artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
スピリチュアル・ワールド
会期:2014/05/13~2014/07/13
東京都写真美術館3階展示室[東京都]
あまり適切な言い方ではないかもしれないが、「意外に」面白い展覧会だった。毎年開催される東京都写真美術館の「コレクション展」も、そろそろネタ切れになりかかっているのではないだろうか。今回は、ある意味開き直ったということだろう。「不可視のもの、超越的なものにむかって、感性のチャンネルを開いていく」写真群を、「スピリチュアル・ワールド」という括りでまとめて、展示することになった。
あまりにも大ざっぱな定義であり、「神域」(鈴木理策、濱谷浩など)、「見えないものへ」(渡辺義雄、石元泰博、東松照明など)、「不死」(石川直樹、岡田紅陽など)、「神仏」(土門拳、土田ヒロミなど)、「婆バクハツ!」(内藤正敏)、「王国・沈黙の園+ジャパネスク・禅」(奈良原一高)、「全東洋写真・インド」(藤原新也)、「テクナメーション」(横尾忠則)、「湯船」(三好耕三)という展示構成もまったく一貫性がなく、混乱の極みとしかいいようがない。だが、逆にこれだけ写真家たちの年代、作風がバラバラだと、写真同士が衝突して、妙なエネルギーの渦が生じてくるように感じる。またこの混沌とした眺めは、八百万の神が宿る日本の宗教・精神世界の状況を、そのままストレートに反映しているようでもある。
印象に残った作品も多かった。鈴木理策の「海と山のあいだ」や三好耕三の「湯船」シリーズは、別な機会にもっと大きなスケールの展示でぜひ見てみたい。そこにはたしかに「不可視のもの」への通路がほの見えているように感じた。
2014/05/17(土)(飯沢耕太郎)
われわれは〈リアル〉である 1920s-1950s──プロレタリア美術運動からルポルタージュ絵画運動まで:記録された民衆と労働
会期:2014/05/17~2014/06/29
武蔵野市立吉祥寺美術館[東京都]
板橋区立美術館からバスで成増に出て、池袋-新宿経由で吉祥寺へ。こちらは板橋とは対照的に繁華街のビルの中にあるので便利だけど、それだけに窮屈なのがタマにキズ。展示は板橋と重なる部分もたくさんあったが、こちらは戦前の作品や戦争画も含まれ、また漫画や雑誌などの印刷物もかなり出品されてるので見応えがあった。もっとも全体的に暗いのは同じだが。印象に残ったのは、須山計一や小畠鼎子らの銃後の美術と、中村宏、池田龍雄、桂川寛らのルポルタージュ絵画。とくにルポルタージュ絵画はメッセージ性だけでなく絵画としても特異な位置を占めていると思うし、世界記憶遺産とまではいかなくても、もう少し高く評価されてしかるべきだし、もう少し広く知られてもいいと思った。一般に長いタイトルの展覧会はピントがボケたものが多く、ロクなもんじゃないが、これは例外だろう。板橋といい、先日見た府中市美術館といい、中小の公立美術館が地味ながらがんばってるなあ。
2014/05/17(土)(村田真)
焼け跡と絵筆──画家の見つめた戦中・戦後展
会期:2014/04/12~2014/06/15
板橋区立美術館[東京都]
今日は板橋から吉祥寺へ戦中・戦後美術のハシゴだ。板橋では同館コレクションから戦中・戦後に描かれた絵画を紹介している。「戦中の前衛画壇と池袋モンパルナス」「時局の悪化と画家のまなざし」「焼け跡の風景」「事件、社会を描くルポルタージュ絵画」などいくつかのテーマに分かれているが、奇妙なのは戦中と戦後で作品にそれほど違いが感じられないこと。一様に暗いのだ。もうちょっと戦後の絵画は明るくて解放感があると思ったのに、やっぱり敗戦の重圧と脱力感は想像以上に大きかったのだろうか。おそらく戦中も戦後も画材が乏しかったので、暗くて小さい絵しか描けなかったという理由もあるかもしれない。威勢のいい戦争画もないし。目を引いたのは、福島秀子、漆原英子、草間彌生ら戦後登場した女性作家のザワつくような作品と、中村宏や高山良策らによる社会的メッセージ性の強いルポルタージュ絵画。それにしても、こんなに地味で暗い展覧会に、しかもこんなに駅から遠い美術館にいったいだれが見に行くだろうと心配したけど、そこそこ人が来ていたのは、やっぱり入場無料だからでしょうね。
2014/05/17(土)(村田真)
映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める
会期:2014/04/22~2014/06/01
東京国立近代美術館[東京都]
ベルギー出身のアーティスト、マルセル・ブロータースを中心に国内外のアーティストによる映像作品を展示した展覧会。興味深かったのは、展覧会のコンセプトと展示構成が照応していたこと。会場中央のブロータースの部屋から四方に向かって暗幕の小道がいくつも伸び、その先にそれぞれの参加作家の作品が展示された。暗闇の道を歩いて映像を訪ね歩く鑑賞方法が面白い。
とりわけ注目したのが、エリック・ボードレールとピエール・ユイグ。前者はパレスティナの風景やさまざまなイメージを映しながら、パレスティナ解放戦線に身を投じた重信房子の娘メイと、重信に合流した映画監督の足立正生による語りを聞かせる作品だ。映像化されていない27年間という時間について足立とメイが口にする言葉と、それらにあわせて映し出される映像は直接には対応していない。けれどもその音声と映像が脳内でまろやかに溶け合うとき、眼前の映像とはまったく別の映像を見ているような気がしてならない。映像を見ていながら、実はもうひとつ別の映像を見ているのだ。もちろん、それは単なる眼の錯覚なのかもしれないが、しかしそれこそが紛れもない映像詩と言うべきだろう。言葉の奥にイメージを見通すのが詩であるとすれば、エリック・ボードレールの映像作品は確かに映像の向こうを垣間見させたからだ。1時間ほどの尺がまったく苦にならないほど濃密で洗練された詩情性が実にすばらしい。
一方、ピエール・ユイグの作品の主題は、銀行強盗。1970年代にニューヨークで起きた銀行強盗事件の犯人に、当時の現場を再現したセットで証言させた。行員や警備員、警察官役のエキストラに指示を出しながら事件の経緯と内情をカメラに向かって話す犯人の男の口調はなめらかで意気揚々としている。だが、時折差し込まれる同事件に着想を得た映画『狼たちの午後』からの引用映像や、当時の現場を報じるテレビのニュース映像は、基本的には犯人の証言に沿いながらも、正確にはわずかにずれており、犯人が詳らかに語れば語るほど、その微妙な差異が逆説的に増幅していくのだ。おそらくピエール・ユイグのねらいは事件の真相を解明することにあるのではない。さまざまな視点による複数の映像を縫合することなく、あえて鑑賞者の眼前にそのまま投げ出すことによって、私たちの視線を映像と映像の狭間に導くことにあったのではなかったか。映像を見る快楽とは、視線がその裂け目にゆっくりと沈んでいくことに由来しているのかもしれない。
両者は、方法論こそ異なるとはいえ、ひとつの共通項を分有していた。それは、視線の焦点が映像そのものにあるのではなく、その先に合わせられているということだ。そこに、映像表現を楽しむための手がかりがある。
2014/05/17(土)(福住廉)
開館10周年記念 レアンドロ・エルリッヒーありきたりの?
会期:2014/05/03~2014/08/31
金沢21世紀美術館 展覧会ゾーン[石川県]
金沢21世紀美術館の「レアンドロ・エルリッヒーありきたりの? 」展へ。すでに常設で組み込まれたプールの作品のように、空間のイリュージョンをつくりだす作風で知られるが、美術館の内部に様々な虚構の空間が出現する。映画『インセプション』のように、横倒しになった大きな階段室、展示室内のありえないエレベーター、鏡面効果を用いた屋内庭園、床に映り込む街路、鏡越しのリハーサル室、ログハウスなど、自分がどこにいるのか、くらくらする体験が続く。
2014/05/16(金)(五十嵐太郎)