artscapeレビュー
中村佑子『サスペンデッド』
2021年03月01日号
会期:2021/02/11~2021/02/28
ゲーテ・インスティトゥート東京ドイツ文化センター[東京都]
『サスペンデッド』はシアターコモンズ'21の一環として発表された中村佑子によるAR映画。中村のシアターコモンズへの参加は2019年のリーディング・パフォーマンス『アリス・イン・ベッド』(作:スーザン・ソンタグ)の演出を担当して以来二度目となる。
会場はゲーテ・インスティトゥート東京ドイツ文化センターにある、おそらくはゲストの滞在用に設えられたものだと思われる一画。ひとつながりになったリビングダイニングキッチンに洋室が二間、和室が一間あり、中に入ってしまえばそこはほとんど一般的な住宅と変わらない。『サスペンデッド』の鑑賞者は、10分ごとにひとりずつその「居住空間」へと導かれ、ヘッドマウントディスプレイを装着した状態で各部屋を順に巡っていく。ヘッドマウントディスプレイを介してモノクロームになった室内で鑑賞者が対峙するのは宙に現われる鮮やかな映画のスクリーン。そこに映し出されるのは精神的な病を抱える母を持つ子の視点から振り返られる物語であり、その大部分は鑑賞者が立つ「居住空間」で撮影されたものだ。
かつてあったものを映し出す映画というメディアが、それが撮影された当の空間で体験されるとき、それがかつてそこにあったのだという感覚はより一層の強いものとなる。「そこ」はまさにその場所として目の前にあり、しかしそこにいたはずの人物もそこで起きたはずの出来事も目の前にはない。鑑賞者のいる室内には食器の置かれたダイニングテーブルやソファ、勉強机といくつかのぬいぐるみ、ベッドなど、「彼女たち」が過ごす空間と同じものも置かれているが、現実の室内に置かれているのは映画のなかで映し出されるもののごく一部でしかなく、ガランとして生活感のないそこはすでに抜け殻のようだ。置かれているというよりはかろうじて残された痕跡。ヘッドマウントディスプレイ越しの視界はモノクロームに色を失い、そこにあるはずの現実が遠い。宙に浮くスクリーンだけが、「彼女」の記憶だけが鮮やかだ。
ところで、「彼女」とは誰か。鑑賞者が最初に導かれた部屋でまず目にするのは、この映画が作者自身を含めた3人の女性の幼少期の体験をもとにしたものであり「いまも世界のどこかで病の親と暮らしている子供たちの家庭のなかで体験する宙吊りの感覚を映像化したもの」だという言葉だ。母が起きるのを待ち、友達と遊ぶことなく家に帰り、母の「目の前の霧」が晴れるのを待ち、あるいは入院した母の帰りを待つ。「宙吊りの感覚」というのはこのようなすべてが待機状態に置かれた時間を指す言葉だろう。しかしそれでも時間は流れ、いつか状況は変わっていく。秒針の音が耳を打つ。
「あなたの痛みがどんなものか、私は想像することしかできない」と「彼女」の声は語る。「あなた」と呼ばれているのはもちろん「彼女」の母親なのだが、それは映画の鑑賞者への呼びかけのようにも響く。ヘッドマウントディスプレイ越しのモノクロームの視界、世界の遠さは鬱の症状のそれに通じているようにも感じられる。「目の前の霧」。映画は子である「彼女」の視点で語られる記憶だ。ではこのモノクロームの視界は誰のものか。室内を歩くほかの鑑賞者たちが私に注意を向けることはなく、同じ部屋にいながら自らの世界に入り込んでいるように見える。
鑑賞者たる私は室内を漂う光の粒子に導かれて部屋から部屋へと移動していく。窓際の椅子、ソファ、ダイニングテーブル、子供部屋にベッドの置かれた和室。記憶の場所を巡るように漂う光の粒子は「彼女」の記憶の残滓か、それとも母親のそれか。「ひとつの心が壊れるのを止められるなら」「ひとつの命の痛みを軽くできるなら、ひとつの苦しみを鎮められるなら、1羽の弱っているコマドリを、もう一度巣に戻せるなら、私が生きることは無駄ではない」。「ただいま」と告げる母から切り返して子の顔のアップ。「おかえり」の声が画面に重なる。子でありながら母のような立場に置かれた「彼女」。かつて子であり、現在は母となった中村がこの映画を撮ることは、二重化された「彼女」に現在から手を差し伸べることだ。それは祈りにも似ている。
エンドロールのあと、映画の最後に示されるのは、日本国内では精神疾患を患う親と子供はその人数すら把握されておらず、「支援の穴」と言われているという現実だ。ヘッドマウントディスプレイを外し、色彩を取り戻した私の現実に「彼女」の姿は見えていない。
シアターコモンズ作品ページ:https://theatercommons.tokyo/program/yuko_nakamura/
中村佑子Twitter:https://twitter.com/yukonakamura108
関連レビュー
中村佑子/スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』|山﨑健太:artscapeレビュー(2019年05月15日号)
2021/02/17(水)(山﨑健太)