artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

阪本勇「天竺はどこや!!」

会期:2014/05/12~2014/05/29

ガーディアン・ガーデン[東京都]

阪本勇は2006年に第27回写真「ひとつぼ展」に出品して入選した。今回のガーディアンガーデンでの個展は、最終審査までは残ったが、グランプリには届かなかった出品者の作品をあらためて取り上げる「The Second Stage at GG」の枠での展示になる。
会場に入ってすぐに目につくのは、天井から床の近くまで壁一面に貼られた巨大壁画である。ピカソの《ゲルニカ》をモノトーンで実物と同じ大きさに複写・プリントし、色のついた布テープをモザイク状に切り貼りして色をつけていく。まだ完成途上だが、でき上がったら子供たちとピクニックに行って、レジャーシートのように地面に敷いて楽しみたいのだそうだ。この壁画は、阪本の写真作品とは直接かかわりはない。だが単なる会場の装飾でもない。彼の創作全体を貫く無償のエネルギーの放出の仕方、被写体をパッチワークのように画面に構成していく感覚が、写真も壁画もまったく同じなのだ。おそらく彼にとっては壁画の制作も、写真を撮ったり、プリントしたりすることも、勢いのある文章を綴ることも、すべて根っこの所ではつながっているのだろう。そのあふれ出るエネルギーのボリューム感とスピード感が、以前に比べて格段に増しているように感じた。
それにしても、阪本の写真は「大阪的」としかいいようがない。彼はいま東京で暮らしているが、被写体の選び方、撮り方、見せ方に、派手好きで、演劇的なシチュエーションにさっと反応する大阪人の血が通っている。阪本だけでなく、佐伯慎亮、辺口芳典、鍛冶谷直記など、大阪出身の写真家に特有の、こってりとしたディープなスナップ写真のスタイルは、ひとつの水脈を作りつつあるのではないだろうか。

2014/05/24(土)(飯沢耕太郎)

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太田遼 武政朋子 箕輪亜希子「From the nothing, with love. ─虚無より愛をこめて─」

会期:2014/05/21~2014/06/01

シャトー小金井[東京都]

「絵画」や「彫刻」、「建築」を根本的に疑うこと。それぞれのジャンルに内在する文法や文脈を無邪気に踏襲して「新しさ」を吹聴するのではなく、それらを内側から徹底的に再検証すること。昨今あまり見かけなくなった仕事に熱心に取り組んでいるのが、太田遼と武政朋子、そして箕輪亜希子の3人である。
会場に入ると、白い通路が一直線に伸びている。一方の壁にはいくつかのドアが設えられているが、大半はこの会場にはなかったものだ。作品のありかを探しあぐねていると、長い通路を回りこんだところで合点がいった。通路に見えたのは仮設の壁面で、裏側には木材が剥き出しのまま、いくつかの絵画作品が展示されていた。ドアもフェイクだから、もちろん開かない。通常であれば絵画は白い壁面に展示されるが、この場合はむしろ裏と表が逆転しているわけだ。空間の内側と外側を巧みに反転させる太田遼ならではの快作である。
その剥き出しの壁面に展示されていた武政朋子の作品は、一見すると茫漠とした色面が広がる抽象画のようだが、よく見ると不規則な点線が描かれている。これらはもともと武政が描いた過去の絵画作品の表面を削りとり、点によってトレースしたもの。とりわけ際立つ十字のようなかたちは、キャンバスを裏側で支える木枠の痕跡だという。自らの絵画を分解して再構成すると言えば聞こえはいいが、そのような安易な形容を許さないほど強い身体性を感じさせている。文字どおり「身を削る」ような彫刻的身ぶりによって、武政は絵画を更新しようとしたのかもしれない。
彫刻の箕輪亜希子が発表したのは、写真作品。日常的な風景を切り取ったスナップ写真だが、それらの画面は人の顔の造作に見えなくもない。無機的な風景に人の顔を重ねて見る写真は多いが、箕輪の写真はその重複をわずかにずらしているから、たんに偶然の一致を喜ぶような写真ではない。他の作品で陶器を割り、再びつなぎあわせる行程を何度も繰り返しているように、箕輪の関心は「かたち」を疑い、「かたち」を弄り出すことにあった。人の顔に見えなくもない写真作品は、その「かたち」と「かたち」のはざまを写し出しているのである。
もはや既存のジャンルを無批判に信奉することはできないにしても、その圏外に容易には抜け出し難いこともまた否定できない事実である。それゆえ、美術を学んでしまった者たちの多くは、内側に立ちながら、外側へ突き抜ける造形をつくり出すことを余儀なくされる。その際、考えられるひとつの選択肢として、言語化しえない領域に降りる方法があるが、しかし彼らはそうはしない。意味や言葉が生まれる前の状態に立ち返るのではなく、ジャンルを内破する構えをあくまでも自己言及的に保持するのだ。だから彼らがそれぞれのジャンルで何をしようとしているのか、それらをどのように塗り替えようとしているのか、鑑賞者にはよくわかるのだ。ジャンルは作品のつくり手だけで成り立っているわけではないのだから、深みに降りていくのではなく、受け手とともに外側へ向かおうとする彼らの姿勢は誠実であるし、期待が持てる。

2014/05/23(金)(福住廉)

作間敏宏「治癒」

会期:2014/05/19~2014/05/31

巷房2+巷房階段下[東京都]

作間敏宏は、電球をさまざまな構築物に配置、増殖させていくインスタレーション作品で知られる現代美術作家である。一方で、1996年に生後すぐから約40年間の自分の顔写真を合成した「self-portrait」を発表したのをきっかけに、写真・映像を積極的に作品に取り込んできた。今回の巷房2+巷房階段下での展示でも、木造の家の形の構造体に無数の電球を配した作品に加えて、壁に映像作品を投影していた。
その画像は、インターネットから任意に抽出された100枚の日本の家の写真を重ね合わせることによって作られる。ぼんやりと輪郭が定まらない二階家が、ふわふわと宙を漂うように浮かびあがってくるのだが、そのたたずまいが何とも心騒がせる奇妙な魅力を発していた。どこにもないはずなのに、どこかで見たことがあるように感じてしまう「不在の実在」とでもいうべきリアリティが、インターネット画像の機械的な抽出によってなぜ生じてくるのか。おそらく、そこにわれわれの記憶の中に蓄積された「家」の視覚像に、極めて近いイメージが立ち上がってくるからなのだろう。19世紀以来、人類学の領域では、同じ人種や社会集団に属する人の顔を重ね合わせて平均的な容貌を探り出す合成写真が作成されてきたが、ここでも日本の「家」の原型(アーキタイプ)があらわれてくるように思える。
もう一つ、その画像の不思議な浮遊感について作間と話していて、二人とも同じイメージを思い浮かべていたことがわかった。実は作間は僕と同郷の宮城県の生まれである。東日本大震災直後に、二人とも津波で流出して海や川に漂う「家」を目にしていた。堅固に地上に打ち建てられていたはずの「家」が、水の上にはかなげに浮かんでいる。その記憶が今回の作品に結びついた。壁に投影された画像には仕掛けが凝らされていて、彼がよく作品に使う電球の光のような白い複数の球体が、ぼんやりとあらわれては上方に消えていく。そこにはおそらく、震災の犠牲者に対する鎮魂の意思が込められているのではないかと感じた。

2014/05/23(金)(飯沢耕太郎)

「ウフィツィ美術館展」記者発表会

会期:2014/05/23

イタリア大使館[東京都]

有楽町から三田へ記者発表会のハシゴ。最近、イタリア関連の展覧会の記者発表会はイタリア大使館で開かれることが多いが、ここは会見場から窓越しに池が見えるのでなんとなくうれしい。同展は9点のボッティチェリを中心に、フィリッポ・リッピ、ブロンヅィーノ、ヴァザーリ、ポントルモらの出品。中(レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ)を抜いたルネサンス美術展だな。10月11日から12月14日まで東京都美術館にて。

2014/05/23(金)(村田真)

「ホイッスラー展」記者発表会

会期:2014/05/23

日本外国特派員協会[東京都]

今年はジャポニスムの当たり年。モネの《ラ・ジャポネーズ》を目玉とする「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」に続いて、モネ以上にジャポネズラー(こんな言葉はありません)なホイッスラーの登場だ。ホイッスラーはアメリカに生まれ、幼少期をロシアですごし、パリで絵を学び、ロンドンに移住したというコスモポリタンだけに、日本美術を難なく受け入れることができたのかもしれない。実際、彼はモネより10年以上も早く和服を着た白人女性が壷に絵付けする和洋折衷絵画《紫とバラ色:6つのマークのランゲ・ライゼン》を描いている。この作品と《ラ・ジャポネーズ》を隣に並べてみたい欲望にかられるが、じつは「ホイッスラー展」の立ち上がりは京都国立近代美術館(9/13-11/16)で、同じ時期「ボストン美術館展」が向かいの京都市美術館(9/30-11/30)に巡回するので、作品同士が隣り合わせになるわけではないけれど、隣の美術館で両作品を見比べることができるのだ。偶然にしてはできすぎだな。首都圏は12月6日から2015年3月1日まで横浜美術館で開催。

2014/05/23(金)(村田真)