2024年03月01日号
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artscapeレビュー

みちのくがたり映画祭──「語り」を通じて震災の記憶にふれる──

2017年04月15日号

会期:2017/03/02~2017/03/04

フラッグスタジオ[大阪府]

身体を通して震災の記憶に触れ継承するプロジェクト/パフォーマンス公演『猿とモルターレ』(演出/振付:砂連尾理)の関連プログラムとして開催されたドキュメンタリー映画祭。東日本大震災以降の東北に暮らす人々の「語り」に耳を傾けながら、記録し続ける映画監督、映像作家たちの作品計4本が上映された。上映作品は、『波のした、土のうえ』(監督:小森はるか+瀬尾夏美)、『ちかくてとおい』(監督:大久保愉伊)、『なみのこえ 気仙沼編』(監督:酒井耕、濱口竜介)、『うたうひと』(監督:酒井耕、濱口竜介)。
4作品はいずれも、「語ること」の位相がもうひとつの主題である。『なみのこえ 気仙沼編』と『うたうひと』については、同じく関連プログラムとして開催された「東北記録映画三部作」上映会のレビューで触れたのでここでは詳述しないが、カメラワークのトリッキーな仕掛けにより、「語り手」と擬似的に対面する「聞き手」へと鑑賞者を転移させる装置としてはたらく。また、大久保愉伊の『ちかくてとおい』は、かさ上げ工事で土に埋もれてしまう故郷、岩手県大槌町の姿を、震災後に生まれた姪へ向けて映像と言葉で伝えようとする作品。監督自身から姪へ、という個別的で親密な関係性の上に成り立つあり方は、『なみのこえ』の「語り手」と「聞き手」の関係性(夫婦や親子、友人など)とも共通する。
一方、小森はるか+瀬尾夏美の『波のした、土のうえ』では、被写体となる陸前高田の住民へのインタビューを元に、瀬尾が一人称で書き起こした物語を、もう一度本人が訂正や書き換えを行ない、本人の声で朗読する。その声と町の風景を重ねるように、小森が映像を編集した作品だ。物語としての書き起こしと、本人の声による朗読。それは一種の共同作業であり、「声を一方的に簒奪しない」という倫理的側面を合わせ持つ。また、語った言葉そのままでない距離の介在は、自身の経験や感情を客観化する過程であり、生々しさが和らぐ分、「共有できなさ」の心理的な溝が縮まると同時に、プロのナレーターのように矯正していない発話に残る訛りやイントネーションは、他者性を音声的に刻印する。
最後に、本映画祭の「みちのくがたり」というタイトルの含みについて。4作品はいずれも、みちのく(東北)についての語りであると同時に、「ドキュメンタリー」における「語りのあり方」の新たな発明の必要性、語ることとその記録との関係をどう更新するか、という問いの地平を開いていた。

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2017/03/04(土)(高嶋慈)

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