artscapeレビュー
デザインに関するレビュー/プレビュー
せんだいスクール・オブ・デザイン 2012年度春学期成果発表会
会期:2012/08/12
せんだいスクールオブデザインの学外発表会にて、五十嵐スタジオの制作物『S-meme』の4号のお披露目を行なう。今回の特集は「現代美術と地域」を考えるというもの。あいちトリエンナーレ2013のチームを招き、小崎哲哉の「越境するパフォーミングアーツ」論、キュレータの飯田志保子のアジアパフィシックトリエンナーレ論を掲載したほか、村上タカシのレクチャー、街なかに点在するパブリックアートやグラフィティのフィールドワーク、仙台美術の状況と歴史などを収録した。またせんだいメディアテークで開催された「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町」展のメイキングに関わる原稿は大いにもめたが、地方でアートと商業に関わる展覧会の難しさを再認識することになった。
2012/08/12(日)(五十嵐太郎)
山中俊治『カーボン・アスリート──美しい義足に描く夢』
本書はプロダクト・デザイナーで慶應義塾大学教授の山中俊治氏が、競技用義足のデザイン開発プロジェクトに臨んだ3年間の記録である。ロンドン・オリンピックでの活躍で話題を呼んだオスカー・ピストリウスの義足のように、カーボンファイバーの板バネを使用したスポーツ用義足は機能的にすでに高い水準が達成されている。日本でも同様の義足を使用するアスリートたちがいる。しかし、それらの義足の多くはデザインが不在であったと山中氏はいう。では、そこにデザインを持ち込むことの意義はなんだろうか。なぜ一般用の義足ではなく、スポーツ用義足なのだろうか。
戦争、事故、病気、先天性……なんらかの理由で身体の一部が失われてしまった人々を補助する道具のひとつとして、義手や義足には欠損した部位がはたしていた機能の代替が求められると同時に、動きや見た目などの外観的な要素を補うことも求められる。なかでも見かけの再現を主眼にした義手・義足を装飾用(コスメチック)義肢と呼ぶという。残念なことに現在の技術では使用者が求める機能と外観とは十分に両立できない。機能に不自由があったとしても「健常者」のような見た目を求めるか、それとも見た目に「違和感」があったとしてもより機能的な補助具を求めるかという選択が必要になる。その点、スポーツ用義足に第一に求められるのは、速く走るための機能である。カーボンファイバーでつくられた義足の形状は人の足とはまったく異なる。使用者もそれを当然のこととして受けとめている。それゆえデザインに求められる課題は装飾用義肢とは異なる。「すぐれたデザインは、どんな場面でも、人の気持ちを少し明るくするものだ」と山中氏はデザインの意義を述べる。「素敵なデザインの義足は、きっと切断者たちを少し前向きにすることができる」(45頁)。
デザインすることの意義はそればかりではない。アスリートたちの多くが日常用の義足とスポーツ用義足を履き分けているが、義足アスリートたちは日常的にも義足であることを隠さなくなる傾向にあるという(34頁)。機能的にも視覚的にも優れたデザインの義足を身につけたアスリートたちが、その実績によって自信を持ち、人々の好奇の目を気にしないで生活できるようになれば、義足であることを隠さずに済むばかりか、履き分ける必要がなくなるかもしれない。そのことは使用者の精神的ストレスや、もうひとつの義足を持つための費用負担をも軽減する可能性がある。さらに、アスリートたちの活躍がテレビや新聞でニュースが取り上げられることは製品にとっても、その使用者にとっても計り知れない効果を持つ。スポーツ用品メーカーがこぞって第一級の選手たちのためにコストを度外視し、逆にスポンサー料を払ってでも製品を開発するのは、莫大な宣伝効果が期待できるからである。一流選手が手にすることで、そのスポーツと関わりのない者までもが、必要もないのにバスケットシューズやランニングシューズを履くことになる。同様に、優れたデザインの義足を履いたアスリートたちが話題になり、その姿を目にする機会が増えれば、障碍やその補助具に対する人々の意識が変わる可能性がある。そしてその効果は選手にとどまらない。これこそが、なぜスポーツ用義足のデザインなのか、という疑問に対する答えであろう。このプロジェクトの最初の段階で、山中氏はすでにこのような価値観の変化の可能性と新しいノーマライゼーションの萌芽について記している(104頁)。山中氏が基本デザインを手がけたICカード改札機は、それまではなじみの薄かった非接触型ICカードという技術を人々の生活にとってあたりまえの存在に変えた。スポーツ用義足のデザインもきっと次の「あたりまえ」を生み出すに違いない。
これから始まるパラリンピックとともに、本書はさらに話題となるだろう。しかし本書の主題は障碍とスポーツとデザインとの関わりににとどまらない。3年間余という長期にわたって技術者と使用者とデザイナーの協業によって展開され、いまだ発展の途上にあるプロジェクトを記録しているという点で本書は類を見ない。さらに本書はデザインの新たなフィールドが生まれる瞬間を目撃するドキュメンタリーであり、学生がデザインを学び巣立つまでの物語であり、ひとりの優れたデザイナーが優れた指導者になるまでを描いた自伝でもあるのだ。[新川徳彦]
2012/08/10(金)(SYNK)
Skyscraper: Art and Architecture Against Gravity
会期:2012/06/30~2012/09/23
シカゴ現代美術館[シカゴ]
シカゴは摩天楼の発祥地として有名だが、本展は超高層ビルや現代建築を題材にした、現代作家の作品を紹介するもの。摩天楼そのものをフレームにおさめた写真や模型があると思えば、9.11テロが発生したとき、その参事を扱った世界各国の新聞が部屋いっぱい展示されていたり、詩や歌(映像)があったり、まるで檻のようにみえる高層ビルに住む人たちを写した写真があったりする。人間が高い建築物を求めるのは経済的問題やテクノロジーのためだけではない。それは芸術家にとって、そして私たちにとって、メッセージやイメージであり、神話であると訴えているように思えた。[金相美]
2012/08/05(日)(SYNK)
パール──海の宝石
会期:2012/07/28~2012/10/14
兵庫県立美術館[兵庫県]
真珠のジュエリーは、ヨーロッパの美術館では頻繁に展示されるアイテムだが、日本の美術館・博物館で目にする機会はあまりない。それゆえ、西洋の宝飾工芸の愛好者としては、カタール美術館庁が所蔵する真珠のジュエリーを中心に展示する本展に格別の期待があったのだが、充実した内容は期待以上であった。
展示品も素晴らしいが、ディスプレイ・デザインがじつによく工夫されている。コンクリートとガラスでできた美術館の長い廊下を延々と歩き、展示会場に着くと、突然、サロンのような空間に出迎えられる。赤とグレーを基調とした部屋は照度が落とされ、そこかしこにあるヴィクトリア様式風のキャビネットの内部では真珠のジュエリーが瞬くように煌めく。これらのキャビネットは、アンティーク家具をディスプレイケース用に改造したものだそうだ。さらに、スタイリッシュなソファが置かれており、観客はそこにしばし座って洗練されたラウンジのような空間に浸りたいという気分に駆られる。
つまりここでは、通常の展覧会のように、ニュートラルな展示ケースに順番に並べられた展示品を見て回ることを強要されないのだ。観客は、展示されているジュエリーに似つかわしい空間の仮初めの住人となり、その空間が呈する文化のひとつとしてジュエリーを享受する。王侯貴族やマリリン・モンロー、エリザベス・テイラーなどが身に付けたジュエリーの豪奢さは、まさにそのような状況で目にすることで初めて伝わるだろう。
6章にわたって真珠の歴史を概観する本展は、教育的な側面も有する。だが、種々の解説はけっして押しつけがましくなく、その提示方法はむしろ芸術的ですらある。壁面モニターが映し出す解説動画や幻想的な真珠貝のモノクロ写真は、まるで邸宅の壁に架かったモダンなアート作品のよう。圧巻は、きらきらとした養殖真珠で一杯となったバケツが多数並ぶインスタレーション・アートのような解説コーナーだ。
日本とカタールの国交樹立40周年を記念して開催された本展では、セレブが愛用したジュエリーはもとより、天然真珠の産出国であったカタールならではの稀有な天然真珠も見られる。ジュエリー愛好者でなくとも多くの刺激が得られる展覧会だ。[橋本啓子]
2012/08/04(土)(SYNK)
西江雅之『異郷──西江雅之の世界』
「顔を洗わず、歯を磨かず、ふろは年に数回しか入らない……汗をかかない、清潔な特異体質」(『朝日新聞』1984年11月3日、朝刊)、「布団を使わず床に寝る」(同2008年10月2日、夕刊)、「エアコンも炊飯器もない」(『読売新聞』2010年9月6日、朝刊)、「毒がなければなんでも食べられる」(同)、「まるで忍者みたいに速く歩く」(『朝日新聞』2008年10月2日、夕刊)、「クリームあんみつ好き」(『読売新聞』2010年9月6日、朝刊)、「『五十カ国語の読み書きができる』『百二十四カ国語が話せる』」(『アエラ』1998年9月28日)……。数々の伝説とともに語られる異色の文化人類学者・西江雅之(1937-)。『異郷──西江雅之の世界』は、20代のはじめにアフリカを縦断して以来半世紀にわたって世界中を旅してきた西江が撮りためた数万点の写真のなかから100余点の写真と、これまでに書かれてきたいくつかのエッセイとを収録した写真集である。本書の刊行と合わせて、5月には写真展も開催された
被写体となっているのは、西江が旅したアフリカ、アラビア、インド洋海域、カリブ海域、パプアニューギニアなどの人々である。展覧会そして写真集に収録された作品を見て少し不思議に感じたのは、カメラと被写体とのあいだの距離感である。作品を見るまでは、もっともっと被写体に近いところにいるのではないかと思い込んでいた。たとえば西江の友人でもあった作家の阿刀田高は「西江はカメレオンのように置かれた環境に染まる。ふつうの物差しで測れない個性で、帰った時にアフリカ人になったように顔つきまでも変わっていて、しばらくしたらまた日本人の顔に戻りました」と語っている 。そうした言葉から受ける印象と西江の写真とははずいぶんと異なる。なぜなのか。西江は自身の写真を少年時代に熱中した昆虫採集の方法になぞらえ、影を掬い取るものと記している。「わたしは路上に立ち、求める対象が気に入った場面の中に姿を現すと、シャッターを切る」。「この本に残されている写真は、ある時、ある場所で、わたしの眼前に現れた事物から掬い採った影なのである」 。こちらから採りに行くのではない。視界に現われるのを待つ。手の届く距離というよりも、採取用の網の届く距離なのだ。旅人でありつつも冷静な観察者であるという複雑な視線と距離感が、その写真のなかに刻まれている。それは旅行者によるスナップでもなく、写真家の作品でもなく、かといって研究者による記録写真ともまた違う独特の表現を生み出している。
本書にはさまざまな地域、さまざまな時代の人々の写真が入り交じって掲載されている。そして写真にキャプションはない。これも不思議に感じた点である。その理由について西江は、程度の差はあれども世界のどの地域においても同様に人々の生活は急速に変化し、写真に残された世界の大部分はすでに失われてしまっているという点で共通しているからであるという。興味深いのは、西江はこの失われた世界を感傷的に惜しんでいるわけではないという点である。人々の生活が変化するのは当然のことである。「消え去らないでほしいなどとは、わたしは考えない。しかし、永遠に消え去ってしまう前にもう一度、この目にその姿を映してみたい」 。写された人々の姿は、失われた世界の記録であるとともに、世界を旅し続ける西江雅之の記憶なのである。[新川徳彦]
2012/07/28(土)(SYNK)