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美術に関するレビュー/プレビュー

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2015

会期:2015/07/26~2015/09/13

越後妻有地域(新潟県十日町市、津南町)[新潟県]

第一回をのぞき、毎回訪れているので、新作を中心にまわる。まずは十日町のエリア。キナーレにおける蔡國強の巨大インスタレーションは、横浜美術館の個展よりも、また以前、同じ場所に設置されたボルタンスキーよりもいい。そして閉鎖された酒屋をコインランドリーに変えた「目」の力技はさすがである。手塚建築研究所は、トンネル状木造の建築+蔀戸を出現させた。青木淳の現場を横目に見て、昭和女子大の杉浦ゼミのヤマノウチへ。前回の神社よりも高く登って、ついに木立のなかに斜めの白い膜がえんえんと続く大空間のインスタレーションに発展した。木の影の落ち方、またその重なりが美しく、同ゼミによるこれまでの作品で最も印象的だった。
中里エリアへ移動。青木野枝の作品が4カ所に点在する。集落の子どもとのワークショップ、棚田に設置された新作、小さな倉庫の中の緊迫感ある鉄のインスタレーション、そして山本想太郎のリノベーションによって清津倉庫美術館に生まれ変わった小学校の体育館である。体育館では、戸谷成雄、原口典之、遠藤利克も参加し、今回の目玉展示だった。
槻橋修+ティーハウスが設計した清津川プレスセンター(きよっつ)、勅使河原茜+草月サマーセミナーの竹の構築物を見学し、磯辺行久による土石流のモニュメントを通過し、松代エリアへ。イ・ブルとアネット・メサジェによる古民家介入は、いずれも怖い日本空間に変貌していた。保科豊巳の空中庭園は、建築的な作品で印象深い風景を生む。大巻伸嗣の影向の家では、暗闇のなかで生成する白い煙と影の動きを見る。古巻和芳は養蚕がテーマだった。

左上から、蔡國強のインスタレーション、ユニット「目」《憶測の成立》、手塚建築研究所の作品、昭和女子大の杉浦ゼミ《ヤマノウチ》、イ・ブル、アネット・メサジュの作品。右上から青木野枝のワークショップ作品、青木野枝インスタレーション、清津倉庫美術館、清津プレスセンター、勅使河原茜+草月サマーセミナーの作品、保科豊巳の空中庭園

2015/08/09(日)(五十嵐太郎)

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鎌倉からはじまった。1951-2016 PART2:1966-1984「発信する近代美術館」

会期:2015/07/04~2015/10/04

神奈川県立近代美術館[神奈川県]

鎌近閉館までのカウントダウン第2弾は、1966-84年に紹介された所蔵作品の展示。70年の「エドワルド・ムンク展」をはじめ、「ペーテル・ブリューゲル版画展」「ジェームズ・アンソール展」「ピラネージ版画展」など、この時期いちばん鎌近に通ってたなあ。でもここに出品されるのは所蔵品だけなので、ムンクもアンソールもない。目立ったのは高橋由一から岸田劉生までの明治大正期の絵画で、なかでも本多錦吉郎《中禅寺湖夜景》、安藤仲太郎《日本の寺の内部》、中村不折《根岸御行松附近夜景》といった脂派の暗い油絵がよかったなあ。も少し後だと岸田劉生の《野童女》《童女図(麗子立像)》、関根正二の《村岡みんの肖像》《少年》、もっと時代を下ると、川端実《作品B》、杉全直《野草》あたりが見もの。今回はBankARTスクールの受講生たちと一緒だったので、版画を展示してる別館まで足を伸ばしたら、ブリューゲルとムンクの版画が1点ずつ出ていた。ところで鎌倉館が閉館したら、この別館はどうなるんだろう? わざわざここまで版画を見に来る人は少ないだろうし。

2015/08/08(土)(村田真)

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光路

会期:2015/07/25~2015/08/08

SAI GALLERY[大阪府]

光を集め、屈折させることで像をつくり出すレンズ。そのレンズを光が通過した際にとる経路を意味する物理学用語「光路」をタイトルに、今村遼佑、大洲大作、前谷康太郎の写真・映像作品を紹介するグループ展。3名とも、「窓からの光」を捉えた自己言及的な映像作品という点で共通しつつ、時間、フレーミング、像=光という映像を成り立たせる要素に焦点を当てている。
大洲大作の映像インスタレーション《光のシークエンス・métro》は、地下鉄の車窓から捉えた光景を、実際に地下鉄車両で使用されていた車窓にプロジェクションした作品。暗闇に灯る電灯が、流れ星のように闇を引き裂く幾本もの光の筋となって画面をゆっくりと横切っていく。ここでは、引き伸ばされた時間とともに、可視的な光の軌跡として定着されている。
一方、今村遼佑の《窓》は、その名の通り、カーテンの掛かった窓越しに室内に差し込む朝日を固定カメラで捉えた映像作品。ここでは、「窓」は画面内に入れ子状にもう一つの矩形のフレーミングを形づくりつつも、窓外の風景=切り取られたイメージとして差し出すのではない。窓そのものを被写体とすることで、フレーミングという「窓」の機能を際立たせるとともに、矩形に切り取られたイメージ自体は、風に揺れるカーテンのそよぎや差し込む光の微妙な揺らぎによって間接的に伝えられる。見過ごしてしまいそうなほどの小画面、さらに床面近くの低位置に投影されることで、日常的でささやかな光景が異質なものへと変貌していく。
さらに、「窓からの光」を、遮蔽物など意図的な制限や操作を介して撮影することで、矩形のフレーミングや時間の推移に加え、受像=光の知覚へと還元するのが、前谷康太郎である。前谷はこれまでも、採取した自然光を抽出し、光の色・強弱の変化や拡張/収縮といった運動性へと還元することで、我々の眼が光を受容することで像を知覚・認識していることを改めて意識させる映像作品を制作してきた。出品作《womb》は、自作のカメラ・オブスクラのレンズに赤い画用紙を取り付け、大阪環状線の列車の車窓から撮影した映像作品。ガタンゴトンという電車の走行音が、かろうじて日常や具体性とのつながりを保っているが、光を遮る建物や電線の影が横切る度に、スクリーンを満たす赤い光がまばたきや心臓の鼓動のような明滅・強弱を繰り返し、窓の外を流れる日常的な車窓の風景が純化された光/影へと還元されることで、認識の母胎(womb)としての「光の受容」を意識させる。赤い色ともあいまって、子宮の中で「光」だけを捉えている記憶のような、皮膚感覚を活性化させる映像であった。

2015/08/08(土)(高嶋慈)

Art Court Frontier 2015 #13

会期:2015/08/01~2015/09/12

ARTCOURT Gallery[大阪府]

Art Court Frontierは、キュレーター、アーティスト、ジャーナリスト、批評家などが1名ずつ出展作家を推薦し、関西圏の若手作家の動向を紹介する目的で2003年に始まったグループ展。これまでは毎年約10組が参加していたが、今年は4組に絞って各作家の展示スペースの拡大を図り、選抜グループ展というよりも4つの個展が並置されたような充実感があった。
contact Gonzoは、自作の巨大なゴムパチンコで、最大時速100kmで射出されるフルーツを肉体で受け止めるパフォーマンスの瞬間を撮影。広告のように壁面を覆う、縦横2~3mほどの巨大なサイズに引き延ばして展示した。裸の上半身に激突して破裂するフルーツ、飛び散る飛沫。破壊的な力を肉体で受け止め、痛みに耐える彼らの表情は、殉教者のように崇高にも見える一方で、威圧感を与える記念碑的なサイズ感とも相まって、「強い肉体」の誇示やマッチョイズムの称揚にも見えてしまう。
谷口嘉は、可変的なガラスという素材に最小限の手を加えただけの操作の反復により、外光の射し込む廊下の壁面を活かした、美しいインスタレーションを展開。四角く切ったガラスの小片を微妙な角度の変化をつけて壁に取り付けることで、見る角度や距離により、光の反射と陰影が刻々と変化し、有機的な表情を見せる。
東畠孝子は、「セーターに付いたオナモミ」という関係を「角材から垂れ下がる衣服」へと変換したり、「家」の外形をシンプルに表わす形を壁紙でなぞるなど、手触り感や記憶を喚起するような既製品を用い、主と従、内と外といった転換の操作を加えることで、「時間」や「記憶」という本来目に見えない存在の可視化を試みる。
堀川すなおは、言語とドローイングという異なるメディアによる二段階の伝達に加えて、他者の介入を経ることで、同じ対象物に対する「認識」の差異や多様性を視覚的に提示する。出品作は、「バナナ」の形を観察した文章をつくり、それを読んで緻密に描いたドローイング。作家自身による複数のバージョンに加え、ある1名の観察者の記録を、「25人の色々な人種の人が読んで形にする」作品では、同じバナナという対象が、謎の植物組織の図解、原始的な生物の体組織、精密機械の部品や設計図のようにも見え、日常的なコミュニケーションにおいては捨象されている「認識のズレ」の幅を押し広げて、「客観的な認識」と「想像力」との曖昧な領域を出現させていた。

2015/08/08(土)(高嶋慈)

三田村陽「hiroshima element」

会期:2015/07/21~2015/08/08

The Third Gallery Aya[大阪府]

写真集『hiroshima element』の発刊に合わせて開催された個展。写真家の三田村陽は、約10年間にわたり、月1回のペースで広島に通いながら撮影を続けてきた。本展では、その中から57点が壁を覆うようにグリッド状に展示された。いずれも、広島という都市の日常風景や人々をカラーで撮ったスナップ写真。モノクロ写真にともすればつきまとう、悲劇性の強調や重厚さは、ない。また、写真家の眼差しは、被爆の痕跡を物語るフォトジェニックなモニュメントへと寄るのではなく、求心的な物語を紡ぐ代わりに、風景の中にあてどなく身を置くような散漫的ですらある視線、観光客のそれとは異質な視線を伴った歩行とともに、この地方都市の姿を切り取っていく。
平和記念公園やその周辺で撮られたとわかる写真もあれば、平凡で匿名的な一地方都市の街並みのワンシーンもある。原爆ドームはフレームの中心に収まることはなく、商業ビルの間や観光バスが連なる橋の彼方に小さく見えている。あるいは、平和記念式典のための椅子並べの設営や、公園内の清掃など裏方の作業をする人々。トラックの背面に描かれた非核を訴える原爆ドームの絵や原爆展のポスター。何気ない日常風景の中に、目を凝らすと異物のように差し挟まれた存在に気づくとき、場所の特異性へとその都度連れ戻される。
三田村の写真は、特定の場所や時系列に沿って編集されているわけではないが、寂れた商店街や再開発など、変化していく都市のダイナミズムの記録ともなっている。また、もうひとつの特徴として、携帯の写メや記念撮影など「撮影する人々」のスナップが点在することが挙げられる。「眼差しを向ける行為」を入れ子状に写すことで、眼差しが過剰に供される場であることを告げているのだ。
都市の住人/外部からの訪問者、日常/非日常(とりわけ8月6日という局所的な時空間への集中)の狭間に身を置いて、広島という都市を撮り続けること。その行為は、再開発など街の外面的な変化と、自らの眼差しと広島との距離という内面的変化とを同時に眼差し、記録する行為でもある。
時間や季節ごとに異なる表情を見せる美しい川辺。川は、広島という都市の指標のひとつであるとともに、流れゆく時間のメタファーとしても機能する。群衆の集う特定の一日を除けば、そこに流れている穏やかな日常の時間。しかし、三田村の写真と向かい合うときに思い至るのは、目を凝らせば遠景に原爆ドームの姿が視認されるということだけではない。アイコン的存在であるドーム以外にも、雑多な街並みや人混みの中には、フォーカスされていないだけで、被爆した建築物や樹木などの過去の痕跡が、実は画面内に写り込んでいるのかもしれない、という思いへと至るのだ。写真は、刻々と変化する「広島の現在」を記録するが、そこには記憶の磁場が潜在している。それらは不可視なのではなく、説明やフォーカスがなければ認識できない私たちの弱い視力の、解像度を上げていくことでしか接近できないのだ。それは、「可視性の政治」への抵抗の試みでもある。
三田村の写真は、写真という可視化する(ことが可能だと思われている)装置によって形成されてきた場所のアイデンティティを、いったん振り払う地点からもう一度風景を眺めること、そして獲得された新たなイメージの多層性の中から見えてくるものを、粘り強く解像度を上げて凝視することの可能性と困難を自覚的に引き受けながら、写真を見る者にもそうした態度へと誘っている。

2015/08/08(土)(高嶋慈)