2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

試写『ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像』

名画をめぐるオークションの話はよくある。父と娘と孫の愛憎物語も珍しくない。でもその二つが絡み合う映画は見たことがなかった。時代に取り残された老画商が、オークションハウスで1点の肖像画に目を止める。サインはないが、もしかして、名のある画家の知られざる作品? そろそろ店じまいを考えていた画商は、最後に一花咲かせようと、この1点に賭ける。そのころ、音信不通だった娘から問題児の孫の世話を頼まれ、聞かん坊だが好きなことには夢中になる孫とともに、その絵の作者を調査。探し当てた作者は、ロシアの巨匠イリヤ・レーピンだった。しかし落札するにも金がない。画商は資金繰りに奔走し、とうとう孫の貯金にまで手を出してしまう。怒った娘は父と断絶……。

最後は父の死により家族のわだかまりは消え、物語としては丸く収まるのだが、なにか引っかかる。それはおそらく、老画商が芸術的価値を見抜く才能を持っているのに、それをあっさり金銭的価値に転換させてしまったことだ。もちろん画商は芸術的価値を金銭的価値に置き換えるのが商売だから、むしろそれをしないのは画商失格だが、しかしこの画商は作品がレーピンのものだと直感した瞬間から金の亡者と化してしまい、いかに金を集めるかばかりを考えてしまう。そうでなければ物語が進まないことはわかっているけれど、なんかこの主人公には共感できないなあ。

2019/11/06(水)(村田真)

Ando Gallery、「富野由悠季の世界」「高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの」「画業50年“突破”記念 永井GO展」

安藤忠雄の設計で5月に新設された第2展示棟(Ando Gallery)を見るために、久しぶりに兵庫県立美術館を訪れた。展示エリアには吹抜けと大階段もあり、想像以上に大きいスペースが増えている。パリやヴェネツィアのプロジェクト模型なども置かれ、東京やパリを巡回した個展の目玉の落ち着き先になったようだ。そして安藤がデザインした屋外オブジェの大きな『青りんご』は、いまや来場者が順番に撮影するフォト・スポットである。それにしても具象的な安藤の作品はめずらしい。



Ando Galleryの大階段から見上げた展示エリア



パリやヴェネツィアのプロジェクト模型



安藤忠雄のプロジェクト模型より



館内から眺めた、安藤忠雄の『青りんご』。撮影者が列をなしている


美術館では、じつは安藤と同じく1941年生まれの「富野由悠季の世界」展が開催されていた。最初の頃は驚いたが、いまやアニメに関連する展覧会が公立の美術館で行なわれることは当たり前になっているが、ただの作品紹介ではなく、これは国立近代美術館の「高畑勲─日本のアニメーションに遺したもの」展と同様、監督・演出家としての富野を紹介する企画であり、キュレーションがなされた内容だった。特に富野だけに、ヴィジュアルだけではなく、『機動戦士ガンダム』の「ニュータイプ」や『伝説巨神イデオン』の「イデ」など、作品を貫く彼の概念=思想をひもとくことをうたっている。ともあれ膨大な資料を集めており、感心したのは、子供時代の絵や文章まで展示されていたことだ。また絵コンテなど、自ら描いたヴィジュアルが多いのも興味深い。



「富野由悠季の世界」展より。『無敵鋼人ダイターン3』の模型


一方で「高畑勲」展は、本人のスケッチがあまりないために、脚本や制作ノートを通じ、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)の重要性を振り返りつつ、高畑の監督・演出家としての姿勢が示されていた。1970年代の『アルプスの少女ハイジ』のオープニング映像にも服を脱いで走る場面があったが、遺作となった『かぐや姫』(2013)の疾走シーンは日本アニメにおけるひとつの到達点だったことがうかがえる。



「高畑勲」展より。『アルプスの少女ハイジ』のジオラマ模型


富野もまた膨大な作品を手がけているが、やはり1970年代末から80年代初頭のガンダムやイデオンが後世のSFアニメに大きな影響を与えたといえるだろう。ちなみに9月に上野の森美術館で「画業50周年“突破”記念 永井GO展」も鑑賞したが、ロボットものは永井豪が『マジンガーZ』(1972)を皮切りに、1970年代初頭にすでに開拓していたので、やはり富野の本領は、思想をもったSFとしてのアニメになるだろう。



「画業50周年“突破”記念 永井GO展」より。永井豪の仕事場を再現したコーナー

公式サイト:
富野由悠季の世界  https://www.tomino-exhibition.com/
高畑勲展—日本のアニメーションに遺したもの  https://www.tomino-exhibition.com/
画業50年“突破”記念 永井GO展  https://www.tomino-exhibition.com/


2019/10/20(月)

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アートのお値段

ポロックやウォーホル、バスキアの作品が100億円を超す高値で売買される現代。よく聞かれる疑問が、本当にそれだけの価値があるの? そもそも美術品に適正価格はあるの? ってこと。これに対する答えは、美術品(に限らないが)の価格は需要と供給の関係で決まるということだ。つまり、その作品を欲しい人が2人以上いれば価格はいくらでも上がるが、1人もいなければゼロに等しい。そしておそらく、2人以上がほしがる作品は全体の1パーセントにも満たず、大半の作品は値がつかないか、つけても売れないということだ。この極端な格差がごく一握りの作品を超高額に押し上げる一方、99パーセントのゴミを生み出している。これを聞いて思い出すのが、世界の富豪上位26人が有する資産の合計(約153兆円)が、下位半分(38億人)の資産とほぼ同額という統計だが、アートの世界はもっと極端かもしれない。

この『アートのお値段』は、高騰を続ける現代美術の価格と価値を巡るドキュメンタリー映画。そもそも現代美術の価格が高騰し始めたのは、日本のバブルがはじけてアートマーケットが縮小した90年代のこと。日本人が近代美術を買い漁って底をついたため、今度は作品がいくらでも供給できる現代美術にスライドしたというのだ。だれが? ごく一部のギャラリスト、オークショニア、コレクター、そしてアーティストだ。言ってみれば、アートマーケットは彼ら数十人のプレイヤーが動かすゲームみたいなもの。その最優秀プレイヤー(?)として登場するのが、広大なスタジオでスタッフに絵を描かせ、自分は指示を出すだけのアーティスト、ジェフ・クーンズであり、その対極として描かれるのが、かつてドットを使ったオプ・アートの旗手として名を馳せ、現在は郊外の一軒家で目の覚めるようなペインティングに取り組むラリー・プーンズ。その中間に位置するのがゲルハルト・リヒターだ。

『アートのお値段』というタイトルは身もふたもないが、原題は『THE PRICE OF EVERYTHING』で、これはオスカー・ワイルド著『ウィンダミア卿夫人の扇』のなかの「皮肉屋というのは、あらゆるものの値段を知っているけど、そのものの本当の価値を知らない人のことさ」というセリフから来ている。つまり価格と価値は別物だということであり、ここではクーンズは価格派、プーンズは価値派であり、リヒターは価値を重視しながら価格に乗る派、に分類できる。いずれにせよ、アートのお値段は芸術性とは関係ないということだが、実は無関係というだけでなく、美を感じる脳と欲望により活発化する脳とでは正反対の反応を示すと、精神科医でコレクターの高橋龍太郎氏はパンフレットのなかで指摘する。どうやら価値(美)と価格(欲望)は別物どころか、対極に位置しているらしい。なんとなくアートマーケットに感じていたモヤモヤ感が、少しすっきりした。

この映画でもうひとつおもしろかったのは、プーンズのほか、美術評論家のバーバラ・ローズやギャラリストのメアリー・ブーンなど、1970-80年代に活躍した過去の人たちが登場すること。もっとも、すっかり別人のようになったメアリー・ブーンはつい最近、脱税で捕まって名前が出たばかりだが。新表現主義をマーケットに乗せた彼女も、結局「アートのお値段」に振り回されたのか。

公式サイト:http://artonedan.com/

2019/09/22(日)(村田真)

話しているのは誰? 現代美術に潜む文学

会期:2019/08/28~2019/11/11

国立新美術館 企画展示室1E[東京都]

タイトルを聞いたときは、文学と現代美術との関係を問い直す展覧会ではないかと思った。つまり、プルーストの『失われた時を求めて』やカフカの『変身』のような、具体的な文学作品が下敷きにある現代美術作品を集めた企画だと思ったのだ。ところが展示を見て、それがまったくの誤解であることがわかった。「ここでの文学は、一般に芸術ジャンル上で分類される文学、つまり書物の形態をとる文学作品だけを示すわけではありません」ということだったのだ。

今回展示されたのは、現代美術作家たちが何らかのかたちで「文学的要素」を取り入れて制作した作品である。つまり、その解釈の幅はかなり広い。さらに、北島敬三、小林エリカ、ミヤギフトシ、田村友一郎、豊嶋康子、山城知佳子という出品作家の顔ぶれを見ると、1950年代生まれから80年代生まれまでが含まれており、写真、映像、オブジェ、パフォーマンス、インスタレーションなど、ジャンルも多岐にわたる。かなりバラついた展示になる恐れもあったが、実際には互いの作品がうまく絡み合って、すっきりとした、緊張感のある展示空間が構築されていた。

全体的に写真・映像作品の比率が高い展示になったのも興味深い。「EASTERN EUROPE 1983-1984」、「USSR 1991」、「UNTITLED RECORDS」という3つの写真シリーズを出品している北島敬三はもちろんだが、ほかの出品作家も豊嶋康子を除いては、写真か映像、あるいはその両方を使っている。おそらく写真という具体性と象徴性をあわせ持つ媒体の喚起力が、「文学的要素」を取り込むのに向いているのだろう。個人的には、山城知佳子の映像作品《チンビン・ウェスタン『家族の表象』》(2019)が面白かった。沖縄の現実をオペラや琉歌やロックに乗せて歌い上げる、活気あふれるショート・ムービーである。

2019/08/28(水)(飯沢耕太郎)

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新聞記者

遅ればせながら、藤井道人監督の映画『新聞記者』を観る。主役の演技も、観客を宙吊りにするラストもよかった。女性の新聞記者と若手官僚が政権の闇を暴こうとする物語だが、「特別に配慮された大学の新設」というモチーフは明らかに加計学園や森友学園の問題を連想させ、日本では希有な同時代的な政治サスペンスである。もっとも、直接的に固有名詞を使わないこのレベルでさえ、「テレビの仕事がなくなるから」と2つの製作会社が依頼を断ったり、政権批判的な内容ゆえに、テレビでもあまり映画を紹介しなかったことに驚かされた。

あいちトリエンナーレに対する激しいネット・バッシングの後だと、内閣情報調査室がネット書き込みで世論操作をしているシーンがリアルに不気味だ。実際、「毎年(!)トリエンナーレを楽しみにしていたのに、もう行かない」といった組織的な書き込みが数多く出現したのは、よく知られている。また展覧会が始まってすぐ、少女像と天皇を扱う作品の他に、今回の「表現の不自由展・その後」には出品されていない、安倍首相と菅官房長官と見られる人物の口を踏みつけにした竹川宣彰の作品も、いっしょに画像つきで拡散された。後者は、アーティストのホームページから、香港の展覧会を探さないと見つからない画像であり、簡単には出てこない。したがって、偶然に間違えたのではなく、炎上を加速させる目的で、悪意をもって紛れ込ませたフェイクの情報である(これを今でも信じている書き込みも散見される)。

ところで、映画内に出てきた内調のネット書き込み部隊のインテリアの空間表現が興味深かった。明るく乱雑な新聞社のオフィスに対し、暗い部屋で青白く光るパソコンの画面に向かい、職員たちが黙々と悪口を書き込むのである。これはいかにもネットの悪い人というイメージだが、あえてリアリティがない表現なのかもしれない。なぜなら、こうした組織の実態がよくわからないからだ。映画では、官僚の強烈な台詞がある。「日本の民主主義は形だけでいい」というものだ。官僚は国民ではなく、政権の維持に奉仕する。これでは、東大の入試で文1(法学部)と文2(経済学部)の合格最低点が逆転したように、官僚の希望者が減るのも仕方ない。

公式サイト:https://shimbunkisha.jp/

2019/08/17(水)(五十嵐太郎)

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