artscapeレビュー
デザインに関するレビュー/プレビュー
すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙
会期:2012/04/07~2012/05/13
京都国立近代美術館[京都府]
ベルリン留学時にダダや構成主義などの新興芸術に強い影響を受け、1923年の帰国後に爆発的な勢いで、絵画、コラージュ、トランスジェンダーなダンスパフォーマンス、建築、デザイン、舞台美術、前衛芸術集団「マヴォ」結成などの活動を展開した村山知義。その圧倒的なエネルギーとインパクトを、初めて本格的に紹介するのが本展だ。1988年に開催された「1920年代日本展」で彼の存在を知ってから20年余、遂にこの機会が訪れたことに感慨を禁じえない。現存作品が少ないため、写真資料が多いなど難点もあるが、展覧会が行われたこと自体に意味があるのだ。本展を機に今後一層研究が進み、彼の真価が鮮明になることを期待する。
2012/04/06(金)(小吹隆文)
What's 電子書籍?──新しい読書の時間がやってきた
会期:2012/03/31~2012/05/27
印刷博物館P&Pギャラリー[東京都]
米国ではアマゾンがKindleを発売して可能性が拡がり、アップルのiPadによりその利用が一気に拡大した電子書籍であるが、日本ではようやく既存の出版社が重い腰を上げようとしている。事態がなかなか進展しない背景には著作権保護や流通形態の変革を巡る議論があるが、印刷会社にとっても大きな問題であろう。この展覧会は、読むという行為に焦点を当ててて、印刷媒体と電子書籍のそれぞれの特性と相異を来場者に体験してもらおうという試みである。
展示は、電子書籍の過去、現在、未来に分かれている。電子書籍はけっして新しい存在ではなく、PCの普及とともに、モニタ上でテキストを読むという行為は一般化してゆく。「過去」のコーナーには、Macintosh Plusや、PC上でテキストを読むためのソフトウェア「T-Time」、各社の電子手帳、携帯電話、草創期の電子ブックなどが展示され、機器の小型化、軽量化の歴史を追う。「現在」のコーナーでは、書籍、新聞、雑誌、写真集、辞書、図鑑、コミック等々について、印刷媒体と電子媒体で同じコンテンツが並べられており、実際にタブレットやスマートフォンを操作して、現時点での両者の違いを徹底的に比較できる。そして「未来」では、電子ペーパーなどの新しい技術や、読書体験の共有などのコミュニケーションにおける革新の可能性が示唆される。
印刷媒体と電子書籍の比較という視点は、凸版印刷が運営する印刷博物館P&Pギャラリーの企画ならではのものであると思う。展示を見て改めて印象に残ったのは、小説や辞書、写真集、雑誌など、コンテンツの性格により、同じ印刷媒体といえども構造が異なり、電子媒体との親和性も異なっているという点である。私見では、もっとも早く電子化が進んだコンテンツは辞書。専用端末が先行し、オンライン版がそれに続いているので昨今の電子書籍の展開とはやや文脈が異なるが、検索性という点で電子媒体との親和性が高い。また今回の展示にはなかったが、検索の利便性もあって電子化が進んでいるもうひとつの分野は、マニュアルである。分厚い紙のマニュアルがなくなり、ソフトウエアのパッケージは劇的にコンパクトになった。逆に、電子書籍への移行がよく見えないのがファッション誌などの雑誌である。展示されていたコンテンツはいずれも誌面をそのまま変換したもので、タブレットでは読めるが、スマートフォンの小さな画面で見ることは困難である(そもそも対応していないものもある)。情報伝達という側面では、今後ウェブ記事のようなスタイルに変わるのかもしれないが、そうなると写真やイラスト、縦組み・横組みのテキストを自在に駆使した神業のようなレイアウトは、失われていくことになろう。
すでに辞書の世界ではブリタニカ百科事典が書籍版の廃止を表明している。経済的には、印刷媒体と電子書籍を両立させていくことは困難なのだ。紙の書籍がすべて消えてしまうことはないと思うが、木版、活版同様、私たちは印刷そのものが「伝統工芸化」する様を目撃しているのかもしれない。[新川徳彦]
2012/04/04(水)(SYNK)
村山知義の宇宙 すべての僕が沸騰する
会期:2012/02/11~2012/03/25
神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]
なにもないからこそ、なんでもやる。関東大震災にせよ、東京大空襲にせよ、広島・長崎への原爆投下にせよ、私たちの先達たちは焦土と化した焼け野原からいくども立ち上がり、その都度いくつもの文化や芸術を生み出してきた。村山知義の回顧展をつぶさに見て思いを新たにしたのは、豊かな芸術は貧しさのなかから生まれるという厳然たる事実。演劇から美術、写真、書籍、看板、はては建築にいたるまで、村山が手がけた創作物はじつに広範なジャンルに及んでいる。大量に集められた展示物の物量が、村山自身の貪欲な創作意欲を物語っているようで、まさしく沸騰する村山の迫力に圧倒されてやまない。それらのいずれもが貧しい時代の只中でなんとかやってきた格闘の痕跡と言えるが、村山が苛まれていた貧しさとはまた別の貧しさが世界を覆いつつある現在、はたして野性的で生命力にあふれた、新しい芸術は生まれるのだろうか。
2012/03/21(水)(福住廉)
高橋涼子個展──MIND CONTROL
会期:2012/03/17~2012/04/28
studio J[大阪府]
高橋涼子は8年前から人毛を素材とした作品をつくり続けている。今回の個展も、人毛で覆われた球体をモティーフとしたロングネックレスやモビール、人毛でつくった筆で描かれたドローイングなどが並んだ。黒い髪もあれば、金髪やシャーベット色の髪もある[図1]。
素材が人毛であると知って抵抗感を示す人もいるというが、高橋にとって人毛は「この世で一番美しいもの」だという。このように言うとき、彼女は人毛をあくまでコンテクストを排除した「素材」としてみなしているのだろうか。そういう目でみると、高橋の作品において人毛は、その独特の光沢や質感を作品に付与するための単なる素材であると解釈できなくもない。ネックレスをつくる球体は、人毛だけでできているような外見とは裏腹に、発泡スチロールの球状の芯に毛髪を巻いたものである[図2]。すなわち、球状の芯に金メッキを施すかわりに、毛髪が放つ輝きを求めて人毛による「メッキ」を施しているといえなくもない。
考えてみれば、われわれが日常着るウールやシルクの服も生ける物の毛や包皮であるはずなのに、人間の髪となると人は鬘以外の用途にそれが使われることに抵抗を感じる。これは多分に、人間にとって人毛とは、それが自らの一部であった記憶を持つものだからだろう。人の毛髪を用いる作家はこれまでにも存在したが、彼ら彼女らの作品ではたいてい「記憶」のような人間の髪のシニフィエが作品を形作るがゆえに、抵抗なく受け入れられてきた。
実のところ、高橋のモビールの毛髪の球体が生じさせる後れ毛も、それがかつて女性の一部であったことを想起させる。つまり、彼女の作品の人毛は作品制作の材料としての「素材」であるとみなされうる一方で、その次元に完全に還元されることを望むものではない。ネックレスを黒く美しく輝かせる素材としての人毛、そして、身体の一部であった記憶を残すかのような表現……タイトルの「MIND CONTROL」が示唆するように、ふたつの想反する極の狭間に危うく立とうとする繊細な感性の存在がここに感じられる。4月28日まで開催。[橋本啓子]
2012/03/21(水)(SYNK)
『ヒューゴの不思議な発明』
会期:2012/03/01
TOHOシネマ梅田ほか[大阪府]
1888年に世界最初の映画カメラ「キネトグラフ」がトマス・エジソンによって開発されているが、リュミエール兄弟が「シネマトグラフ」をつくり、1895年12日28日に観客の前で動く映像を映したことを基準にするなら、映画はその誕生からわずか110年あまりの、(エジソンにしろ、リュミエール兄弟にしろ)新しい芸術ジャンルである。しかし、その変貌は他の芸術ジャンルに比べ、より激しく、独自性を保証する基盤はときに脆い。脆いとは、他の芸術ジャンル、例えば、文学、美術、音楽、メディアアートとの関係において影響されやすく、その土台が揺らぎやすいという意味だ。それはともかく、この頃、映画へのノスタルジーを感じさせる映画が目につく。本年度アカデミー賞の作品賞を受賞した『アーティスト』や(まだ観ていないが)、今回紹介する『ヒューゴの不思議な発明』がそうだ。本作で巨匠マーティン・スコセッシ監督は思いっきり初期映画への、そしてジョルジュ・メリエスへのオマージュを送っている。無声からトーキーへ、2Dから3Dへと、変貌の激しさと土台の脆さを克服するために、スコセッシ監督は映画の本質を、その楽しさを再考したかったのかもしれない。メリエスが舞台に立ち、彼の映画が映し出される場面では、正直、胸がじんとした。ただ、スペクタクルを望むなら、あるいは物語の面白さを期待するなら、他の映画をオススメしたい。[金相美]
2012/03/14(水)(SYNK)