artscapeレビュー

デザインに関するレビュー/プレビュー

バーン=ジョーンズ展──装飾と象徴

会期:2012/06/23~2012/08/19

三菱一号館美術館[東京都]

エドワード・バーン=ジョーンズ(1833-98)は聖職者を目指してオクスフォード大学に入学したものの、そこでウィリアム・モリス(1834-96)と出会い、芸術家の道を歩むことになった。1861年にはモリスらと共同でモリス・マーシャル・フォークナー商会を発足させ、ステンドグラス、タイル、タペストリーなどの工芸品のデザインを多数手がけている。このような経緯もあり、これまでバーン=ジョーンズの仕事はモリスやラファエロ前派との関わりで紹介されることが多かったが、この展覧会は絵画作品を中心にバーン=ジョーンズの全貌に迫る企画である。
 展示はおもに描かれた主題別に構成されている。バーン=ジョーンズは生涯のうちに同じ主題を幾度も取り上げている。たとえば今回の展示の目玉のひとつである《眠り姫》は、1860年代初めから30年にわたって繰り返し描かれたテーマであった。またひとつの作品を完成させるまでに時間がかかり、古代ローマの花の女神を描いた《フローラ》は着手から完成までに16年もの歳月を要している。そのために、時系列に作品を紹介するよりも、関心の所在に焦点を当てた今回の構成は彼の創作活動の特徴を明らかにしているといえよう。
 表現手法という点では、バーン=ジョーンズの作品は様式的、平面的である点に特徴がある。また主題は静的で、画家の恣意によって四角い画面のなかにきっちりと収められ、カンバスの外側の世界を想像させない。たとえば、《大海蛇を退治するペルセウス》の海蛇の長い身体の扱いにそれを見ることができる。また作品は一枚で完結するのではなく、連作の形で物語を構成している。こうした表現様式は、彼が装飾芸術に深くかかわっていたことからもたらされたといわれる。モリスのもとで手がけたタイルやステンドグラス、タペストリーなどの平面的な装飾作品と、絵画作品とは彼のなかで明確に区別されるものではなかった。そして絵画作品もまた、多くはパトロンの邸宅を飾る室内装飾の一部として描かれたものであった。このような条件が彼の作品をロセッティやミレイとは異なる独特のものにしている。
 バーン=ジョーンズが描いた主題の多くは、中世の騎士物語などの文学作品や古代ギリシャ・ローマの神話から着想を得たものである。過去の世界への傾倒は、都市の貧困や環境の悪化など、ヴィクトリア朝時代の物質的繁栄がもたらした負の側面に対する批判であり、抵抗であり、そこからの逃避であった。画家たちが19世紀の現実に対抗するものとして中世の物語にユートピアを見出す一方で、社会の変化によってもっとも利益を得たであろう商人や実業家たちが画家たちのパトロンになった。「このパトロンたちは、長時間金勘定をしたり、機械の騒音を聞きながら過ごしたあとで、家に帰ると極めて想像力にあふれて色彩に富む絵画に出迎えられ、それによって商業の抑圧から解放されるというわけだった」★1。パトロンたちもまた自分たちがつくりだした現実からの逃避を望んでいたというのはなんとも皮肉なことである。[新川徳彦]

★1──ビル・ウォーターズ、マーティン・ハリスン『バーン=ジョーンズの芸術』(川端康雄訳、晶文社、1997)、136頁。

2012/07/18(水)(SYNK)

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アール・デコ 光のエレガンス

会期:2012/07/07~2012/09/23

汐留ミュージアム[東京都]

19世紀のさまざまな技術革新は同時代の生活に大きな変化をもたらした。鉄道や通信、蒸気船の発達は人や物の移動と、情報交換のスピードを大きく改善した。ガスや電気の普及は都市の風景を変え、人々の生活スタイルを変え、人々が日常生活で必要とするものも変えた。そうした変化も19世紀の終わりにはまだ産業界や特定の階層のものであったが、20世紀に入りより幅広い階層へと拡大してゆく。家庭における室内照明も同様であった。19世紀の終わりに発明された白熱電球は、炭素フィラメントを使用していたために明るさが十分ではなく、またインフラ整備の問題からすぐにロウソク、石油ランプ、ガス白熱灯に取って代わるものではなかった。しかし金属フィラメントによって電球はより明るくなり、新たな照明器具が生まれ、人々の生活を変えはじめた。それが生じたのが両大戦間期、アール・デコの時代だった。
 「アール・デコ 光のエレガンス」展は、このような技術や社会生活の変化が新たなモノの誕生やデザインの様式の変化に与えた影響を考察する展覧会である。ヴォルフガング・シヴェルブシュは「アール・インディレクト」という言葉でこの時代に現われた間接照明と建築や装飾との関係に焦点を当てているが★1、石油ランプやガス灯とは異なり、直視することが困難なほど明るい人工的な光をいかにして生活のなかに取り入れていくかは、同時代の工芸家やデザイナーたちに共通する課題であった。展覧会第1章ではパート・ド・ヴェール技法による色彩豊かなガラスのランプが紹介される。第2章はサロンを飾った作品。磨りガラスや磁器製の照明器具[図1]は電球の強い光を和らげるために生まれてきたことや、明るい照明が室内の装飾品に与えた影響が示される。ローゼンタールやドームの照明器具、装飾品で構成された再現コーナーは、汐留ミュージアムおなじみの企画である。第3章では都市エリートに好まれたモノトーンの食卓がルネ・ラリックのガラス製品を中心に再現されている。貴金属ではなく工業的に生産されるガラスを素材とし、色彩ではなくカッティングや型を用いたラリックの食器や装飾品が、新しい光の使用を前提としていたことがとてもよくわかる[図2]。アール・デコの幾何学的な様式が工業的生産と調和的であったことはよく指摘されるが、この展覧会で特筆すべきは、技術の普及が人々の生活スタイルを変化させ、その変化が新しい装飾様式を求めたことを指摘している点にある。[新川徳彦]

★1──ヴォルフガング・シヴェルブシュ『光と影のドラマトゥルギー──20世紀における電気照明の登場』(小川さくえ訳、法政大学出版局、1997)。



1──国立セーヴル製陶所(デザイン:ジャン=バティスト・ゴーヴネ)《鉢型照明器具「ゴーヴネNo. 14A」》1937年、東京都庭園美術館
2──ルネ・ラリック《常夜灯「インコ」》、1920年、北澤美術館

2012/07/12(木)(SYNK)

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SSD 2012年度春学期 Interactiveレクチャー「境界線上のインテリアデザイン」♯3│SSDハウスレクチャー「最近のインテリアデザインについて」浅子佳英

会期:2012/07/11

阿部仁史アトリエ[宮城県]

今期、せんだいスクール・オブ・デザインのインタラクティブ・レクチャーの枠は、インテリアデザインをテーマに掲げ、その締めくくりとして浅子佳英を迎えた。コムデギャルソンによる店舗デザインの議論は、アーキテクチャ派というべき、いかにもゼロ年代らしい論客の分析装置を使いながら、むしろ突出した「天才」を語るのが興味深い。

2012/07/11(水)(五十嵐太郎)

KATAGAMI Style

会期:2012/07/07~2012/08/19

京都国立近代美術館[京都府]

会期:2012/07/07~2012/08/19
会場:京都国立近代美術館
地域:京都府
サイト:http://katagami.exhn.jp/
「KATAGAMI=型紙」とは、小紋や型友禅などの型染めに用いる、模様を切り抜いた紙のことである。古くから使われていたが、とくに型染めが盛んだった江戸時代に優れた技術とデザインが生み出された。こうした型紙は高いデザイン性を誇りながらも、単なる道具、つまり消耗品として認識されてきたため、収集・保存されることはなかった。そして染色業者が廃業する折に、まとめて海外に売られるなどして流出したという。流出時期はおもにデザインの改革期であった19世紀半ばで、当時、新たな造形表現を求めていた、欧米のデザイナーや芸術家に大きな影響を与えた。本展は、この型紙がデザイン改革運動期の欧米で、つまりアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォー運動などにおいてどのような役割をはたし、それがいかに現代に受け継がれているかに焦点を当てている。出品作が充実しているうえ、「型紙(日本・歴史)」「アーツ・アンド・クラフツ(英米・英語圏)」「アール・ヌーヴォー(仏語圏)」「ユーゲント・シュティール(独語圏)」「現代」の五つのセクションに構成されており、親切でわかりやすい展示となっている。従来のジャポニスムに関わる展覧会が地域や作家、デザイン運動そのものに限定されたものが多かったのに比べ、本展は型紙というテーマを掲げ、より総合的なアプローチを試みている。三重県立美術館(2012年8月28日~10月14日)に巡回。[金相美]

2012/07/10(火)(SYNK)

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コドモノクニ展

会期:2012/06/30~2012/09/02

多摩美術大学美術館[東京都]

『コドモノクニ』は1922(大正11)年1月に創刊し、1944(昭和19)年3月の終刊までの23年間に287冊を刊行した月刊の絵雑誌である。同時代の子ども向け絵雑誌としては『子供の友』(1913年創刊)『キンダーブック』(1927年創刊)があるが、それらの中でも、『コドモノクニ』は、大判厚手紙、オフセット5色刷、オールカラーという、他の絵雑誌とは一線を画する体裁であった。『コドモノクニ』を舞台に活躍した童画家たちには、岡本帰一、武井武雄、本田庄太郎、初山滋、村山知義、東山新吉(魁夷)らがいる。これまでにこうした画家やその作品を取り上げた展覧会は幾度も開催されているが、今回の展覧会は主に『コドモノクニ』の編集者・鷹見久太郎(1875-1945)の仕事に焦点を当てる。
 鷹見久太郎は国木田独歩が創設した独歩社を引き継ぎ、1907(明治40)年に東京社を創業する。東京社では、独歩社から引き継いだ『婦人画報』とともに『少女画報』『皇族画報』などの出版を手掛けた。その鷹見の編集方針は極めて理想主義的なものであったようである。「氏は曰う……編輯の理想と販賣の現実とは曾て握手をしたことがない。理想を没した多賣主義の編集方針なら販賣に好都合だらうが、天下の婦人はそれがために堕落し、好奇と挑發にのみ打興するであらう、さらば操觚者の無責任を如何にすると」★1。「販売の現実」という点でいうと、残念ながら鷹見にはその才能はなかったようだ。1924(大正13)年にマネジメントを仕切っていた島田義三が没した後、東京社は経営難に陥り、1931(昭和6)年に事業を武侠社の柳沼沢介に譲渡する。東京社を離れた鷹見は1933(昭和8)年に子供之天地社を設立し、絵雑誌『コドモノテンチ』を創刊したが長くは続かず、1934年には休刊している。鷹見が離れたあとも『コドモノクニ』は同様の体裁で刊行を継続できたことを見れば、彼の思想が受け入れられなかった訳ではなく、鷹見を支える優れたマネージャーがいれば、彼の仕事もさらに広がりを見せたであろうと残念に思う。
 しかし、鷹見が播いた種は確実に育った。工業デザイナー秋岡芳夫(1920-1997)は、小学校を卒業したあとまでも『コドモノクニ』を愛読していたという。「とくに、初山滋はぼくの人生を左右した。後にぼくは、初山滋のような人間になりたくて、その門をたたき、三十代から四十代の半ばまでは、童画や子どもの本の挿絵を描くことになった」★2。エディトリアル・デザイナー堀内誠一(1932-1987)もまた、幼年時代に『コドモノクニ』に親しんだと述べている★3。彼らが直接的に影響を受けたのは作家や童画家の作品からである。しかしそれらの作品が成立した背景には、フルカラーの絵雑誌という媒体を用意し、画家たちに自由な表現の場を与え、他誌と比べて破格の稿料を支払った編集者・鷹見久太郎の仕事があってこそのものであったということは覚えておかなければならないだろう。[新川徳彦]

★1──『読売新聞』1926(大正15)年6月10日。
★2──秋岡芳夫(工業デザイナー)「思い出の一冊」(『朝日新聞』1989年6月28日)。
★3──堀内誠一『父の時代・私の時代──わがエディトリアルデザイン史』(マガジンハウス、2007)、20頁。

2012/07/09(月)(SYNK)

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