江戸川乱歩や谷崎潤一郎をフィーチャーした作品を、1920年代に流行したオイル・プリントの技法で制作するという実験も試みている。人形作家だけではなく、写真家としての石塚公昭にも注目していきたい。彼の仕事にはまだ、さまざまな可能性が秘められている気がする。
2016/05/06(金)(飯沢耕太郎)
珠かな子 改名記念展「マタギタマ」
会期:2016/05/06~2016/05/15
神保町画廊[東京都]
珠かな子は、自撮りによるややエロティックな写真を「村田タマ」名義で発表してきた。可愛らしい容姿で人気があったのだが、自分の写真の世界をどんなふうに展開していくのか、方向性を定めきれない揺らぎが、魅力的でもあり心配でもあった。だが、今回の「改名記念展」を見て、彼女のなかに、写真を撮り続けることの覚悟がしっかりと育ちつつあるように思えた。
「マタギタマ」というタイトルは、「村田タマ」から「珠かな子」へと跨いでいくという意志表明と、文字通りの「マタギ」とのダブルミーニングである。マタギ(猟師)の「自分の命を晒して猟をする。そして命に敬意をはらって食す」という生き方と、「少女から大人になり、子供を孕み産む」という自分の姿とを、写真行為を通じて結びつけようという意図が、今回のシリーズには明確に貫かれている。それを象徴するのが本物の熊の毛皮(会場に展示してあった)で、それを身に纏ったり、画面の中に取り込んだりしたセルフ・ポートレートが、展示の重要なパートを占める。それに加えて、テディ・ベアや小熊フィギュアの「カワイイ」イメージがちりばめられており、強さと弱さ、美しさと醜さ、気高さとポップな俗っぽさとが、引き裂かれつつ同居していた。「自撮り」写真を、ナルシシズムに溺れることなく、かといって退屈な繰り返しに陥ることもなく、どんなふうに展開していくのかというのは、多くのセルフ・ポートレートの写真家に共通する課題だが、その答えのひとつがここにあるのではないだろうか。
2016/05/06(金)(飯沢耕太郎)
イシャイ・ガルバシュ、ユミソン「Throw the poison in the well」
会期:2016/04/30~2016/05/08
Baexong Arts Kyoto[京都府]
Baexong Arts Kyotoを運営するアーティスト、ユミソンと、イスラエル出身でベルリン在住の写真家、イシャイ・ガルバシュの二人展。出身地も年齢も異なる二人だが、「親世代がジェノサイドの生き残りである」という共通の出自を持つ。負の記憶の継承と共有の(不)可能性、親子関係がはらむ心理的葛藤、個人の生と民族の歴史の交差について言及するそれぞれの過去作に加え、2ヶ月の滞在制作において共同制作された新作《Throw the poison in the well》が発表された。
イシャイ・ガルバシュの《The Number Project》は、ナチス政権下でユダヤ人強制収容所に収容された母親が、腕に入れ墨で刻印された囚人番号を、自身の腕に焼きごてで刻印して、痛みとともに継承するというもの。数字とアルファベットが刻まれた金属片をガスバーナーであぶり、顔をしかめながら自身の腕に焼き付けていく記録映像と、生々しい傷痕が癒えていく様子を毎日1枚ずつ、101日間にわたって撮影した写真が展示されている。「A2867」といういびつな数字が、赤く血でにじみ、かさぶたになり、はがれ、ゆっくりと薄れて読めなくなっていく過程が、ドキュメントとして示される。母親の身体に刻印された番号を、痛みとともに「私」の身体に受け入れ、「私のこの身体」に起きた出来事として反復・引き受けようとすること。それは、民族の受難の物語への回収を拒み、「母と私」という極私的な関係性に留まりながら身体的に継承しようとする身振りである。それはまた、個人を匿名性へと暴力的に押しやった番号が、個人の生の証として取り戻されるという逆説を帯びてもいる。しかしその番号が薄れていく様子は、時とともに傷が癒えていく過程であるとともに、迫害の歴史が忘却されていくプロセスの可視化をも思わせる。ガルバシュの鮮烈な作品は、傷口を押し開きながら縫合するような両義性をはらんでいる。
また、ユミソンの《It Can’t Happen Here.》は、1948年の済州島四・三事件(韓国軍などによる島民虐殺事件)の生き残りである父親が語った記憶と、自身が罵声を浴びせられたヘイトスピーチの体験、父親との葛藤などを、父親の視点から仮構的に綴り直したテクストである。ただし、固有名や具体的な日付と場所を剥ぎ取られて抽象化されることで、話者の「I」は、不特定多数の他者を受け入れる場所となり、記憶と現在時の思索が行き来するなかに、体験の過酷さは詩的なモノローグとして語られる。
一方、ガルバシュとユミソンの共同制作《Throw the poison in the well》は、ともにジェノサイドの生き残りを親に持ち、民族の被傷性にどう向き合うかをそれぞれの視点で考える二人が、「井戸に毒を流す」行為を京都市内の市街地や河川で擬似的に再現するパフォーマンスの記録である。タイトルが示唆するのは、1923年の関東大震災の際、「朝鮮人が井戸に毒を流している」などのデマによって引き起こされた朝鮮人虐殺事件だ。だがこのパフォーマンスで二人は、社会的に排除され憎しみの対象となる「魔女狩り」の「魔女」役を押し付けられたことを糾弾するのではなく、むしろその役割を引き受けてフィクションとして演じてみせることで、「被害者の歴史」を訴えるという政治的正しさに陥ることを回避し、シンプルな行為がもたらす想像の回路を開いていた。
静かな住宅街で、個人宅の軒下に置かれた防火用のバケツに、二人がそっと入れるのは、小さな唐辛子である。その鮮烈で美しい赤。その行為は、むしろそっと贈り物を置いていくような、慎ましやかな贈与のようにも見える。一方、京都市内を流れる鴨川に「唐辛子を流す」行為は、河川敷という空間の公共性や開放感とあいまって、穢れや厄を依代(よりしろ)である人形に託して海や川に流す祭礼行事を想起させた。それは人を殺す「毒」ではなく、社会の底に澱のように溜まった「毒」を、身代わりとして流し、浄化しようとしているようにも見えるのだ。異質な他者への憎しみや排除が社会的不安や混乱の中で暴走し、肥大化した妄想が集団的につくりあげた「架空のテロ」の恐怖。その模倣行為が、憎しみの浄化行為として希望に満ちたものに変わる瞬間を、アートに成しえることとして差し出していた。
2016/05/06(金)(高嶋慈)