2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

シアターコクーンライブ配信『プレイタイム』

会期:2020/07/12

シアターコクーン[東京都]

コロナ禍で約4ヶ月休館していた劇場、シアターコクーンの「再始動」プログラムとして企画された「ライブ配信のための演劇」。観客席も用意されているが、筆者は企画主旨のライブ配信を鑑賞した。照明・音響装置、オーケストラピットの昇降、裏方スタッフの労働など、劇場の物理的機構それ自体のオーガニックな運動を作品化する、梅田哲也の『インターンシップ』が原案。本企画では、演出家の杉原邦生を迎え、岸田國士の戯曲『恋愛恐怖病』(1926)を森山未來と黒木華が演じ、ダンサーの北尾亘(Baobab)やミュージシャンの角銅真実が加わった。


冒頭、懐中電灯の光が暗闇をまさぐり、無人の劇場バックヤードの機材が照らし出される。小さな星のような灯がポツポツと灯り、やがて眩いライトが強烈な光を投げかける。それは、休館の仮死状態の眠りから劇場を目覚めさせる、(疑似)太陽の光だ。低いモーター音のうねりとともに、歯車が回転し、規則正しく並んだロープが巻き上げられ、バトンに吊られた照明機材が上昇していく。それは、劇場の巨大な体内に張り巡らされた、血管、神経、内臓組織だ。カメラは、胎動の音とともに、巨大な体内のなかを迷路のように進んでいく。



[撮影:渡邉寿岳 写真提供:Bunkamura]


舞台袖の暗闇で、劇場の模型をライトで照らしながら眺めている男(森山未來)がいる。彼は台詞を発しながら、狭い通路や階段をライトで照らして探検のように進み、彼の台詞を引き取って続ける女の声に導かれるように、舞台の上へ姿を現わす。そこは、裏方スタッフが打楽器や木琴を運び込み、台本を持った女(黒木華)が歩き回っている、「準備中」の運動に満ちた空間だ。「南京豆が食いたくなった」「燈台に灯がつくまで、ここにいましょうね」「今日はなんだか重大な日だ。胸騒ぎがします」。台詞をリフレインさせ、台本の「読み合わせ」をする二人の周りを、モップ掛けするスタッフが行き交う。上昇と下降を繰り返す吊り照明から身をかわす男の動きはダンス的なムーブメントに接近し、一方その傍らでは、裏方スタッフの恰好をした別の男(北尾亘)がスポットライトのテストの下で回転している。無機的な機械音のノイズ、スタッフの業務連絡、マイクチェックなどの作業音が楽器のチューニングやハミングと交じり合い、ハーモニックに調和していく。ゆっくりと旋回するカメラは、薄暗い客席通路の階段を降りて座席につく観客の姿を映し出す。その反対側の、半透明の幕で遮られた舞台上では、「海面」を演出する青いシートがふわりと掛けられ、生き物のように呼吸する。チューニングの延長のような優しい音響が包み、夜明けを告げる鐘のような音が響き、深い霧笛を思わせる音が舞台上に「海」を目覚めさせる。「開演」、そして衣装を着替えた男と女は、海を見下ろす桟橋のような空中のブリッジに立ち、互いの恋愛観と結婚観を語るなかに恋の駆け引きとプライドが入り混じる会話劇が始まる。煮え切らない男を残して女は立ち去り、傷心の彼は、自己の分身のようなもう一人の男にモノローグを吐露し、シンクロしたダンスムーブメントを展開する。



[撮影:渡邉寿岳 写真提供:Bunkamura]



[撮影:渡邉寿岳 写真提供:Bunkamura]



[撮影:渡邉寿岳 写真提供:Bunkamura]


「演劇」が息づき始める空間を、映像ならではのカメラの運動性を活かして見る者を惹き込み、俳優・ダンサーを脱中心化し、光と影、さまざまな人や機材が交通する活性化された空間として捉え、フィクションの立ち上げをワンカットの「ドキュメンタリー」として撮る。ここで本作の賭け金は、梅田哲也の『インターンシップ』を原案として発展的に拡張させたことにある。劇場の物理的機構の運動や裏方スタッフの作業そのものを作品の素材として用いる『インターンシップ』のサイトスペシフィック性は、「どの劇場で上演しても『コンテンツ』は同じ」という同一性の担保を批評的に解体し、(国内ではKAATに次ぐ)新たな劇場での上演には意義がある。それは、「コロナ禍後の再始動」という面では成功した一方で、「上演批判・劇場批判という作品の本質的要素を、ドラマの充填によって上書きし、損ねてしまう」という両義的な結果となった。また後述するが、秀逸なカメラワーク(渡邉寿岳)は本作の特筆すべき点である一方、「オンライン配信」と「劇場での観劇」の両立は可能かという新たな課題を突き付けた。


私見では、『インターンシップ』のコアは、「舞台上に見るべきものは何もない」という表象批判・劇場批判をリテラルに遂行しつつ、劇場の物理的機構そのものを用いて圧倒的な感覚的体験の強度をつくり出した点にある。通常は不可視の劇場機構や裏方スタッフの作業という「日常」を見せたあと、俳優やダンサーが一切登場しない空っぽの舞台を、即興的なチューニングから不協和と美しさの併存した音響世界が満たし、光と影の交替劇が、夜と死を潜り抜けて再び朝と復活を迎える、壮大で抽象的なドラマなきドラマの非日常性を体感させる。だが本作では、中盤=「開演」以降、「『恋人』と『友達』の境界線をめぐる、男女の駆け引き」「女に翻弄される男」「恋に破れた男のナルシスティックな苦悩」というドラマの充填に取って替わられ、照明や音響の有機的な運動性は劇伴的に退行してしまった。また、岸田國士の戯曲の採用も、「生誕130周年」という祝祭性しかなく、戦前に書かれた戯曲と現代との時代差―「自由恋愛」の登場した大正期/既存の結婚観の残存とのジレンマや、潜在的なホモソーシャルな欲望は掘り下げられず、ファンタジックな演出のなかに曖昧に溶かされてしまう。



[撮影:渡邉寿岳 写真提供:Bunkamura]


また、「定点」も「全体を見渡せる一望」も放棄し、巨大な器官としての劇場空間に潜り込み、洞窟か迷路のような内部を探査し、生きもののように蠢く劇場を捉えるカメラの運動感や流動性は、『インターンシップ』における(ドラマという)中心の欠如と、舞台上を自由に歩き回りながら体感する観客の運動性や移動の自由さとリンクする。その一方で、時折カメラに映り込む「劇場で本作を鑑賞する観客」は、客席に身体を固定され、古典的なプロセニアム舞台との対面を余儀なくされており、身体性の縮減は『インターンシップ』(の発展的展開)の鑑賞体験としては不十分さが残る。感染症が完全に収束するまでは、本作のように、オンライン配信と劇場での上演の並行が(実験性としても収益の面からも)摸索されていくだろう。本作は、「オンラインのライブ配信」の試みとしては成功していたものの、「実際の劇場での鑑賞体験」とのバランスをどう取るか、という困難な課題を改めて浮き彫りにしていた。

なお本作は、7月31日~9月2日の期間、オンデマンド配信が予定されている。


公式サイト:https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/20_playtime/

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TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年03月15日号)

2020/07/12(日)(高嶋慈)

Disclosure トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして

「映画やテレビドラマなど映像メディアの1世紀にわたる歴史において、トランスジェンダーがいかに表象されてきたか」を批判的に検証するドキュメンタリー映画。2020年1月にサンダンス映画祭でのプレミア上映で高く評価され、6月19日よりNetflixでグローバル配信されている。ハリウッド映画を中心に、初期のモノクロサイレントフィルムから2010年代まで、膨大な映画やテレビ番組が引用され、トランスジェンダーの俳優、ライター、歴史家、プロデューサー、映画監督らが問題点を指摘し、出演作や個人的な経験について語る。本作を貫くのは、「なぜ、トランスジェンダーの役を非トランスの俳優が演じることが問題なのか?」という問いに対する多面的な回答の提示であり、横軸として人種差別問題も根深く絡んでいることが提起される(なお、歴史的背景として、アメリカでは異性装や同性愛が長く違法とされ、トランスジェンダーという言葉の普及は1990年代である)。

特に本作で中心的位置を占めるのが、黒人トランス女性の表象だ。「女装の黒人コメディアン」が繰り返しスクリーンに登場し、笑いのネタになり続けてきたのはなぜか。あるいは、性転換が起きる『フロリダ・エンチャントメント』(1914)で、「白人」女性は模範的な「紳士」になるのに対し、「黒人」男性は「粗暴なメイド」に変貌してしまうのはなぜか。そこには、「黒人男性=白人女性を脅かす危険な存在」というステレオタイプの前提があり、「女装=去勢」によって脅威を笑いの対象に転化しようとする構造があることが指摘される。また、「戯画化された女装者」は、女性蔑視のメッセージも暗に含む。

一方、「嘲笑」による無害化とは真逆のベクトルとして、「恐怖の対象」としての描写の系譜がある。例えば、『サイコ』(1960)などヒッチコックのサスペンスに登場する、「異性装の変質的な殺人者」や、『羊たちの沈黙』(1991)で殺害した女性の皮を剥いで身につけ、女性になろうとするシリアルキラー。また、「嘲笑」「恐怖」に加えて頻出するのが、「嫌悪すべき対象」として描かれる偏向である。「魅惑的な女性」の身体にペニスがあることを知って驚愕する男たちの、嘔吐シーンの数々。「暴露」は「裏切られた」と怒る男性の暴力を正当化し、スクリーン上でトランス女性たちは繰り返し殺害される。「生き延びるために性別移行したのに、『死』ばかり描かれる」とトランス女優が語る声は切実だ。

また、描写の職業的偏向も指摘される。黒人トランス女性の職業で最も多く描かれるのは、セックスワーカーだ。ただその根底にある、雇用差別と人種差別について説明されないことが真の問題なのである。


こうしたトランスジェンダーの偏った描写がステレオタイプと差別を再生産してきたこと、特に人種差別と結びついたときにより強力に作用してきた一方、史実や実話の映画化において、有色人種の「排除」「消去」「不可視化」が同時に行なわれてきたことが指摘される。例えば、1969年にニューヨークのゲイバーで起こり、セクシュアル・マイノリティの権利獲得運動の大きな契機となった「ストーンウォールの反乱」を描いた『ストーンウォール』(2015)では、有色人種のトランスジェンダーやドラァグクイーンが白人男性俳優によって演じられ、白人の歴史化(ホワイトウォッシング)であると批判される。また、主人公のトランス男性が殺害される『ボーイズ・ドント・クライ』(1999)では、彼の友人で一緒に殺された黒人男性が登場せず、「消去」されている。トランスフォビアと人種差別の強固な結びつきを「隠蔽」しようとする作用の暗示的な例として解釈可能だ。

こうした他者による一方的な表象と記号化は、非トランスのシスジェンダーとトランスジェンダーの双方に対して弊害しかもたらさない。前者に対しては、メディアが歪曲されたステレオタイプを再生産し、嘲笑、恐怖、嫌悪の対象として偏見や暴力を正当化する。一方、当事者にとっては、共感・尊敬すべき人物として肯定的に描かれないことで、深く傷つき、「私の物語」として受容できず、攻撃される恐怖と自己嫌悪に苦しむことになる。


ここで傾聴すべきは、「過去から学び、もっとトランスジェンダーについて描き、情報源を増やすことが重要」「個人として尊重して描くことで、人間性を理解し支えてくれる人が増える」という意見である。本作の後半では、2010年代以降、トランスジェンダーであることを公表した俳優たちが、トランス役として出演した作品が紹介される(黒人トランス女優ラヴァーン・コックスが美容師役を演じたドラマ『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』[2013]、80年代のアフリカ系・ラテン系のLGBTQコミュニティのカルチャーを描く『POSE』[2018]など)。

従って、原題の「Disclosure」に込められた複数の意味に留意すべきだろう。それは、トランスジェンダーがスクリーン上で繰り返し「本当は男/女だ」と「暴露」される痛み、映画がその暴力の再生産に加担してきた歴史の「暴露」、そしてトランスジェンダー俳優たちのメディアへの「公表」「自己開示」によるエンパワメントでもある。他者による一方的で偏向した表象を自らの手に取り戻し、自分たち自身の生と性の肯定を通して、「いない」ことにされてきたスクリーンの向こうの当事者たちにエンパワメントを与えること。


ただ、課題も残されている。一部のセレブリティが「代表」と見なされることや、同じトランスジェンダーというカテゴリーであっても、トランス女性とトランス男性における可視化の偏向だ。トランス女性(とりわけ華やかなスター)は可視化されやすいが、ゲイと思われることを恐れる男性からの暴力や、(トランスを含む)女性の身体の商品化につながる可能性が指摘される(日本での顕著な例は、「女性専用空間」からのトランス女性の排斥がある)。一方、「より目立たない」トランス男性のメディアへの登場は少なく、「いない」ことにされてしまう。また、性自認を男女のどちらにも規定しない「ノンバイナリー」は、「登場」し始めたばかりだ。


最後に、本作を見ることで、「逆に、トランスジェンダーの俳優は、トランスジェンダーの役しかできないことになるのでは」という疑問に対しては、原理主義的主張ではなく、これまで奪われてきた機会の回復がまずなされるべきだと答えることができる。「居場所がないと、存在できない」からだ。その上で本作は最後に、「表現自体が目標ではなく、社会全体を変革する手段にすぎない」と締めくくる。

本作の問題提起の射程は、エスニックマイノリティや障害者など、さまざまなマイノリティの表象の問題とも通底する。そこで重要なのは、本作が示すように、単一の側面だけを見ていては、差別構造の本質を見逃すということだ。人種差別、性差別、ホモフォビアなど、問題の根は複雑に絡まり合っているのであり、「繰り返し語られる物語表象」において何が歪曲され、その背後で何が排除・隠蔽されているのかを問い続けること。同時に、本作で語られるように、「自分の特権を認識する」態度である。

2020/07/11(土)(高嶋慈)

カセットテープ・ダイアリーズ

主人公の幼少時代を振り返る冒頭のシーンで、いきなりルービックキューブとメン・アット・ワークの固有名詞が語られるように、1980年代のカルチャーにあふれた映画である。もっとも、カセットテープやウォークマンなど、懐かしいアイテムを振り返るだけの作品ではなく、社会と文化の関係にも切り込み、想像以上に素晴らしかった。

イギリスに急増するパキスタン移民の長男ジャベドは、強権的な父や差別の圧迫を受けていたが、ブルース・スプリングスティーンの音楽と出会うことで覚醒し、文章の表現にめざめるという物語だ(これは実話をもとにしており、のちに彼はジャーナリストになる)。嵐の夜、絶望の淵で彼が、初めて「ダンシング・イン・ザ・ダーク」を聴いて、その歌詞に衝撃を受けるシーンは印象的である。クィーンのフレディ・マーキュリーも、「パキ」と罵られたらしいが(実際の彼はパキスタン系ではないが)、主人公の境遇は、アメリカの労働者の状況を題材とするブルースの歌詞とシンクロしたからである。それは本来の状況と違う文脈に置かれても、強い意味や新しい解釈を獲得する言葉の普遍性ゆえだろう。

個人的に映画を観ながら思ったのは、ジャベドの姿は昔の僕であるということだった。もちろん筆者はほぼ同年齢で、1980年代を過ごしたことで親近性も感じたが、決して彼のような厳しい環境ではなかった。だから、歌詞への共感という意味ではない。では、なぜそう思ったのか。音楽との出会いから、文章で表現することに向かった経緯が、彼と同じだったからである。筆者の場合は、もっとハード・ロック寄りだったが、アルバムのライナーノーツや音楽雑誌を読み漁り、そこからバンドの系統図や影響関係などに興味をもち、建築を学ぶ前に、作品を言語化したり、歴史的に位置づけることをおのずと学んでいった。現在は、建築やアートに関する文章を執筆することがメインだが(『200CDロック人名事典』、『200CDザ・ロック・ギタリスト』、『文藝別冊 ピンク・フロイド』、『文藝別冊 アイアン・メイデン』など、音楽について書く仕事も稀にあるのだが)、間違いなく、自分の原点にロックがあったことを思い出させる映画だった。

公式サイト:http://cassette-diary.jp/

2020/07/10(金)(五十嵐太郎)

ある画家の数奇な運命

あらかじめ言ってしまうと、これは3時間を超す大作であるにもかかわらず、初っぱなから物語に引きずり込まれて時間を忘れ、終わってみればまだまだ先を見てみたいと思わせるような映画だった。これはタイトルにもあるように、脚色しているとはいえ、実在する有名画家の半生を描いた作品。いったいどんだけ凄まじい時代を生きてきたことか。しかもまだ前半生の、画家としてデビューするまでしか描かれていないのだ。もっとも続きをつくるとなると、画家として成功した後半生は芸術と経済の話になるから(それに離婚問題も)、別の映画になっちゃうけどね。その画家とは、ドイツのゲルハルト・リヒター。

リヒター(映画ではクルト・バーナート)は1932年ドレスデン生まれ。この時代と場所だけで、もう波乱に富んだ物語が予想される。最初は、ドレスデンに巡回してきた「退廃芸術展」を、クルトが若い叔母に連れられて見に行く場面から始まる。オットー・ディクスの失われた作品《傷痍軍人》も映されるが、精巧に描き直した模写だそうだ。「退廃芸術展」は見せしめとして開かれたものの、その思惑とは裏腹に前衛芸術を見る最後の機会として訪れる人も多く、叔母もその1人だった。クルトはこの感性豊かな叔母に感化されるが、次第に叔母の「自由」がエスカレートして奇矯な行動をとり始め、強制的に入院。精神病と判断された彼女は、ナチスの政策によってガス室に送られてしまう。

戦後、ドレスデンは東ドイツ領となり、クルトは美術学校に入学。そこでエリーと出会い、恋に落ちる。彼女の父ゼーバントは、叔母を死に追いやったナチス親衛隊の医師だったが、誰も知るよしもない。ゼーバントは2人の交際を認めず、妊娠した娘の子を堕してしまう。リヒターの義父がナチス親衛隊だったことは本当かもしれないが、あとはつくり話だろう。クルトはプロパガンダ用の看板描きや壁画制作に才能を発揮するものの、社会主義リアリズムに疑問を持ち、自由な表現を求めて妻とともに西側へ亡命。ベルリンの壁が築かれる直前だった。

クルトはデュッセルドルフの美術学校に再入学し、自由な表現に触れる。キャンバスに切れ目を入れたり、ひたすら釘を打ち付けたりする前衛作品は、かなり戯画的に描かれていて笑える。とりわけフェルト帽にフィッシングベストを着けた議論好きの教授には吹き出してしまった。この教授から「君の作品が見たい」と言われ、前衛表現を試みたものの「これは君じゃない。君は誰だ?」と問われ、悩み抜いた末、新聞に出ていた逮捕されたナチス残党の男の写真を模写。同じく西側に逃れていたゼーバントがたずねてきて、この絵を見て取り乱してしまう。男はナチス時代の元上司だったのだ。クルトは初個展を成功させ、かつて叔母がやっていたように、何台ものバスのクラクションを一身に浴びるシーンで終わる。

映画は以上のように、戦前のナチス時代、戦後の東ドイツ時代、亡命後の西ドイツ時代の3部に分かれるが、すべてに登場するのはクルトとゼーバントだけ。しかもクルトは少年時代とそのあとで役者が変わるが、ゼーバントのみ冷徹な表情のセバスチャン・コッホが通しで演じている。クルトの背後に黒い影のようにつきまとって離れないこの男こそ、リヒターの前半生を翻弄した時代そのものを象徴しているのだろう。影の主役と言うべきか。その影を祓ったのが、デビュー作のフォト・ペインティングだったというわけだ。というと重苦しそうな映画に思われるかもしれないが、退廃芸術や社会主義リアリズムや前衛芸術など、いまでは新鮮に感じられる美術ネタも多く、意外なことに濡れ場も随所に差し挟まれているので、いろんな意味で楽しめる映画になっている。


公式サイト:https://www.neverlookaway-movie.jp/

2020/06/30(火)(村田真)

天覧美術/ART with Emperor

会期:2020/06/02~2020/06/27

eitoeiko[東京都]

先週「桜を見る会」で再開したeitoeiko、今回は「天覧美術」だ。もうコワイものなしだな。天覧試合は天皇がご覧になる試合のことだが、「天覧美術」とは天皇を見る美術のことらしい。企画したのは「桜を見る会」にも出品したアーティストの岡本光博で、彼の運営する京都の画廊KUNST ARZTからの巡回。出品は木村了子、小泉明郎、鴫剛、藤井健仁、それに岡本の5人。ここで「おや?」っと思うのは、80年代に活躍したスーパーリアリズムの画家、鴫剛の名前が入っていること。どうやら岡本の大学時代の師匠らしい。作品も「桜を見る会」に出してもおかしくない《ピンクの国会議事堂》など、リアリズムそのままに風刺をきかせている。鴫が岡本に影響を与えたのか、岡本が鴫に刺激を与えたのか。

彫刻家の藤井健仁は、昭和天皇と麻原彰晃の顔面彫刻を鉄でつくっている。どちらも「鉄面皮」ということだろうか。実物より黒くて大きく、デスマスクのように不気味だ。それにしても「天覧」というとアキヒトでもナルヒトでもなく、ヒロヒトを思い浮かべるのはぼくらの世代だけだろうか。天覧試合といえばやっぱり長嶋だもんね。新日本画の木村了子は、アイドルとしての平成天皇の肖像を御真影のごとく壁の高い位置に掲げたほか、菊花と肛門様をダブらせたヤバい作品も出品。これは案内状にもなっている。

首謀者の岡本は何点も出品。アングルの《泉》の女性の胸に2枚の金杯を当てた《キンぱい》、信楽焼のタヌキのキンタマのかけらを集めてサッカーボール状に金継した《キンつぎ》は、天皇を象徴する金に下ネタを掛けた「不敬美術」。また、鳥かごの中に小鳥の彫刻を置いた「表現の自由の机」シリーズも2点あるが(1点は金色)、これは慰安婦問題を象徴する例の少女像の肩に止まった小鳥を3Dスキャンで型取りしたものだという。その型取りしている岡本の姿を捉えた写真も鳥かごの中に収められている。ここには天皇の戦争責任や「表現の不自由」など重い問題が見え隠れするが、なにより深刻ぶらずに笑えるのがステキだ。

関連レビュー

天覧美術/ART with Emperor|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年06月15日号)

2020/06/05(金)(村田真)

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