artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎
会期:2023/01/18~2023/03/26
東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]
スフィンクスは神殿の守護者だ。スフィンクスさん、スフィンクスさん、お座りください。会場すぐにある案内と展覧会名「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎」を照合するかたちだけでまず、本展を考えていこう。
入口すぐには椅子がフォーラム会場のように並んでいて、その正面にはワイドモニターで3DCGのアニメーション映像が流れている。空中に浮かんだ10個のコーヒーカップの底にアルファベットの文字が浮かんでは水で流されていく。水洗トイレのジャーッという音がして文字は消えて、また別のコーヒーカップに文字が浮かび始める。そのモニターの下には象形文字のようなアルファベットが1文字ずつ書かれたソーサ―が置かれていた。
なぜ1カ所について長々と書いてしまうかというと、椅子に座ってこの一定のテンポが延々と続く映像を17分近く見ていたからだ。ただ、映像自体がどの程度のランダム性をもっていたかまではわからない。なぜならわたしは、映像を眺めるのと同時に、耳元でボソボソとつぶやかれる音声に集中していたからだ。
椅子にはQRコードがプリントされたラミネート書類が置いてあって、スマートフォンでそれを読み込むと「LINE」のユーザーインターフェースのような画面になって、女性の声と男性の声が聞こえてくる。画面にはシークバーがあって、再生位置を操作することができた。そしてこの音声作品は17分30秒の長さであるとわかる。倍速で聴くことも可能だ。
女性の声はスマートフォンを片手にこの音声を聞いている観賞者に向けて10個のルールを語りかけ続けているのだが、もうひとりの登場人物である男性もその女性の言葉に耳を傾けているようで、ルールに対してときどき「知らないよ」「やりたくないよ」「できるかも」と短い感想を漏らしていた。わたしの気持ちを代弁するかのようで、視聴に徒労感はないが、たくさんの情報を脳内で整理していて、うっすら酸欠感を覚えた。
ルールの詳細はさておき、その語りで徐々にこの女性は観賞者を「再野生化したい」という動機を抱えながらルールを定めていること、女性とは美術館そのものであるということ、前半のルールは美術館の観賞上の注意(走らないでください、作品に手を触れないでください、マスクをしてください、作品を撮影しないでください、開場したら入れます、閉館時間には帰ってください、飲食は禁止です……)の読み替えであることがわかってくる。
端的に言って、これらはマスクの着用を促す以外は、美術館における作品保全を目的としたルールだ。ここまでくると、なぜその女性が観賞者を「再野生化」したいのかも推測できるようになってくる。
もともと「再野生化」とはアメリカの環境保全活動家であるデイヴィッド・フォアマンによる1990年頃につくられた用語であり、自然保護運動や、国立自然公園・世界自然遺産などの認定や運営において重視されてきた「自然」を再考する動向である。建築史・都市史家の松田法子はその自然公園などの運営主体によって「再野生化」に向けたアプローチへの積極性に幅があることを前提としたうえで暫定的に「生物多様性の最大化を目指して生態系(エコシステム)を安定的に活発化させる試みで、そのために生態系へ一定の人為的操作を加えたうえで、以降は自然(保護区)に対する人間の管理と介入の度合いをできる限り後退させ、人間を除くエコシステムに土地を託すような考え方と実践」と定義している
。では、ここで文化財の保護活動を行なう美術館たる女性音声が観賞者に求める再野生化とは何だろうか。とりあえず、次のように言ってみることができるだろう。「美術(館)を自然という言葉に置き換え、美術を保全することを至上命題として、それを達成するための因子としての人間になること」が、ここでの再野生化だと。
この美術館による文化財保全の徹底は、テオドール・W・アドルノが言うところの美術館=霊廟批判との関係性について考えさせられるが、アドルノの論点はそれぞれの作品を絵画や彫刻といった形式に分類した後、展示室で一斉に見せるという野放しの作品展示への批判であり、ホワイト・キューブであると自認していそうな女性音声にその批判は当てはまらない。むしろ実直に、資本主義的に開かれた美術館へのアンチテーゼに聞こえてくる。最後の方で「葬られて土にかえることに抵抗しましょう」と女性音声は言って、モニターが掛かった壁を越えていくようにと指示がある。ふとハンドアウトを見ると、この音声や映像には名前が付けられていなかった。壁を右側から通り過ぎた。
壁の外には一般的な意味での野生化した作品が存在しているといえるだろう。ここでの野生化とは「展示し続けたらこうなりました」というような経年劣化の表象としてのモニターとプロジェクターの有様であり、衣服やスマートフォンといった文明の証を減退させるような指示であり、孤独がつくられている。17分の音声と答え合わせをするように進んでしまった。謎解き脱出ゲームのように思えてきて、楽しく過ごした。
先の「資本主義的に開かれた美術館」というのは、2017年の当時地方創生相であった山本幸三が「地方創生とは稼ぐこと」と定義したうえで、観光振興のためには「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目だ」と言い、二条城を例に挙げて、二条城のなかでは「文化財のルールで火も水も使えない。花が生けられない、お茶もできない。そういうことが当然のように行われている」
と発言したような、保全ありきではない観光資源としての制度化を目指すようなもののことである。本展のアトラクション性も、この山本による「なぜできないのか」という問いに対しての、なぜなんて当たり前のことを返すのではない、「美術館がしていること」というアンサーのひとつかもしれない。というわけで展覧会名に戻ろう。スフィンクスは神殿の守護者だ。スフィンクスさん、スフィンクスさん、お座りください。わが国では博物館法の一部が改正され、地域の多様な主体との連携・協力による文化観光その他の活動を図り地域の活力の向上に取り組むことが努力義務となったいま、あなたがここに座ってくれたら。逆説的にここは、神殿ということになります。スフィンクスさん、スフィンクスさん、お座りください。そしたらあの音声がなくとも再野生化された人間で溢れかえるでしょう。
本展は1200円で観覧可能でした。
公式サイト:https://www.operacity.jp/ag/exh258/
2023/01/24(火)(きりとりめでる)
多層世界とリアリティのよりどころ
会期:2022/12/17~2023/03/05
NTTインターコミュニケーション・センター[ICC][東京都]
たまにビデオゲームの設計はどこまでも自由に世界を構築しているかのように思える。しかしそうではない。例えば記憶容量の上限といった技術的な制約の壁はいくつも存在してきた。それを撥ね退けるために、たったひとつのドットの瞬きで風にそよぐ草木を表わす表現が生まれてきたし、ゲームを成立させるために「ここから先は行けません」「これは触れません」と操作可能な範囲について不文律のルールを設けるという慣習を生み出してきた。そんなビデオゲームにおける条件を怒涛のように詰め込んだのがハルン・ファロッキの四つの映像作品《パラレルⅠ-Ⅳ》(2012-14)だった。
この作品はNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]の企画展「イン・ア・ゲームスケープ ヴィデオ・ゲームの風景,リアリティ,物語,自我」(2019)に出展されたもので、同展には多くのマシニマ(ビデオゲームの開発を汎用化するためのゲーム用プログラムの集合体としてのゲームエンジンやプレイ動画を利用した映像)が登場した。その後もICCは企画展を中心に多くのマシニマ作品を紹介してきたのだが、2023年3月5日まで開催の「多層世界とリアリティのよりどころ」にも同系譜の作品が出展されている。
第2次世界大戦のオンライン・シューティング・ゲーム『バトルフィールドV』のプレイ映像を素材として制作された20分ほどの映像作品であるトータル・リフューザル《How to Disappear》(2020)と、ゲームエンジンや映像制作のために無償で使用できる3Dモデル(アセット)をふんだんに登場させた佐藤瞭太郎の映像作品《Interchange》(2022)の二つがそれにあたる。
《How to Disappear》は、《パラレルⅠ-Ⅳ》でも扱われた、プレイヤーがゲームのなかで移動したり活動できる範囲がどのように狭められているかということ、つまり、戦争ゲームのなかで「戦争から逃げるということができない」「戦局から離脱しようとすると謎の狙撃を受けてしまう」という、戦争ゲームの脱走不可能性に焦点を当てている。作中では『バトルフィールドV』のプレイの様子に対するナレーションとして、戦争における最重要課題がつねに、いかに兵を脱走させないように隊列を移動させつづけるかであったということが示される。処罰はもちろん、夜闇にまぎれやすい森での野営はご法度で、歩兵は騎兵に囲まれるように歩くといったコストが払われてきたというわけだ。
時代が下り、そういった組織の規律化はナポレオン戦争以降、愛国心と結びついていくようになるという。そうなると戦線からの脱走は、殺人への呵責といったことから一足飛びに棄国と結びつく。脱走兵は罵られる対象となり、帰る場所を失うのだ。
兵士は武器を持たずに陸の上で立つことができない『バトルフィールドV』と同じく、戦わないという選択肢が俎上に載らないように戦争は運営されてきたということが、ゲームで(無意識かはさておき)体現されていることが、作品を通して言外に浮かび上がってくるだろう。そして作品の後半では、1971年のベトナム戦争での脱走兵、2003年と2004年でのイラク戦争での大脱走が終戦に大きな影響を与え、「脱走兵」の意味の変化の兆しまでが描かれた。
『バトルフィールドV』での勝利が戦争を終わらせることだとしたら、「脱走」もまたその勝利方法になるのである(さらには、ベトナム戦争時に日本でも27都道府県で行なわれていた反戦運動としての「脱走米兵支援活動」もまた戦争を終わらせるという勝利に向かうものだったのだ
)。ゲームが戦争を冠するとき、そこでのバトルフィールドがどれほど局所的なものを戦争化してきたのかということと、為政者による非戦闘従事者への大衆的な侮蔑の扇情と政治との結びつきという現実がそのままにバトルフィールドになっているということを考えさせられる。この《How to Disappear》の対角線上に、佐藤瞭太郎の《Interchange》が展示されている。本作には無数のキャラクターのアセットが現われるが、いずれも言葉を発することもなければ、ナレーションも存在しない。
映像は主にひとりの兵士アセットを中心に進むのだが、兵士が派手なアクションを行なうわけではない。時たまアングルはその兵士の一人称視点と思しきものに切り替わり、兵士は静かに自分の掌を見つめてはゆっくり拳を握る。まるで、「この動作は自己の判断によるものなのか」と兵士自身が考えているようだが、感情の起伏は特になく、ただただ兵士は佇んでいる。そのまま兵士が自分で手を動かしているという自我を得るかと思いきや、兵士の目の前に現われた巨大なバニーも兵士と同じように手を動かし始めた。なんと、その兵士とバニーの動作の同期は左右反転の鏡像ではないため、兵士が左手を動かせば左手を動かすというようなシンクロを目の当たりにして、兵士は自意識を信じるに至らない。バニーはバニーで、バニーが映るモニターを見つめている(飯村隆彦が《私自身に話すこと 現象学的作用》[1978]でカメラに向かって自分自身で発話するのを聞くことで自己同一性を獲得したのちに、その映像に映る自身が他者化することのクリティカルさを思い出し、かくも複雑にキャラクターとその主体性の有無の推し量りをめぐる観賞者の視聴が発達したものだと嘆息する)。
このように、本作はアセットがキャラクターとして自己同一性を獲得するかどうかを軸に進んでいく。
とはいえ、作中で彼のほかに役務についているような兵は見つからない。ひとりでこなせるとは思えない軍隊のための労働を孤独に強いられているかのようだ。すると、彼が警備する背中を越えて、大量のアセットがコンテナから飛び出していく。兵士も含めたアセットの大脱走だ。
本作のどこか乾いたひとりの兵の自意識を巡る詩情のシーンと、コンテナから飛び出していったり、どこからともなく無数に沸いて降って炸裂するアセットのキャラクターたちの色彩豊かな饗宴の緩急は見るものを飽きさせない。しかし、なお特徴的なのは「ゲームエンジンという創造の環境」をさらけ出すような手つきだろう。
作品の途中、兵士が宙に浮き、猛スピードで森の中を回転し始める。次第にその身体が弾力と柔軟性に溢れたタイヤをシミュレートしたかのように高速道路を滑走するのだ。その変形と挙動は回転しつづける兵士に内面など存在しないと観賞者に念を押すようでもあり、これは兵士のなかにアクターがいるフル3Dの映像制作ではなく、アセットがタイヤのように回転するよう操作した軌跡でしかないというように。
さらに次のシーンでは、ほかのキャラクターも兵士と同じように高速で回転する。キャラクターは途中から回転するごとに無数のアセットに置換され続ける。兵士と同じ転がり方をするいくつものアセットもワールドも瞬時に変わっていく。このことによって、「カットが切り替わった」のではなく、「参照するアセットのリンクが切り替えられ続ける」という交換可能性が観者に突き付けられることになる。こうして、作品のなかで変化する兵士の挙動によって、観者の没入が操作されているということに気づかされると同時に、あの兵士の逡巡も無数のアセットで置換可能だということまでも観者に暗示されてしまうのだ。
佐藤の本作における置換性の射程は、アセットに関してのみ明示されていて、ゲームエンジンというものをアーキテクチャのような強固な創造の傾向を生み出すものというように扱っているわけではない。しかし、《How to Disappear》 が示すように、何が戦争から除外されているかというゲームの社会的慣習が為政者的な統治の技術と地続きになっていることを踏まえると、その慣習を受けたアセットにも、そしてその明示されていない作品の制作方法にもまた現実が貫入しているのかもしれないと思わされるものだった。
入場料は500円でした。
公式サイト:https://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2022/viewpoints-of-reality-in-the-multi-layered-world/
2023/01/24(火)(きりとりめでる)
ハン・ジェリム『非常宣言』、パク・デミン『パーフェクト・ドライバー』ほか韓国映画・ドラマ
あまり日本では話題にならなかったが、航空パニック×バイオテロのジャンルを掛け合わせたハン・ジェリム監督の映画『非常宣言』(2022)は、ハリウッド映画と比べてまったく遜色ない傑作だった。すでに航空パニックものはさまざまな作品が存在するが、ここまで深い絶望を感じさせるのは初めてであり、特に終盤において乗客が下すある決断は前例がなく、衝撃的だろう。難点をあげるとすれば、いまいちとらえどころがない犯人像か(仕かけたテロの行方を見届けない映画『機動警察パトレイバー the Movie』[1989]の帆場暎一みたい?)。だからこそ、その存在はサイコで不気味なのだけど。
同じく1月に封切りされた『パーフェクト・ドライバー」(2020)は、とにかくカッコいい。韓国映画はすでに幾つも女性アクションの傑作を生みだしているが、『ベイビー・ドライバー』(2017)+『グロリア』(1980)的に展開する本作品も仲間入りだろう。個人的にラストは三重に予想を裏切られた。『シュリ』(1999)を鑑賞したとき、韓国でこんなスリリングなスパイ・アクション映画がつくれるのかと驚いたが、もうそれが当たり前になっている。
建築に注目すると、集合住宅は実際に都市風景の中で林立しており、韓国の映像の得意分野だろう。昨年末に日本で公開されたマンション・ディザスター・パニック『奈落のマイホーム』(2021)は、突然、巨大な陥没穴が生じ、マンションが地下500mに転落していく。冒頭は群像紹介でややだれるが、落下が始まった後はありえない事態だけに、特撮技術の迫力が光る。そしてサバイバルのなかに笑いの要素もあり、ラストは感動も起こさせる奇跡の作品だった。韓国のドラマやNetflixのオリジナル映画では、『#生きている』(2020)や『Sweet Home─俺と世界の絶望─』(2020)など、集合住宅を舞台とするゾンビものの名作が続く。
特筆すべきは、感染対策のために、外部から閉鎖されたロックダウン的な状況下の人間関係を嫌らしく表現した『ハピネス』(2021)である。これは途中で正気に返る近年の傾向を入れつつ(『CURED』[2017]など)、コロナ禍と共有する問題を接続させ、そこにマンション内格差のテーマを加え、極限状況における人間の怪物化を描く。もちろん、ウイルスが引き起こす症状よりも、利己的な人間の心の方が恐ろしい。
『非常宣言』公式サイト:https://klockworx-asia.com/hijyosengen/
『パーフェクト・ドライバー』公式サイト:https://perfectdriver-movie.com
2023/01/15(日)(五十嵐太郎)
NACT View 02 築地のはら ねずみっけ
会期:2023/01/12~2023/05/29
国立新美術館[東京都]
国立新美術館のパブリックスペースを会場に展開される「NACT View」の第二弾として、築地のはらの「ねずみっけ」が開催されている。乃木坂駅からの連絡通路やカフェ・スペースに映し出されるねずみのコミカルな動きをトリガーに、いつもとは違う美術館への動線が立ち現われる。
私が今回注目したのは、アニメーションを観る体験の拡張もさることながら、DMやポスターにスマートフォンをかざすARでの体験がもう一つの入り口になっている点だ。美術館外でもアクセスできる印刷物上でのAR体験と、美術館でのサイトスペシフィックな鑑賞体験を組み合わせることにより、美術館をめぐる動線が再配置されているように思えるのだ。こうした取り組みは、黒川紀章が設計した空間と来館者の関わりを緩やかに変え、美術館のパブリックスペースにおいて新たな関係を生み出しているのではないだろうか。
アーティストがARを取り入れる試みには、オラファー・エリアソンの「WUNDERKAMMER」(2020)やクリスト&ジャンヌ=クロードの「マスタバAR」(2020)など、すでにさまざまな前例がある。パンデミックの影響に呼応して、自宅鑑賞可能な作品や一過性の作品を記録し再生するアーカイブ的な側面などが注目を集めた。また、美術館や博物館が鑑賞ツールとしてXR(クロスリアリティ)を採用するなどの動きと並行して、スタートアップCuseum社が自宅での名画鑑賞を目的としたサービス「Museum From Home」(2020)を開始するなど、新規企業の参入という点でも話題となった。しかしながら、今回の展覧会では、技術的な面での新規性や話題性というよりもむしろ、生活のなかに浸透しつつあるインフラストラクチャ―を活用しながら、既存の空間を読み替え、来場者の空間に対する認識やアクセス性をずらしていくところに可能性を見出すことができる。築地による仮設的かつ行為遂行的なアプローチに、来場者の想像力が刺激されるのだ。
築地の作品には、今回の展示に限らず、ねずみのキャラクターが度々登場する。さまざまなコンテクストにおいて登場し、ときに大きく映し出されたり、二次元の画像のまま現実空間と重ね合わされるところなどに、現実の空間とのずれを読み取らせる面白さがある。私たちがねずみを見ているのか、ねずみに見返されているのか。飄々としたねずみの振る舞いを楽しみながら、日常のメディアとの付き合いについて考える機会となるだろう。
公式サイト:https://www.nact.jp/2022/nactview-02/
2023/01/12(木)(伊村靖子)
江口智之×小寺創太「回顧展」
会期:2022/12/17~2022/12/28
GALLERY10[TOH][東京都]
アーティストの小寺創太がインタビューされ、アーティストの江口智之が編集した《Artist Inteview》(2022)がスクリーンに投影されている。この映像作品は白い部屋の縦型カーテンの傍らで撮影されている。椅子がぽつんと1脚だけ置いてあって、そこに小寺が入ってくるのが冒頭だ。インタビューのアイスブレイクのように小寺が身に着けている服についての質問から応答が始まるのだが、これが何度かカットされてカチンコが鳴って同じような質問とやりとりが繰り返される。正直、なぜカットが入ったかはわからなかった。このことから、このインタビューにはおよそ台本があるか、質問事項だけが先に決まっていて小寺が返答を定めてきたかというように、作意の次元がいくつか見えてくる。
インタビュー映像は何度かカットされつなぎ合わされているが、前後の映像がホワイトアウトしたりクロスオーバーするようなディゾルブ編集が入ることはないから、映像にテンポをつけるような素振りはまったくない。自己紹介や展示に至った経緯、「いる派」とは何か、好きなアーティストや作品は何か。個人についてのことや展覧会に即したテンプレート的だが初見の観賞者にとっても入りやすい質問が配されていて、問答に拮抗はなく、小寺も衒いなくザクザクと答える。最後の「あなたにとってアートとは」という質問に小寺は「蔑称」である旨を説明して終わった。小寺は椅子から立ち上がり、映像のフレームから消えて、おのずと冒頭のシーンと同じ構図になって、作品はループする。ループした瞬間も同じ構図だが、少し外が明るい。映像は10分程度だが、撮影は数時間に渡っただろうかと推察できるようにつなげてあると言えるだろう。
GALLERY10のプライスリストにはいつも出展作品に併せた何かが商品化されている。今回の展示作品は非売品で、小寺にインタビューする権利と江口にインタビューされる権利が販売されていた。この双方へのインタビュー関連行為だけが販売されているさまは、展示作品である《Artist Inteview》の前述した映像としての成立ないし存在がサンプルで、なかったことにしてもいいと言っているようにも思えるし、映像の存在自体、あるいは、作品は手放さなさないものなので手放しませんと言っているようにも思える。発言や映像よりも、プライスリストが気になって仕方なかった。
なお、展覧会は無料で観覧可能でした。
展覧会情報(GALLERY10[TOH]Instagram):https://www.instagram.com/p/ClvdMv7yTcJ/
2022/12/28(水)(きりとりめでる)