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デザインに関するレビュー/プレビュー

原弘と東京国立近代美術館──デザインワークを通して見えてくるもの

会期:2012/02/03~2012/05/06

東京国立近代美術館[東京都]

東京国立近代美術館開館60周年記念企画のひとつ。国立近代美術館の発足の前年1951年にはレイモンド・ローウィが専売公社の煙草「ピース」のデザインを手掛け、翌年にはアサヒビール「ゴールド」のラベルに着手するなど、戦後の日本においてデザインの力が認識されはじめ、またアメリカ的な広告手法が取り入れられはじめた。美術館の草創期に次長を務めていた今泉篤男は、グラフィック・デザイナー原弘(はらひろむ、1903-1986)に協力を求め、原はアートディレクターともいえる立場で国立近代美術館の仕事に参加。開館の1952年から1975年まで、23年間に約200点の美術展ポスターを手掛けている。
 展覧会第1部は戦前期。東京府立工芸学校の教員時代に原が制作した図案集や、グラフ誌『FRONT』、パリ万国博で展示された写真壁画など。第2部は東京国立近代美術館の仕事。そして第3部では戦後のブックデザインや国際的なイベントのためのデザインワークが紹介されている。
 展覧会の見所はもちろん第2部である。原の手掛けたポスターとしては、第3部に出品されている《日本タイポグラフィー展》(1959)や《日本歌舞伎舞踊》(1958)などが良く知られているが、特定の施設のための、23年もの長期にわたる仕事を一堂に集めて見ることには大きな意義がある。図版、限定的な色彩、秀逸なタイポグラフィの組み合わせは背後にフォーマットの存在を感じさせる一方で、ときに用いられた強い色彩や大胆なレタリング、稀な例であはるがフルカラーのグラビア印刷のポスターは当時の美術愛好家たちに強いインパクトを与えたに違いない。原弘は「自分のポスターを作るのではなく、国立近代美術館のポスターを作るのだ」と述べていたというが、まさしくそのとおりである。ポスター以外にも原が手掛けた招待状、展覧会カタログ、機関誌など、仕事の全貌を見渡すと、デザイン手法、用いられた印刷手法の抑揚も含めて、これらのポスターが国立近代美術館のアイデンティティを形成していったプロセスをみることができよう(この点については、木田拓也「原弘と東京国立近代美術館」[本展図録、8~14頁]に詳しい)。第2部のもうひとつの見所は、展覧会のための調査によって発見されたポスターの版下、印刷指示書、カンプ(と思われるもの)などである。ニューズレター『現代の眼』(592号)には、当時のアシスタントや関係者へのインタビューも掲載されており、あわせて原の仕事の進めかたを知る手掛かりとなろう。
 本展図録には原弘が開発に関わった数種類の印刷用紙が用いられている。また、関連企画として、見本帖本店では「紙とパイオニア──原弘と開発したファインペーパー」展(2012年2月22日~2012年3月21日)が開催されている。[新川徳彦]

原弘《ソ連絵画50年展》(1967)
原弘《ピカソ展──その芸術の70年》(1964)

2012/02/19(日)(SYNK)

原研哉『日本のデザイン──美意識がつくる未来』

著者:原研哉
発行日:2011年11月
発行所:岩波書店
定価:840円(税込)
サイズ:新書、256頁

とにかく読んでいて「はっ」とさせられることの多い本である。デザイナーとして活躍し、近年とりわけ、海外で日本のデザインを紹介する展覧会の仕事を手掛ける著者が、日本のデザインの原点と未来とを照射する。外から見た日本のデザインのありようを示したうえで、日本固有の美意識・価値観を明らかにし、これからの日本のものづくりにそれらがどう生かされるべきかについて問題提起する。グローバル化する社会、また活性化するアジア全体のなかで、日本──低成長時代と東日本大震災を経験し、社会の大きな転換期を迎えつつある──のデザインには、どのような可能性があるのか。その問いに応えるべく、六つの章が用意される。1)移動:デザインのプラットフォーム、2)シンプルとエンプティ:美意識の系譜、3)家:住の洗練、4)観光:文化の遺伝子、5)未来素材:「こと」のデザインとして、6)成長点:未来社会のデザイン。本書は、我が国がデザイン立国としてしなやかに生きるすべを提示するだけでなく、「デザイン」が本質的に未来を志向するものだということを教えてくれる。[竹内有子]

2012/02/19(日)(SYNK)

京都工芸繊維大学工芸科学部 造形工学課程 卒業制作展 ゲストによる学生作品講評・ゲストトーク

会期:2012/02/18

京都府京都文化博物館[京都府]

中村竜治らと、京都工芸繊維大学の卒計展の講評とレクチャーを行なった。建築の卒業設計のほかに、卒論やプロダクト・デザイン系なども混ざっているのが、興味深い。そうなると、見慣れた建築よりも、もの珍しさも手伝い、実物が展示できるプロダクト系にどうしても目が向く。講評では、3点選ぶということで、卒計、卒論、デザインからひとつずつ選ぶ。震災絡みの提案はひとつもなく、被災地との距離も改めて感じさせられた。

2012/02/18(土)(五十嵐太郎)

ペイズリー文様──発生と展開

会期:2012/01/27~2012/03/14

文化学園服飾博物館[東京都]

ネクタイ、スカーフ、バンダナ、シーツ。自分の身の回りを見ただけでも、さまざまなテキスタイル製品にペイズリー柄を見ることができる。ペイズリー文様とはいったいなにか。辞書には植物文様とあるが、なにをどうしたらあのような勾玉型の、複雑な文様になるのだろうか。この展覧会で私が長年抱いていた疑問が解けた。
 展示解説によれば、ペイズリー文様の起源は、17世紀初めにインド北部カシミール地方の織物に現われた花模様である。当時のカシミール地方はイスラム支配下にあり、イスラム文様の影響のもとにこのような文様が現われたと考えられる。時代を下るにつれて、個別に描かれていた花模様はいくつかの葉をともなって樹になり、18世紀には花束へと変容する。19世紀初めには、さらに花と花とのあいだに別の花や小さな花束が加えられ、現在見られるペイズリー文様の原型が現われる。
 同じ頃、このカシミール製のショールはヨーロッパに輸入され、大流行を見る。しかしながら、輸入品は非常に高価であったため、ヨーロッパで模倣品の生産が始まった。そしてヨーロッパにおけるショールの一大産地がスコットランドの都市ペイズリー(Paisley)であったために、この文様はペイズリーと呼ばれるようになったのである。生産ばかりではなくデザインもヨーロッパで独自に行なわれるようになったことにより、文様は新たな展開を見た。興味深いのは、ヨーロッパ人がこの文様をなにに由来したものと認識していたかである。ペイズリー文様は、フランスでは椰子やオタマジャクシ、イギリスでは松かさと呼ばれていた。花束が文様の起源であるという認識が希薄であったために、ヨーロッパでさらに独創的な形へと変容していったと考えられるのである。これは中国磁器のザクロ文がタマネギと間違えられ、マイセンでブルーオニオンと呼ばれる独自の文様を生み出したことにも似ている。ヨーロッパで展開した安価なペイズリー文様の製品は世界各地へと輸出され、今度はインドや他の地域で生産されるテキスタイルの文様にも影響を与えてゆく。今日でも日々新しいペイズリー文様がデザインされており、展覧会にはリバティ社(イギリス)がハローキティをモチーフにデザインしたペイズリー文様の生地も出品されている。ペイズリー文様は、商業と工業の発達が東西のデザインに交流をもたらし、その姿を変容・発展させていった好例のひとつなのである。[新川徳彦]

2012/02/18(土)(SYNK)

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フェアリー・テイル──妖精たちの物語

会期:2012/01/07~2012/02/19

三鷹市美術ギャラリー[東京都]

日本における「妖精学」の第一人者、井村君恵氏の蒐集品で、現在はうつのみや妖精ミュージアム(栃木県)と妖精美術館(福島県)に所蔵されている作品から、おもに19世紀イギリス・ヴィクトリア朝時代の妖精画を紹介する展覧会。
 妖精の存在は古くから文学などのなかで語られているが、その扱いは時代によって変化してきた。井村氏によれば、17世紀の清教徒の時代には悪魔と同列として退けられ、また18世紀には合理的精神によって存在が否定されていたという。それがヴィクトリア朝時代になるとふたたび文学や絵画、音楽や舞台に現われ、妖精が描かれた本も多数生まれる。妖精の「復活」は、否応なく工業化する社会に対して、自然や田園、あるいは中世的な生産方法への回帰を志向した時代の空気を反映したものといえよう。花が咲き乱れる野のなかに投げ捨てられたガラス瓶をにらみつける妖精を描いたシシリー・ブリジット・マーチンの作品《野の中の妖精》(1909)は、訪れつつある大量消費社会への直接的な批判である。
 展覧会では絵画や挿画のほかに、ウェッジウッド社のフェアリーランド・ラスターと呼ばれる装飾陶器20余点を見ることができたのは嬉しい。フェアリーランド・ラスター(fairyland luster)とは、ウェッジウッド社のデザイナーであるデイジー・マーケイ=ジョーンズ(Daisy Makeig-Jones, 1881-1945)が手掛け、1915年から1931年★1まで生産された装飾陶器である。色鮮やかなラスター彩で描かれた妖精たちの世界は人気を博したが、1929年以降その人気は衰えたという。大恐慌を経験し、人々は幻想の世界からふたたび現実へと引き戻されてしまったのであろうか。[新川徳彦]
★1──出品リストには1941年までとあったが、ウェッジウッド製品に関する辞典『Wedgwood: New Illustrated Dictionary』(1995)には1931年までと書かれている。なお、マーケイ=ジョーンズは1931年にウェッジウッド社を退社している。

2012/02/18(土)(SYNK)

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