artscapeレビュー
書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー
カタログ&ブックス│2018年2月
展覧会カタログ、アートにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
石膏デッサンの100年─石膏像から学ぶ美術教育史
美大受験をする者なら誰もが経験する「石膏デッサン」。膨大な時間をかけて修練し、ようやく美大に入ってみ ると、石膏デッサンを否定する教育方針にあぜんとした経験があるはずです。「はたして、石膏デッサンは必要なのか?」。この議論は長く続いていますが、その言説は膠着しています。 本書は、日本の美術が石膏像を受容して以来、美術教育にどのように用いてきたかといった、教育者や作家た ちの苦闘の歴史を捉え直すことで、構築的な美術教育のかたちを目指し、新たな創造への足がかりとします。 日本の美術は、いかに西洋を受容し、近代化してきたのか。その曲がりくねった歴史と、そこに生じた熱量とを、 石膏像を媒体にスリリングに読み解いていく本書。教育者はもちろんのこと、美大受験を控えた受験生、さらに は日々制作と向き合うアーティストに読んでもらいたい書籍です。
紙背 3号
artscapeレビュワーの山﨑健太氏が編集・発行人を務める演劇批評誌の第3号。山本卓卓『その夜と友達』、山田百次『小竹物語』、小田尚稔『悪について』、三浦直之『BGM』といった気鋭の劇作家による戯曲と、それらの作品をめぐる論考を収録。「地点」主宰の三浦基氏によるエッセイ「走り続ける」も必読。
「第20回 DOMANI・明日展 未来を担う美術家たち」カタログ
将来の日本の芸術界を支える人材育成のため、若手芸術家が海外の大学や関係機関などで行なう研修を支援する「新進芸術家海外研修制度」の成果発表のための展覧会「DOMANI・明日展」の展覧会カタログ。雨宮庸介、西尾美也、やんツーなど、出品作家の作品と言葉を全点フルカラーで掲載。展覧会は国立新美術館にて2018年3月4日(日)まで開催中。
安齊重男による日本の70年代美術
1970年、安齊は同世代の作家たちが生み出す一過性の作品を35mmカメラで記録し始めます。後に「もの派」と称される芸術運動体の揺籃期は、安齊の眼を通して知られますが、その眼は直ぐに同時代の他の新しい芸術動向にも向けられました。日本の現代美術の変革期を捉え続けてきた安齊重男の仕事を紹介します。
「縫うこと、着ること、語ること。」日記
KIITOアーティスト・イン・レジデンス2015-2016(招聘作家:長島有里枝)の成果物として、「縫うこと、着ること、語ること。」日記を発行いたしました。
本冊子で初公開となる滞在制作中の日記をはじめとして、成果発表展で発表した作品や展示風景写真も含んだ、96ページの冊子です。
2018/02/14(水)(artscape編集部)
野村次郎『茜と梅』
発行所:赤々舎
発行日:2017/11/01
野村次郎は「日常」を撮影し続けている写真家だ。身近な人物たちや周囲の状況、日々の移ろいなどをカメラにおさめていく行為は、もはや日本人の写真表現のベースになっていて、これまでも多くの作品が発表されている。だが、野村が刊行してきた写真集『遠い眼』(Visual Arts、2009、第7回ビジュアルアーツアワード受賞作)、『峠』(Place M、2012)、そして本作『茜と梅』を見ると、そこに漂っている空気感が、ほかの写真家たちの「日常写真」とはかなり違っていることがわかる。中判カメラで撮影され、モノクロームにプリントされた写真の一枚一枚は、鋭いエッジのナイフで切り出されたような緊張感を湛え、タナトスの気配が色濃く漂っている。写真を見ていると、じわじわと「怖さ」に捕われてしまうのだ。
野村は一時期「引きこもり」になり、精神的に不安定な時期を過ごしたことがあった。その後、「茜ちゃん」と出会って結婚し、犬を飼い始めて小康を得る。だが、精神状態の微妙な変化に対応する日々はいまも続いているようだ。野村にとって、写真を撮ることは、ともすれば向こう側に大きく振れてしまう自分自身を保ち続けるための緩衝剤の役目を果たしているのではないだろうか。本作に登場する「茜ちゃん」と彼女を包み込む世界は、ほのかな微光に包まれているように見える。ぎりぎりの綱渡りでつくり上げられてきた写真たちにも、以前に比べると柔らかなふくらみがあらわれてきた。撮り続けることと生きることとのバランスをうまく保ち続けて、繊細だが強い吸引力を持つ作品世界を、より大きく育てていってほしいものだ。
2018/02/13(火)(飯沢耕太郎)
三木清、大澤聡編『三木清文芸批評集』
発行所:講談社
発行日:2017/09/09
昨年、三木清(1897-1945)の著作が立て続けに刊行されたのは印象的な出来事であった。そこには『人生論ノート』のようなベストセラーや、晩年の遺稿『親鸞』なども含まれるが、そのなかでひときわ輝きを放っていたのが、大澤聡の編集による講談社文芸文庫刊の三部作である。先行する『教養論集』(1月刊)、『大学論集』(4月刊)に続く本書『文芸批評集』の刊行をもって、同三部作は昨年9月に完結をみた。
いわゆる京都学派のメンバーとして知られる三木清は、パスカル研究をはじめとする哲学的な業績によって知られる一方、文芸批評にも多大な精力を注いだ。その背後には当人の内発的な動機もあろうが、それ以上に外的な事情が関わっている。1930年に治安維持法で逮捕・検挙され、大学の辞職を余儀なくされた三木は、同年以降、文芸誌や新聞をみずからの主戦場とすることになった。それが後年の三木の著述スタイルに及ぼした影響については、小林秀雄との関係を論じた本書解説に詳しい。
肝心の内容だが、まず強調しておくと、本書はたんなる過去の歴史的資料として読まれるべきものではない。とりわけⅠ「批評論」とⅡ「文学論」にまとめられたテクストは、いずれも批評や文学をめぐる原理的な洞察に満ちており、平易な文体によって綴られたその内容はいまなおアクチュアリティを失っていない。
例えば巻頭を飾る「批評と論戦」(1930)を見よう。「批評」は一方的でありながらも「何等かの程度で相手を認めようとする」のに対し、「論戦」は双方的でありながら「どこまでも相手を排撃しようとする」。「批評と論戦とはこのように区別されるけれども、現実に於ては多くの場合二つのものは混合されるか或いは混同されるかしている」。そのような認識のもと、批評を論戦に変えることを戒め、あくまでもそれを相互批評に導くことの必要性を説く三木の主張は、いまなお(あるいはSNSが普及した現代においてこそ?)傾聴に値するものである。
また「通俗性について」(1937)の冒頭には次のようにある。「評論、文学、また哲学においても、もっと一般人に分り易いものにするということが問題になっている。いわゆる通俗性の問題である」。これもまた、現代においてなお解決をみない切実な問題のひとつであろう。三木はこうした「通俗性」の要求がともすれば「俗悪」に流れ、著者固有の文体・思想を喪わせてしまう危険性を指摘するいっぽう、「自分の文体を放棄する」ことが「真の文体」の発見には必要である、というより高次の指摘を付け加えることを忘れない。三木にとっては、分かり易さを求める読者への迎合(=俗悪)も、それに無闇に抵抗する著者の姿勢(=モノローグ)も、共にしりぞけるべきものである。通俗性を歴史的・時代的に規定される「大衆」の問題として読みかえ、そこに来るべき民衆(大衆)の姿を想像する三木の姿勢は、私たちが何度でも立ち戻るべきものであるだろう。
2018/01/22(月)(星野太)
ノエル・キャロル、森功次訳『批評について──芸術批評の哲学』
発行所:勁草書房
発行日:2017/12/01
アメリカの分析美学者、ノエル・キャロルによる「批評の哲学」。表題のテーマについて著者がとるスタンスは明快であり、それによれば芸術批評の主たる目的は「理由にもとづいた価値づけ(reasoned evaluation)」にこそあるという。よって、批評が行なうそれ以外の取り組み、すなわち記述、分類、解釈、分析などはあくまでも上記の「価値づけ」を補助するものであり、「作業の階層としては下に位置する」とすら言われる。
全体にわたり理路整然と書かれたその筆致とは裏腹に、これはきわめて挑発的なテーゼであるように思われる。第一に、著者自身も「はじめに」で述べているように、これは明らかに規範的なテーゼであるからだ。規範的、ということを言いかえれば、著者はここで「批評とは理由にもとづいた価値づけであるべきだ」という「強い」主張を行なっているということである。同書は過去の主要な批評理論を紹介したり、「批評とは何か」という問いをめぐる概説的な議論を提供するものではなく、あくまでも著者キャロルが考える前述のテーゼを証明することに捧げられている。
とはいえ、批評が「理由にもとづいた価値づけ」であるという主張そのものは、ともすれば自明の事実であると思われるかもしれない。しかし現実にはそうではないのだ。キャロルも随処で述べているように、現代の(専門的な)批評家たちは、そのような「価値づけ」としての批評をむしろ忌避し、著者が「補助的なもの」とみなす「記述、分類、解釈、分析」こそを、しばしばみずからの批評の主眼とみなしてきたからである。本書のテーゼが挑発的であると思われる第二の、より本質的な理由はまさにこの点にこそ見いだされる(なお、「批評」を「非難」と混同する人々は英語圏にも少なからずいるようで、第1章ではあらかじめそのような混同に注意が促されている)。
私見では、近代以降の日本語における「批評」という言葉/営為には英語の「criticism」には収まらない豊潤な歴史があり、その点で本書の議論が日本語の「批評」にそのまま適用可能であるとは思われない。しかしそうした文化的特殊例の問題を脇に置けば、「批評=理由にもとづいた価値づけ」という本書の証明の手続きはおおむね説得的である。何よりその「強い」主張を通じて、従来の批評のあり方を相対化するその手腕こそが、本書の最大の美点であると言えるだろう。
2018/01/22(月)(星野太)
甲斐義明編訳『写真の理論』
発行所:月曜社
発行日:2017/10/20
この簡潔なタイトルが、本書の内容を何よりも雄弁に物語る。ジョン・シャーカフスキー、アラン・セクーラ、ロザリンド・クラウス、ジェフ・ウォール、ジェフリー・バッチェンの5名による写真論の翻訳(約170頁)と、編訳者による充実した解説・あとがき・ブックガイド(約110頁)からなる本書は、20世紀後半から現在までの「写真の理論」を通覧するうえで今後参照不可欠な、決定版と言ってもよい一冊として出現した。
もう少し限定的に言えば、本書に含まれる5篇の写真論は、これまでの、そしてこれからの「芸術」と「写真」の関係を考えるうえで必読のものばかりである。むろん、クラウスの「写真とシミュラークルをめぐる覚書」(1984)をはじめ、本書に含まれる論文が必ずしも各著者の代表作というわけではないし、この5篇によってここ半世紀の「写真の理論」のすべてが汲み尽くされるわけでもない。それでもなお、本書『写真の理論』がひとつの「決定版」と言える理由は、同書が、従来の日本語による言説の欠落を能うかぎり補うことに捧げられているからだ(先述のクラウス論文の選択にそれは顕著である。詳しくは解説を参照のこと)。シャーカフスキー「『写真家の眼』序論」(1966)から、バッチェン「スナップ写真──美術史と民族誌的転回」(2008)まで、ここに収められた5篇(うち4篇は初訳)が俎上に載せているような問題は、いずれも日本語で十分に紹介されてきたとは言いがたいものばかりだ。本書の解説・あとがき・ブックガイドは、そうした数少ない先行研究の紹介にも十分な紙幅を割きつつ、読者による今後のさらなる探求をあと押ししてくれる。
いわゆる「ヴァナキュラー写真」に対する関心の向上とともに、今日の私たちは「写真のための歴史」(バッチェン)が今後大いに書かれはじめる時代のとば口にいるのだろう。しかしだからといって、写真が芸術との関係において投げかけてきた「表象の政治学」(セクーラ)、「理論的対象としての写真」(クラウス)、「コンセプチュアル・アートとしての写真」(ウォール)といった問題群が、丸ごと忘れ去られてよいわけがない。一つひとつの註にいたるまで細心の注意をもって書かれた本書は、そうした過去の写真論の忘却に抗い、「芸術」と「写真」をめぐる問いの核心へと、私たちを適切に連れ戻してくれるものである。
2018/01/22(月)(星野太)