artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
笹本晃《パフォーマンス記録映像 ストレンジアトラクターズ》(「森美術館開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」より)
会期:2023/04/19~2023/09/24
森美術館[東京都]
先月のレビューで森美術館の「開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」について取り上げたのだが、そのなかでも「浮いている」と思ったのが笹本晃の《パフォーマンス記録映像 ストレンジアトラクターズ》(2010)である。その理由はひとまず置いておいて、展覧会のなかで記録映像然として比較的小さなディスプレイで展示されていた本作を簡単に説明するならば、30分ほどで人間を4つの分類として語るレクチャーパフォーマンスの記録映像だ。
レクチャーがどのような場所で行なわれているかというと、長机が3つも入れば窮屈になりそうなインスタレーションの中でである。そこには天井から吊るされた10ばかりの赤いネット。一つひとつのネットには、ビデオカメラだったり、ラベルのないカップ酒のようなものが入っていて、その自重で赤い網はピンと伸びきっている。たまに笹本が網に触れて揺れる。ステンレスか何かの円と半円でできたシャンデリア、マイクが仕込まれた机、円座クッション、人がひとり入れるくらいの筒。笹本がたまたま触れたように思える机には、レクチャーで必要な備品が仕込んであったりする。この中を笹本は歩き回り、机や壁に貼った紙でダイアグラムを描いたり、話し続ける。その内容は実のところ多岐にわたる。お気に入りのドーナツについて、筒と人体の類似点、7人の霊能力者に会ったこと。しかしながら、最後に語られるのは、人間の4分類である。
人間の99.9%であり群れを好むノーム。研究室に籠る日常と日課に満足しているカフナー教授。あらゆるノームが魅了され奉仕するもノームに興味がなく無視するティンク。ノームに嫌悪されノームの群れからティンクを識別できるオッズ。オッズはかつて(別の生で)ティンクであり、ティンクはかつて(別の生で)オッズだったから相互に感知でき、カフナー教授はかつて(別の生で?)ノームだったから、ノームについて理解できると解説が入った。
例えばオッズの幼少期はノームによるいじめによって特徴づけられると語られるように、それぞれの性質は他者によって相互に浮かび上がってくるのだ。
この解説をするにあたり、笹本はこの四者がどういった次元で存在しているのかを図示していく。それが会場にあったドローイングに見える図だ。それぞれ、《ストレンジアトラクターズ─図 2011年1月9日》、《ストレンジアトラクターズ─図 2010年12月18日》、《ストレンジアトラクターズ─図 2010年1月31日》と別日に開催されたパフォーマンスのなかで描かれていることがわかるし、この図を見ることで、どこか傍若無人なレクチャーに、明確な再現性が担保されていることがまざまざと示される。空を飛ぶように生きるティンクに対置するように、オッズは99.9%の人間に嫌われながら地底に生きるという。なんて悲惨だと思ったのも束の間、しかし、オッズは人生で一度、土から飛び立つことができるらしい。でも、世界のあまりの明るさに眼がくらんでその出芽はうまくいくとは限らないのだと笹本は続ける。
笹本によるレクチャーは4つの分類を俯瞰するように話が進むが、後半になるにつれ、語りの主体はオッズの視点が強くなっていく。そしてつぶやく。「この人生の目的はカフナー教授をみつけること」。
「それぞれのグラフは重なり合っているのかもしれない」「それが可能なら きっと 私は他のタイプに会えるだろう」「もし可能なら 私は孤独から抜け出せるだろう」。
笹本がつくり出したオブジェのなかで繰り広げられる4分類についての問答は、ジョックやクイーン・ビーを頂点とした「クリーク」ないし「スクールカースト」に似た節がありつつも、それぞれの分類が、自身の振る舞いや努力の過多、能力の傾向の問題でないという点で、運命に近しい。結果、人種や年齢やジェンダーといったさまざまな要素を加味したインターセクショナリティーの観点をどこか想起させるが、そういった性質の話とも違う。なぜなら本作で人間は、筒でしかないという話も出ていたわけだから。
レクチャーの途中で、土から出たオッズの行方はいくつか例示されるが、そのなかでもノームの世界に入ることができた場合は幸運なようだ。ただし、ノームの外側にいた者がノームの内側に入ることとは、「内側と外側に同時に居るもの」というモチーフで重ねられていく。それはドーナツの穴であり、痔であり、孤独という言葉で語られる。
「この人生の目的はカフナー教授をみつけること」。カフナー教授はノームのあれこれを記述する存在だ。だからオッズが求める「カフナー教授をみつける」とは、ある意味での言語化、社会的な理解を得る糸口に出会うことそのものだとも考えられる。美術作品に対する「カフナー教授」がいるとしたら、それはキュレーターかもしれないし、たまたま作品に出会った鑑賞者の可能性もある。
映像は笹本による「あっち行け」の連呼で終わる。これはオッズがノームに言われてきた言葉のはずだ。本作にとってのカフナー教授はどこにいるのだろうか。わたしの完全な憶測だが、カフナー教授だけは、後天的に発生した存在に思われてならない。
本展で本作が浮いていたと思ったのは直観的なものだが、その理由を考えてみると、なぜこの展覧会にこの記録映像があるのかという視点がキャプションで触れられていなかったからだ(もう一方の笹本の作品《ドゥー・ナット・ダイアグラム》で紙幅が足りなくなったように思える)。その他方で本作は、「あっち行け」という幼げな口調の連呼が暗示するように、クラスルームで起こる悲惨な出来事そのものについて、そしてその相関関係が学校というよりも社会全体とどう連続するかも含意している。30分近くある小さなディスプレイの記録映像はなかなか通しで見られる対象ではないだろう。しかし、本展が「知識」を中心に据えていたことを念頭に置くと、カフナー教授の不在を巡るこの記録映像は重要な作品のひとつだったと思う。
本展は平日2000円、土日祝は2200円で観覧可能でした。
開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/02/index.html
2023/07/01(土)(きりとりめでる)
開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会
会期:2023/04/19~2023/09/24
森美術館[東京都]
会場に入って最初に遭遇したのは「国語」と半立体で示された大きな文字と、ジョセフ・コスースの《1つと3つのシャベル》(1965)だった。シャベルの実物と、シャベルの写真と、英語の辞書に掲載された「シャベル」の定義が並んでいる。いずれも作家が作成したものではない。シャベルの絵だったら「美術だ」とわかりやすいだろうか。いや、美術とは、ものそのものではなく、何かを表現したものでしかなかったのだろうか。芸術はイメージのみでなく、概念そのものをこそ扱うという作品だ。なぜこれが国語と位置付けられたのか。
コンセプチュアル・アートの金字塔から入って、本展は150点以上の作品が所狭しとひしめいている。映像作品も多く、すべてを余すことなく視聴しようとしたら休憩を挟みながら1日必要なほどだ。しかしながら、その多くが収蔵作品ということもあるからか、キャプションでの作品説明が行き届いているため、例えば、スーザン・ヒラ―による映像作品《ロスト・アンド・ファウンド》(2016)を30分見続けなくてはならない、と思う人はいないはずだ。
この作品は、さまざまな消失した、あるいは失われつつある言語を話す人々の話を収録し、その声とその波形を映像にしたものである。鑑賞体験の99%以上は結果的に英語を基点とした翻訳(日本語での字幕はきっと、英語からの翻訳だろう)で把握可能になるが、キャプションにあったとおり、それは帝国主義や植民地主義が押しつぶしてきた言語の歴史と表裏一体である。こうなってくると、背後にある、いまさっき見たコスースの英語の使用が透明な媒体に思えなくなってくる。だからこの二つは「国語」になくてはならなかったのだろう。
スーザン・ヒラ―の暗室を出てすぐにあるのは、米田知子の「見えるものと見えないもののあいだ」シリーズだ。例えば、フロイトの眼鏡のレンズを通してユングのテキストを見るという構図の写真であるのだが、活字にしても、それが誰にとってどう見えるのかという個人のありようが、無味乾燥な活字に意味を与える。
続くのはミヤギフトシの《オーシャン・ビュー・リゾート》(2013)。沖縄出身のある男はなぜアメリカに渡ったのか、だれをどう恋しく思っているのかを英語のモノローグで綴る。隣のイー・イランはボルネオ島のさまざまな織手と協働制作を行なっており、本展の《ダンシング・クイーン》(2019)は竹でできた巨大なタペストリーだ。そこにはABBAなど世界的な流行曲の歌詞が英語で織り込まれ、キャプションではABBAやレディ・ガガの音楽が「織手の生活へ寄り添ってきた」ものであることが示されていた(2021年のABBAのニューアルバムはマレーシアを含む世界40カ国と地域でiTunes1位を獲得した
)。イランの作品とミヤギの作品、それぞれにとって一定の意味をもつ英語という言語で受容してきた文化のあり方に、四方八方へと心が揺さぶられる。「国語」というより、コスースならイデア論を引いて「哲学」、ミヤギなら歴史を踏まえて「社会」なのではないかという疑問も確かにありつつ、「国語」とカテゴライズされることで作品が相互に反響し合っている。このように、作品が並ぶことで意味を引き出し合うキュレーションが本展の膨大な作品の並びにおいて、幾度となく現われていた。
すべてに触れることはできないが、収蔵品が多いこともあり、本展の作品の一端は森美術館のウェブサイト「コレクション」で詳細なキャプションと一緒に伺うことができる。アイ・ウェイウェイの《漢時代の壷を落とす》(1995)、ヴァンディー・ラッタナの写真作品「爆弾の池」シリーズなどなど、本展を見る機会が得られなかったという人にも、ぜひ見てほしい。
ただし、本展のなかで取り扱い上、ひとつ浮いていたと思われるのが、笹本晃の《パフォーマンス記録映像 ストレンジアトラクターズ》(2010)ではないだろうか。本作についてはいつか別稿で取り上げたいと思う。
本展は2000円で観覧可能でした。なお、土日祝は2200円だったそうです。
公式サイト:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/02/index.html
2023/07/01(土)(きりとりめでる)
原田裕規「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」
会期:2023/06/20~2023/07/09
日本ハワイ移民資料館[山口県]
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本からハワイへ渡り、多くがサトウキビ畑や製糖工場での過酷な労働に従事した移民。半ば忘却された彼らの生と記憶を、「声」としてどう可視化し、継承することが可能か。原田裕規の本個展で発表された映像作品「Shadowing」シリーズは、英語の音声を聞きながら復唱する学習法「シャドーイング」を戦略的に用いて、歴史や主体の多層性と重ね合わせながら、身体行為を通した記憶の継承について考えさせる、非常に秀逸な作品だった。
展示会場の日本ハワイ移民資料館は、かつて5,000人を超える島民がハワイへ渡った、山口県の周防大島にある。渡米後に成功した貿易商が建てた大正期の和洋折衷住宅に、当時の生活道具、農具、衣服、写真などの資料が展示されている。本展の主催は周防大島地人協会で、ハワイのカウアイ島との姉妹島縁組60周年を記念し、山口出身の原田に作品制作を依頼した。キュレーションは高知県立美術館主任学芸員の塚本麻莉。
映像作品「Shadowing」は4点で構成され、基本的に同じ構造をもつ。少年、女性、壮年期の男性らが一人ずつモニターに映り、子ども時代に寝る前に不思議な体験談を聞かせてくれた祖父の思い出、ハワイ風の鶏すき焼き「チキンヘッカ」の由来や個人的な記憶、移民が生み出した合理的な衣服「カッパダチ」の作り方などを英語で語る。だが、彼らの表情の動きはぎこちなく人工的だ。さらに非実体性を感じさせる演出が、2種類の「声」である。ハワイ在住の日系アメリカ人が読み上げる台本を、原田自身が「シャドーイング(復唱)」した音声が追いかけるように響く。映像の人物は、ハワイの日系アメリカ人をモデルに制作したCG画像であり、フェイストラッキング技術によって原田の口の動きと連動させて表情を動かしている。原田自身の「影」「分身」ともいえるアバターだ。台本は、朗読を担当した日系アメリカ人自身の思い出、周防大島出身の民俗学者・宮本常一のエッセイ、文献資料などを基に再構成されている。
一見シンプルな映像に、さらに複雑な奥行きを与えるのが、映像に付された「日英字幕」の仕掛けである。画面に登場する人物は「一人」だが、「祖父の語った体験談」が口調を真似て入れ子構造で語られたり、子ども時代に家族と食べた「チキンヘッカ」の思い出の語りが、「どうやって代用の食材で日本の鍋料理をつくったか」という考案者の語りにスライドし、語りの主体は「私/他者」「現在/過去」の境界を曖昧に揺らぎながら往還する。ここで、「祖父」「チキンヘッカの考案者」といった「他者」「過去」の語り手のパートには、「標準的な英語/日本語」ではない字幕が付けられていることに注意したい。音声を聞きながら字幕をよく見ると、例えば「the」は「da」、「that」は「dat」、「matter」は「matta」と表記され、日本語話者には難しい子音の発音が訛ったり脱落していることに気づく。これらは、移民の母語と英語が接触してできた混成語「ピジン英語」である(対応する日本語字幕は山陽地方の方言になっている)。
ここで、「シャドーイング」すなわち「声をなぞる」という行為は、本作を多重的な意味へと拡げていく。まず、「英語の発音を追いかけて反復する学習法」という第一義的な意味は、移民1世たちの英語習得過程そのものを示す。そして、祖父母の代になった彼らが話すピジン英語の訛りが、「子ども時代の記憶」として、3世さらには4世によって語られ直され、「現在語られる正しい英語の発音」のなかに残響のように響き続ける。それは、祖先や先人たちの影を追う「ピジン英語のシャドーイング」という形の記憶の継承だ。実際の日系人の声を通して、ひとつの語りのなかに複数の言語と世代が混じり合う。さらにその語りを、日本語訛りの英語で原田がシャドーイングする。それは、輪郭線が曖昧に重なり合った、聴きとりにくい声だ。だが、現在の日本社会で半ば忘れられて亡霊化した日系移民の記憶を現在に継承することは、こうした複数の声と主体が混じり合う語りによってこそ可能なのではないか。「単一の声」ではないこと。それは、「ハワイ移民の生と記憶」が、ひとつの明確な声に集約できない複雑さとともにあることの示唆でもある。
そして、「英語字幕をわざわざ併記する」仕掛けにより、映像を見る私もまた、「注意深く英語音声を聞く」ことを余儀なくされ、「頭の中でのシャドーイング」を始めている。あなたの声もここに重ねてほしい、という要請。もしくは、あなたの声も重ねて良いのだ、という承認。「影としてのアバター」は、移民1世、その子孫たち、原田と無数の他者を受け入れながら「記憶の継承の器」となり、その末端には鑑賞者自身も連なっていくのだ。
「他者の声をなぞることで記憶を継承する」試みは、例えば山城知佳子の映像作品《あなたの声は私の喉を通った》(2009)と共通する。サイパン戦の生存者の老人の証言を、山城がなぞり直すこの作品では、あくまで「老人と山城」という「一対一の関係」に閉じられていた。一方、原田作品では、アバターすなわち実体のない亡霊的存在が、「声の分有を通した記憶の継承」のための装置として効果的に機能する。
「影」はまた、自分自身の身体から切り離せない存在でもある。自分がどこへ行こうとも、身体の後ろにくっついてくる「影」。それは、移民自身が属していた文化、言語、共同体、記憶といったアイデンティティを形づくるもののメタファーでもある。故郷の生活様式を保ちつつ現地の風土に合わせて変容していく「料理」や「衣服」についての語りはその一例を示す。
そして、語りと展示空間の相関性も本展の大きなポイントである。料理の語りはハワイで使用された調理道具やストーブが展示された台所で、衣服の語りはハワイから持ち帰った洋服やトランクが展示された衣裳部屋のような部屋で展開される。生活道具で満ちた空間が、「もう一つの声」として立ち上がる(語りと空間の相関性が立ち上げる磁場は、例えば、出撃前の特攻隊員が泊まった元料理旅館を舞台に、隊員たちの遺書、戦争イデオロギーを思想的に支えた京都学派、文化人が担ったプロパガンダについての重層的な語りが展開するホー・ツーニェンの映像作品《旅館アポリア》[2019]とも共通する)。
日本ハワイ移民資料館は、モノや文字資料は溢れているが、(シアターコーナーの映像の一部をのぞき)日系移民自身の語る声の展示はない。そうした「肉声の不在」を補完する役割ももつ本展は、「原田裕規というアーティストの個展」ではあるが、常設化がふさわしいと思われる意義をもっていた。
原田はこれまで、収集した膨大なアマチュア写真を素材に、写真それ自体には写らない無数の亡霊的存在──撮影者、現像業者、写真に眼差しを注いだ者、「ファウンドフォト」として作品化するアーティスト、それを展示するキュレーターなど──を示唆するシリーズ「心霊写真」を展開してきた。本展では、「匿名的な無数の亡霊的他者」が「ハワイ移民」としてひとつの焦点を結んだといえる。
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あいちトリエンナーレ2019 情の時代|ホー・ツーニェン《旅館アポリア》 豊田市エリア(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年09月15日号)
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2023/06/25(日)(高嶋慈)
許家維+張碩尹+鄭先喻「浪のしたにも都のさぶらふぞ」(後編・第二部その2)
会期:2023/06/03~2023/09/03
山口情報芸術センター[YCAM][山口県]
(中編から)
後編では、本展第二部の《浪のしたにも都のさぶらふぞ》について、モーションキャプチャやVRのもつ批評的意図の観点から百瀬文やホー・ツーニェンの近作と比較し、さらに多角的に掘り下げる。
3DCGの映像制作において、身体運動をトラッキングするモーションキャプチャセンサーを付けたアクターの身体は、通常は表に出ず、透明化されている。「アクターの身体をあえて見せる」演出によって、そこにどのような力学が作動しているのかをメタ的に可視化する姿勢は、例えば百瀬文の2チャンネルの映像作品《Jokanaan》(2019)とも共通する。左画面に映るモーションキャプチャスーツを付けた男性パフォーマーの動きが、右画面に映るサロメの3DCGアニメーションを生み出すことで、「ファム・ファタル」という性的幻想が男性の身体によってまさに再生産される構造を批評的に暴き出し、最終的に「視線と欲望の主客」の逆転を企てる(詳しくは、『百瀬文 口を寄せる Momose Aya: Interpreter』[美術出版社、2023]所収の拙論を参照)。
一方、本作では、アバターの生成が、人形遣いの操る人形から生身の女性パフォーマーに取って代わられる。その交代劇が「鬼女への変貌」と同期することは、中編で見たように、「人形」としてモノ化され、操られることに対する「怒り」を表明した逆転劇ともとれる(さらにここには、「文楽」のジェンダー構造に対する批評も読み取ることができる。兵庫県の淡路人形浄瑠璃、徳島県の阿波人形浄瑠璃など地方の郷土芸能では、太夫、三味線、人形遣いに女性の演じ手がおり、本作の太夫と三味線奏者も女性だが、文楽協会に所属する技芸員による「文楽」はすべて男性で演じられる。国立文楽劇場が次世代の人材を育成する文楽研修生の応募資格も、いまだに「男性限定」である)。
だが、白い衣装をまとった全身にモーションキャプチャセンサーを付けたパフォーマーの姿は、前半で人形遣いが操っていた「人形」のそれと酷似することに注意したい。自らが操る仮想世界を体験するためのVRゴーグルは、「目隠し」にも見える。果たしてパフォーマーは、アバターを操っている(だけ)なのだろうか? 見えない人形遣いに自分自身も操られているのだろうか? 終盤、もがき苦しみながら取り外すモーションキャプチャセンサーは、支配と束縛の装置でもある。束縛から自らを解放し、「VRへの没入」から脱出したパフォーマー。「現実」への生還を物質的に支えるのが、救命装置=筏としての畳の床だ。一歩前に出て畳のフチに立ったパフォーマーは、だが、まだ「舞台」という限定された空間の中に捕らわれてもいる。
パフォーマーが後ろを振り返ると、海上を漂う畳の映像がスクリーンに映り、極めて多義的な示唆を与える。その畳は、水中/VRに投げ出された者を救う救命装置=筏を暗示する。同時にそれは、蕪島の洞窟の中で太夫と三味線奏者が座っていた畳の舞台ともつながり、「救済」から「破壊」へと意味を反転させる。戦争末期、蕪島の洞窟には特攻艇が格納され、周防灘に進攻してきた敵艦への特攻を任務とし、ベニヤ造りのボートにエンジンと爆雷を搭載していたという。そして、この救命艇/特攻艇である畳は、アバターを操る/操られる、見る/見られるという構造や境界線が曖昧になった「舞台」であり、さらに私たち観客が靴を脱いで座っている「畳敷きの客席」でもある。「舞台」を見ていた私たちもまた、現実と仮想空間、人形/人形遣いの境目がつかず、無限に広がるようで限定された空間の中に無意識のうちに閉じ込められていたのだ。畳に座る私たちは救助された生還者なのだろうか。それとも、「海上を漂う無人の畳/特攻艇」に、見えない特攻隊員の代わりに乗り込んでいるのだろうか。
このように、「日本の植民地支配の歴史をVRを通して問う」批評性や、「何が時代を駆動させるエンジンなのか」という根本的な問いは、2021年に同じくYCAMでの個展で発表されたホー・ツーニェンの近作《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》とも共通する。映像とVR体験で構成されるこの作品では、戦争の動力源としてのイデオロギーと思想が俎上に乗せられる。VRのひとつでは、真珠湾攻撃の約2週間前に行なわれた、京都学派の思想家4名による座談会が擬似体験できる。ヘーゲルの歴史哲学を批判的に乗り越え、没落したヨーロッパに代わって日本が歴史の推進力を担うべきと説き、戦争の道義的目的を理論的に正当化しようとする議論。だがその議論を聴くためには、「VR内で鉛筆を持つ手」を動かし続け、「座談会の速記者」の身体に憑依しなければならない。手の動きを止めると、速記者の大家益造が自らの中国戦線体験を詠んだ歌集から、戦場の凄惨さ、反戦、京都学派への辛辣な批判を詠んだ短歌が聴こえてくる。別のVRでは、学徒動員が迫った戦局悪化の状況下、「国家のために死ぬことで個人が神となる」という論理を若い学生たちに語った田辺元の講演を読み上げる声が響くなか、観客は「海上を飛ぶ戦闘ロボット」に乗り込むが、やがてその機体はバラバラに崩壊していく。「VR世界への没入=身体の一時的消滅」のリテラルな実践が、「英霊」になる擬似体験と戦慄的に重なり合う。この戦闘ロボはガンダムの量産型ザクを思わせるビジュアルだ。またホーは、続編といえる「百鬼夜行」展(豊田市美術館、2021-2022)では、さまざまな妖怪を、プロパガンダ装置、監視網、石油資源を目的とした侵略、歴史の健忘症などに読み替え、アニメーションで表現した。
かつて日本が侵略したシンガポールと植民地化した台湾という、現在の日本の「外部」から、VRというテクノロジーを介して歴史を再批評すること。本展の作家の一人である許家維とホーは、アジア・アート・ビエンナーレ2019(台中)の共同キュレーションを務めている。戦闘ロボット、アニメーション、妖怪、人形浄瑠璃といった「日本のアイコニックな文化や伝統芸能」を巧みに織り込みながら批評する姿勢も共通項といえる。時代を駆動させるエンジンとしての思想、砂糖、そしてVRのソースコード。ゲームやエンタテインメントの印象が強いVRだが、兵士やパイロットの戦場シミュレーション訓練など軍事利用目的で開発された歴史ももち、この観点からも許とホーの関心が重なる。そして許たちの本展は、「台湾」からの視点と「日本」からの視点の片方だけでは不十分であり、歴史を複眼的に見ることの重要性を改めて示してくれる。
なお、製糖業が近代化と植民地主義、移民労働と不可分であることを、「かつてハワイのサトウキビ畑に移民労働者を送り出した側」の視点から扱うのが、同時期に山口県の周防大島の日本ハワイ移民資料館で開催された原田裕規の個展である。「アバター」を用いる批評的意図の違いも興味深く、同評をあわせて参照されたい。
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2023/06/24(土)(高嶋慈)
許家維+張碩尹+鄭先喻「浪のしたにも都のさぶらふぞ」(中編・第二部その1)
会期:2023/06/03~2023/09/03
山口情報芸術センター[YCAM][山口県]
(前編から)
中編・後編では、本展の第二部《浪のしたにも都のさぶらふぞ》を取り上げる。YCAMの開館20周年記念事業として、同館とのコラボレーションによって制作され、映像とライブパフォーマンスを組み合わせた上演型インスタレーションである。中編で本作の概略を記述したのち、後編ではより多角的に掘り下げる。「日本の植民地支配の歴史をVRを通して批評的に問う」という姿勢について、特に戦闘ロボ、アニメや妖怪、人形浄瑠璃といった「日本の文化」を巧みに織り込む戦略や、「何が時代を駆動させるエンジンなのか」といった根本的な問いにおいて、共通するホー・ツーニェンの近作群とも比較する。また、映像の終盤に登場し、パフォーマーのいる舞台/客席を批評的につなぐ「畳の床」という、半ば不可視のもう一層のレイヤーのもつ意味についても考察する。
前編でふれたように、第二部の舞台は、砂糖を運ぶ航路で台湾と結ばれ、製糖業や国際貿易港として栄えた北九州の門司である。《浪のしたにも都のさぶらふぞ》という作品タイトルは平家物語の一節に由来し、第一部での「布袋戯」と対応するように、伝統芸能の人形浄瑠璃(文楽)が登場する。なぜ平家物語なのか。日本海と瀬戸内海を結び、交通や軍事の要所であった関門海峡には、門司の対岸に、平家一門が滅んだ壇ノ浦がある。平清盛の妻・二位尼が幼い安徳天皇を抱いて入水した際の台詞が「浪の下にも都がございますよ」だ。「平家でなければ人ではない」と言われたほどかつて栄華を誇った平家の盛衰と、製糖業をはじめ一連の製造業でかつて栄えた門司が重ねられる。作中では「繁盛繁盛 門司門司 日本第一 門司門司」という門司の繁栄を歌った唄が象徴的に流れる。
人形浄瑠璃は、物語を語る
後半では、これらの映像を映していたスクリーンが「幕があがる」ように上昇し、「畳敷きの舞台」が出現。VRゴーグルを付けたパフォーマーが登場し、その背後には、「屏風」に見立てるように縦長の3面スクリーンが配置される。パフォーマーの動きは、3DCGのアバターをなぞるように、「人形」のようなギクシャクとしたぎこちない動作だ。一転して、芸者の人形のアバターが牙を剥き、角が生えて鬼に変貌すると、パフォーマーとアバターの動きが同期し始める(映像では人形遣いの姿が消える)。あえてジェンダーの視点から深読みすると、「人形」としてモノ化され、一方的に操られ、視線の対象にされてきた「怒り」が、「
だが、太夫が「盛者必衰のことわり」を語り、迫り来る危機と「底なし沼に落ちていく」という語りが展開すると、人形のアバターがいる仮想世界も水中に沈んでいく。パフォーマーはさらにハンドコントローラーを両手に持ってアバターを操り、仮想の水中世界を漂う。その映像は、パフォーマーがVRゴーグルで見ている世界だろうか。だが、アバターを自在に操り、VRの世界を見ているパフォーマー自身、観客に「見られる」対象であり、視線の入れ子構造が示される。
クライマックス、太夫の語りは二位尼の入水のシーンにさしかかる。「海に飲み込まれ、沈んでいく」という語りは、「現実と仮想空間の境界がなくなり、仮想空間に飲み込まれる没入状態」とオーバーラップする。だが、仮想空間はバラバラに崩壊。映像の前半、3DCGで再現されていた工場や船、料亭の残骸とおぼしき破片が水中に沈んでいく。海に沈んだ平家の船と、米軍の爆撃を受けた門司の街が重なり合う。崩壊する世界から逃れようと、もがきだすパフォーマー。束縛を引きちぎるように、ハンドコントローラーを投げ捨て、全身に付けたモーションキャプチャセンサーを一つずつ取り外すと、畳の上に落ちた部品が3DCGの破片とさらに重なって見える。最後にVRゴーグルを外すと、恐るべき崩壊のビジョンも真っ暗に消滅した。
第一部と同様、この第二部でも、「過去との物理的な接触」による音響が、「もう一つの声」として併走する。砂糖を溶かして固めたオレンジ色の円盤や、錆びついた砲弾が「楽器」として打楽器奏者によって打ち鳴らされる。ドラムのように激しく叩かれる砂糖の円盤は、「過去」の音を現在において響かせ、仮想世界と同様、ボロボロに壊れていく。
(後編に続く)
2023/06/24(土)(高嶋慈)