artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
菅木志雄「もの」が開示する「状況のオリジン」
会期:2014/11/02~2015/03/24
ヴァンジ彫刻庭園美術館[静岡県]
クレマチスガーデンの小道を歩いてヴァンジ彫刻庭園美術館へ。菅木志雄の個展には似つかわしくない環境だが、館内はシンプルなつくりで展示空間としては悪くない。でもヴァンジさんの人物彫刻が気になるなあ。菅さんの作品は屋外やロビーにも置いてあるのだが、どうやら水のない池の石をビニールで包んだり、窓に角材を斜めに立てかけた作品などは、ヴァンジ目当ての客には見過されてしまってるようだ。てか、コンクリートの立方体を矩形に並べたり、金属パイプを立体的に組み立てたりしたインスタレーションが、はたして人物彫刻を見に来た人たちの目に「作品」として認識されただろうか。「もの」が開示する「状況のオリジン」が、どこまで理解されただろう。「あら、準備中?」で終わらなかっただろうか。逆に、菅さんの作品を見に来た人たちには、メダルド・ロッソから舟越桂まで近代彫刻のエッセンスをサンプリングしたようなヴァンジの彫刻は、それなりに衝撃的だったはず。その意味では異質なものが出会う展覧会だった。
2015/02/07(土)(村田真)
富士山イメージの型
会期:2015/01/17~2015/07/05
イズフォトミュージアム[静岡県]
今日は静岡県の美術館をハシゴ。初めに訪れたのは三島駅から富士山の方角へ無料シャトルバスで20分ちょっと、クレマチスの丘。ベルナール・ビュッフェ美術館にヴァンジ庭園美術館……だれの趣味で集めたのか知らないけれど、それらのコレクションを反面教師とするかのような意欲的な企画展を開いてる。まずはフォトミュージアムへ。富士の裾野(正確にいうと愛鷹山の裾野か)に位置する美術館としては避けて通れない、いやむしろ汲めども尽きぬモチーフというべき富士山に焦点を当てた展示。第1部では幕末以降、写真の導入により富士山のイメージがいかに定着してきたかを探り、第2部では、東京帝大で寺田寅彦に学び、御殿場に私設の雲気流研究所を設けて富士山にかかる雲の定点観測を行なった阿部正直博士の写真やスケッチを紹介している。おもしろいのは第1部だ。開港後の横浜では、外国人の土産物として日本の風景や風俗を写した「横浜写真」が人気を博し、海外に「フジヤマ・ゲイシャ」的な日本の定型イメージを植えつけたという。はて、横浜写真にそんなに富士山が写っていたっけと思ってよく見ると、なるほど、どの写真にも背景にちゃっかり富士山が「描かれ」ているではないか。以後、富士山は記号化され日本のシンボルとして内外に定着していくのだが、皮肉なのは第2次大戦中、霊峰として戦意発揚のプロパガンダに使われた富士山は、一方で、太平洋を北上してきた米軍の爆撃機には恰好の目標になっていたこと。その雄姿が日本人の心の支えになった反面、図体がデカすぎて標的にもなっていたのだ。この罪つくりな山塊にいっそう愛着が湧いてくる。
2015/02/07(土)(村田真)
TURN/陸から海へ ひとがはじめからもっている力
会期:2015/02/01~2015/03/29
鞆の津ミュージアム[広島県]
日比野克彦監修による連続企画展。鞆の津ミュージアムをはじめ、全国4会場を巡回しながら、「ひとがはじめからもっている力」を再認識させる作品を見せた。参加したのは、会場によって異なるとはいえ、Chim↑Pomやサエボーグ、中原浩大、田中偉一郎、岡本太郎、マルセル・デュシャンなど、古今東西さまざまなアーティスト、27組。全般的な傾向として、日比野自身や中原浩大といったベテランのアーティストが、おそらく「ひとがはじめからもっている力」を意図した作品を発表したため大失敗していたのに対し、比較的若いアーティストはそのようなテーマと無関係に作品を制作しているため、それぞれ鮮烈な印象を残すことに成功していた。
淺井裕介は土蔵の内部に、彼が近年熱心に取り組んでいるマスキングテープを貼り合わせた作品を制作した。暗い空間の四方八方に手足を突っ張った、有機的な生命体のような作品は、絵画でもあり彫刻でもあり、しかしそのいずれでもないような不思議な魅力を放っていた。
岩谷圭介は日本で初めて風船による宇宙撮影を成功させた人物。実際に風船を上昇させ、そのカメラから見える光景を撮影した映像を発表した。回転しながら徐々に高度を上げていく風船は、厚い雲を突き抜け、大気圏外へ入る。黒い宇宙空間と青い地球の対比が目覚ましい。やがて風船が破裂すると、落下。映像には、GPSを頼りに回収する様子まで記録されている。岩谷のプロジェクトが素晴らしいのは、必要最低限の技術を自分で開発することによって、通常、国家や巨大資本に牛耳られている宇宙空間を個人の手の中に見事に取り返している点にある。大空を飛ぶ自由を奪還しているのが八谷和彦だとすれば、岩谷圭介は宇宙を「我が物」にしようとしていると言えよう。アクセスしがたいエリアに接近しうる糸口をつけた意義が大きいのはもちろん、ほんとうに優れているのは、まさしくその壮大な想像力なのだ。
だが、個別の作品はともかく、展覧会全体に視角を広げてみれば、疑問がないわけではない。例えば「TURN」というコンセプトは、海から陸への転回によって、「ひとがはじめからもっている力」への視点の転換を暗示していることは理解できるにしても、そのパースペクティヴがあまりにも広すぎるため、それが具体的に何を指しているのか、いまいち理解しにくい。言い換えれば、「TURN」によって対象化される事象と、「アール・ブリュット」や「アウトサイダー・アート」、あるいは「ポコラート」が指示する事象の区別が判然としないのである。このようなコンセプトの曖昧さは、必然的に「ひとがはじめからもっている力」の曖昧さと結びついている。「ひとがはじめからもっている力」という理念は、稚拙な描写であろうと、単純なかたちの造形であろうと、シンプルな想像力であろうと、どんな作品であれ回収しうる広がりを持ちえている。ところが、厳密に考えてみると、この美術館の前回の展覧会「花咲くジイさん〜我が道を行く超経験者たち〜」で披露されていたような、老人の想像力や創造力、そしてエロスは周到に排除されていることに気づかされる。老人の止むに止まれぬ創作活動が「ひとがはじめからもっている力」の発露ではないと言い切ることができるのだろうか。
「TURN」のような装置が、社会的な弱者や周縁化された人々を包摂するノーマライゼーションの政治学に貢献することは想像に難くない。だが、いみじくも岩谷の風船宇宙撮影が端的に示しているように、アートの可能性は、そのような社会の同調圧力ないしは限界を鮮やかに突き抜ける運動性にこそあるのではなかったか。社会をより豊かにするためには、「ひとがはじめからもっている力」などという無難なテーマではなく、大気圏外へと突破するアートの力をこそ理念とすべきである。
2015/02/07(土)(福住廉)
くぼみの測量 猪原秀彦・尾柳佳枝・長尾圭3人展
会期:2015/01/26~2015/02/07
2kw gallery[大阪府]
ペインティングの長尾圭、ドローイング等の平面作品の尾柳佳枝、鉄工、木工などアンティーク家具などを制作する猪原秀彦。尾柳によるドローイングが施された布団、長尾の絵画による装飾(窓のようにも)、猪原によるスタンドライトという、ベッドルーム風の一室は、装飾としてではあるが、それぞれの良さを生かした展開になっていた。作品の素直な落としどころというか、シンプルな美しさを感じる瞬間があった。
2015/02/06(金)(松永大地)
黒瀬正剛展 shiroe
会期:2015/01/28~2015/02/08
Millibar Gallery[大阪府]
絵が動き出しそう、というか、ひょっとして動いてはいないだろうか。小さな文字や記号にも見える粒が無数に集まって形や風景となっている。その粒のひとつひとつは、キャンバスにこびりつくようなマチエールで、それが細菌の集合体のように、極小な生命が自然発生したものみたいに見えてくる。キャンバスの上ににじみ出てきた、といったような。作為的なものをあまり感じないランダムさが不思議で魅力的な作品群。
2015/02/06(金)(松永大地)