2024年02月15日号
次回3月1日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

Afternote 山口市 映画館の歴史

会期:2023/11/25~2024/03/17

山口情報芸術センター[YCAM][山口]

以前、YCAMを訪問したとき、実は山口市に映画館がなくなっており、2階のスタジオCにおいてシアター事業を行なうことで、同施設がその代わりを果たしていると聞いていたが、まさにこの展覧会はかつて市内に存在した映画館を調査した企画である。

まず導入部にあたる2階ギャラリーでは、映画館のマップ、1902年の小郡寿座の開館に始まり、2012年の山口スカラ座閉館までの大きな年表を掲げるほか、山口大学の映画サークルの資料を展示していた。そしてスタジオBでは、山口で撮影された最古とされる映像、映画のポスター、映画館の写真、看板の下絵を描くための幻灯機などが続く。それぞれの映画館の外観意匠は興味深く、建築史的な分析もあれば良かったと思う。



「Afternote 山口市 映画館の歴史」展 映画館のマップ



「Afternote 山口市 映画館の歴史」展 年表


大きなスクリーンに投影されたハイライトとなる志村信裕の映像「Afternote」は、約1時間の作品だったが、内容に引き込まれ、全編を鑑賞した。その後、改めて展示された資料を見直すと、理解度がぐっと上がる。藤井光による南相馬の映画館のドキュメンタリー「ASAHIZA」(2013)は、目を閉じている人たちを映し、人々が集う場として描いていたが、「Afternote」では、目を開けながら、夢を見ている空間としての映画館の記憶について、市民や関係者から語られていたことが印象深い。なお、YCAMの前原美織によれば、この展示は地域資料を掘り起こし、200名を超える関係者にインタビューしたものであり、貴重な記録となっている。ぜひ書籍化して欲しい。



南相馬の朝日座


YCAMから駅に向かう途中、映画館の跡地にあるCOFFEE BOY山口店の関連イベント「金竜館の記憶と記録 1922-1991」展に立ち寄り、金竜館ブレンドを飲む。新しい情報としての写真はそれほどなかったが、商店街に面したこの場所を確認したことに大きな意味があった。歴史的な名所であれば、立て看板のひとつでもあるだろうが、現地には何の痕跡もない。また映画館の跡地マップによれば、駅前近くの、この周辺では、あと4館も営業していたことがわかる。もちろん、こうした街の変化は山口市だけでなく、日本中で起きている状況だろう。



COFFEEBOY Beans & Cafe 山口店



「金竜館の記憶と記録 1922-1991」展 金竜館の写真アルバム


なお、YCAMでは、ホワイエにて「あそべる図書館─Speculative Library」も開催中だった。軽やかなミーティング・ドームにラジオ局、「有用芸術」のアーカイブ、声のライブラリーを付設し、その脇には街の情報を共有するマップも置く。



「あそべる図書館─Speculative Library」



Afternote 山口市 映画館の歴史:https://www.ycam.jp/events/2023/afternote/

あそべる図書館─Speculative Library

会期:2023年10月28日(土)~2024年2月25日(日)
会場:山口情報芸術センター[YCAM]
(山口県山口市中園町7-7)

2023/12/01(金)(五十嵐太郎)

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さいたま国際芸術祭2023 メイン会場

会期:2023/10/07~2023/12/10

旧市民会館おおみや[埼玉県]

「さいたま国際芸術祭2023」の見どころはミハイル・カリキスの作品だろう。埼玉の大宮光陵高等学校合唱団が芸術祭のメイン会場である「旧市民会館おおみや」(2022年に閉館)で『風の解釈』を歌う様子が収められた映像作品であり、その収録が行なわれたホールのスクリーンに投影されるものだった。通常「ひとつの歌」として体感される合唱が、ショットごとでそれぞれの歌い手の顔、息遣い、音の体現を微細に体感しながら、時に集として押し寄せる様子は、「旧市民会館おおみや」がいままでに豊かな文化の創造を担ってきた場所であること、個と集それぞれが把持する可能性のきらめきを何度も魅せつける。近所に住んでいたらフリーパスで何度か見に行きたくなるような作品だった。


ミハイル・カリキス《ラスト・コンサート》(2023)さいたま国際芸術祭2023[撮影:表恒匡]


「見どころ」と言ったのは、もっともメイン会場のなかで作品へのアクセスがわかりやすい構成になっていたからだ。メイン会場の入口にはカリキスの作品の所在を示す看板が点々としており、もっとも「見つけやすい」作品だった。それに対して、メイン会場のほとんどの作品の所在や部屋そのものへのアクセスは、非常にわかりづらい。会場の入口で受け取ったマップを見ても、どこがどこにつながっているのか皆目見当がつかないというわけである。ただしそれは、マップそのものが読み取りづらい(作品の場所は大まかなエリアで示されるのみ)以上に、「旧市民会館おおみや」のファサードを大きく貫通するガラスと梁の大階段と、建物全体を縦横無尽に幾重にも分断するガラス壁の存在によるものだ。


メイン会場の様子。鑑賞者が右往左往するほどにこの黒枠のガラス壁が至るところを隔てている


この状態がすでにディレクターである目 [mé]のステイトメントにあった「見逃し」の祝福であり、「誰にも奪われない固有の体験」を生み出すものなのだろう。会場の壁にキャプションは存在しないのだが、これは「作品に没入してくれ」というメッセージというよりも、「どれが誰のものか撹拌する」という意思だ。会場地図を持ってうろうろしていると、親切に看視員が道を案内してくれる(2、3回ほどお世話になった)。

とはいえ、芸術祭や大規模企画展で「見逃し」はつねに生じてしまうものだ。批評家の藤田直哉がかつて「地域アート」に対して指摘した、見終わることの判断の困難さへ、逆説的な地方芸術祭が抱える「ハイライトありきの順路」の問題への応答だとしても、「見逃し」を積極的に演出することは、出展作家とプロデュース・ディレクション側がどの程度の共犯関係を取り持てているかによって、「見なくてもいい作品」「見落としてほしい作品」を演出として作品に押し着せている状態にあるのではということが頭をちらつく。

この問答を一緒に展覧会を見に行った吉田キョウと何度も反芻した。ポイントは作品をケアする立場にあるディレクターが言うことではないのではないか、ということになる。作品や作家を大事にするための「インタビューの文法」をいくつも模索してきた吉田らしい言葉だと思ったし、その吉田の言葉にわたしは強く肯首する。しかしこれは、例えばディレクション側だとしてもアーティストコレクティブである目 [mé]にしてみたら、つねに自分たちが晒されてきた局面をどう芸術祭自体で打ち返すかという立場でしかないのだろう。

新聞のテレビ欄のような芸術祭の催事日程表にびっしり書かれた名称は、半日の滞在ではこの芸術祭のほとんどを見逃していることを突きつけられる。そのほかにも、会場の片隅に散乱する雑巾、箒、マスキングテープにスタイロフォーム、解体資材……どこまでが何の作品の構成物なのかどうか判別を困難にし、あからさまな作為の氾濫は作品の見逃しを誘発する。

こういった施工資材や清掃用具を「作品と日常の境界を撹拌する」以上に何を生み出すだろうと吉田と話していたのだが、これを考えるためにわたしたちは「会場を巡回する演者としての清掃員」に焦点を絞ることにした。

煎じ詰めると、メインホールは散らかりすぎているのだ。清掃員のユニフォームを纏い掃除用具を携える者は徘徊するばかりで何もしていないことが明白であり、それは「曖昧さ」を生み出すどころか、フィクションとしての作為を強調するだけでしかないと吉田は指摘した。この「清掃員」にわたしは芸術祭を貫くナラティブがあってほしいと思って(なくても良い)、清掃できない清掃員は幽霊であるに違いないという憶測を始めた。もちろん、清掃員がいることに理由なんかなくても良い(念押し)★1。ただし、これらの役者たち、芸術祭の風景をつくる彼らは「スケーパー(SCAPER)」と呼ばれる。研修を受けたボランティアである「スケーパー」たちが、もしかしたら街の中にもいるとしたらどうか★2


スケーパーイメージ[撮影:目 [mé] ]


会場内のあからさまな嘘(散らかり、作為)は、会場の外に出た瞬間、判別不能になる。プレス用の資料にある「スケーパーイメージ」を参考とするに、誘導灯を持つ駐車場付近にいる人間が「スケーパー」である可能性があるというのだ。こうして「スケーパー」は虚実をないまぜにする。

世界のなかに「スケーパー」を眼差してしまう、そんなひとの在り方にうつくしさを感じることは理解できるが、情報汚染で混迷する世界のなかでそういった「フェイク」を演じる対象については、より一層の範疇の設定による造形の洗練が必要ではないか。それは例えば、「SCAPERを募集します!!」★3に書かれた「あるものからあるものへ視線を移し続ける」ことや 「道端で綺麗なグラデーションの順番に並ぶ落ち葉」と、「清掃員」や「誘導員」は並置すべきなのかということだ。

何らかの職務に従事している人を「(彼らもわたしと同じ)スケーパーかもしれない」と眼差すことは、日常のスペクタクル化ということ以上に、観賞対象として他者を楽しむ機会となる。もちろん、それぞれの日常的な職務を「わたしはスケーパーなのだ」と再帰的に演じることで人生を楽しみ直すことは可能かもしれない。また、そうやって街は生まれ変わるかもしれない。だがしかし、スケーパーに選定されていると思しき職業が、なぜ巡回する警察官ではあれないのか、訓練中の消防隊員ではないのか、ということから、スケーパーとは何者を他者としているのかとを考えつつ、わたしは清掃員はスケーパーではなく幽霊なのだという説の延命を模索してしまうのだった。


本芸術祭は「1DAYチケット」の2000円で観覧可能でした(フリーパスは5000円)。



★1──例えば、「スケーパー」と大岩雄典の個展「渦中のP」(十和田市現代美術館「space」にて2022年7月1日〜9月4日開催)におけるナラティブなしの徹底とその範疇の造形と影響状態を比較することは有用だろう(ただし、わたしは大岩個展の場合、無理矢理ナラティブを発生させることも可能になっていると考えている)。
★2──「SCAPERを募集します!!」(『さいたま国際芸術祭2023』)
https://artsaitama.jp/scaper/
以下引用。「SCAPERの共通ルール/(1)『虚』の存在であってはならない。つまり、誰にも全く気づかれない存在であってはならない。/(2)『実』の存在であってはならない。つまり、何らかのパフォーマンスや人為的な行為であることが判明してはならない」。まったく検討できなかったが、スケーパーをサンティアゴ・シエラが展覧会のエリアに低賃金で「靴磨き」や「露天商」を招致したことと比較することも重要だろう。サンティアゴ・シエラについては菅原伸也の『同一化と非同一化の交錯 サンティアゴ・シエラの作品をめぐって』(パンのパン、2023)を参照のこと。
★3──同上。



さいたま国際芸術祭2023:https://artsaitama.jp/


関連記事

表も裏もない展覧会 「さいたま国際芸術祭2023」と「Material, or 」|田中みゆき:キュレーターズノート(2023年12月01日号)

2023/11/18(日)(きりとりめでる)

CET23 OPEN START

会期:2023/10/23~2023/11/05

東日本橋・馬喰町エリア各所[東京都]

そういえば東京ビエンナーレは今日までだったな。会場があっちこっちに散らばっているから、どこか無料でたくさん見られるところはないかと調べたら、東日本橋・馬喰町エリアに集中していた。エトワール海渡リビング館という会場は有料だったのでパスし、それ以外の10カ所ほどを回ったのだが、後でよく見直したらエトワール海渡だけが東京ビエンナーレの企画で、それ以外はCET(セントラルイースト・トーキョー)によるイベントだった。CETは空洞化していたこのエリアを活性化するために20年ほど前から始めた「アート・デザイン・建築の複合イベント」で、2010年にいったん終了したが、東京ビエンナーレの開催を機に再起動させたという。つまりCETが東京ビエンナーレの企画に乗ったかたちらしい。まあ見る側にとってはどっちでもいいんだけど。

期待に違わぬ力作を見せてくれたのが宇治野宗輝だ。廃屋となった3階建ての一軒家を丸ごと使い、「建築物一棟をグルーヴボックスにするプロジェクト」を展開している。各階ごとに廃車や机や照明などを用いて、動いたり光ったり音が出たりするインスタレーションを構築し、それぞれを垂直に連動させているのだ。これは見ていて飽きない。その近くの古いビルの側壁にドローイングしたのは小川敦生。渦巻きや曲線に雪の結晶のような枝葉がついたパターンで、昔流行ったフラクタル図形を思わせる。工事用蓄光チョークを使っでいるので、夜見たほうがきれいかも。こういうグラフィティやストリートアートはもっとあってもいい。



宇治野宗輝《dormbeat》[筆者撮影]


その向かいのビルでは委細昌嗣と渦波大祐の《Silent City》(2020)を上映。人ひとりいない東京の繁華街を写した映像作品で、おそらくコロナ禍の早朝にでも撮影したのだろう、見事に人も車も写っていない。思い出したのは、台湾の袁廣鳴(ユェン・グァンミン)による《日常演習》(2017)という映像。だれもいない静まり返った台北の街をドローンで撮影したもので、CGかと思ったら、年にいちど行なわれる防空演習日の外出禁止時間に撮影したのだという。戦争やパンデミックにはこうした非現実的な無人の都市が出現するのだ。でも最近ではCGやAIでいくらでも人を消せるから、だれも驚かなくなるかもしれない。いま「人を消せる」と書いたけど、映像とはいえ簡単に人を消せるというのもどうなんだろ。ともあれ映像に限らず、これからの芸術表現にはAIに負けないリアリティが必要となるだろう。



小川敦生《測量標》[筆者撮影]


CET23 OPEN START:https://centraleasttokyo.com

2023/11/05(日)(村田真)

横山大介「言葉に触れる身体のためのエチュード」

会期:2023/09/24~2023/10/28

VISUAL ARTS GALLERY[大阪府]

マイノリティの当事者が、マイノリティとしての自らの身体的な経験を、それをもたないマジョリティと共有することは可能なのか。それがコミュニケーションを介した共同作業として行なわれるとき、「マイノリティ/マジョリティ」「教える/教えられる」といった関係性の反転や流動化こそが賭けられているのではないか。そのときアートは、社会的なエチュード(練習)として存在し始めるだろう。

吃音をもつ写真家の横山大介は、他者とのコミュニケーションの方法として、深い断絶を感じる会話よりも、カメラを通して視線を交換する行為の方がしっくりくるという感覚から、被写体と真正面から向き合って撮影したポートレートのシリーズ「ひとりでできない」を中心に発表してきた。本展では、音楽家らと協働し、自身の吃音を、「他者の身体への移植を経由して自らへ再移植する」行為を通して見つめ直した映像作品《言葉に触れる身体のためのエチュード》が発表された。



「言葉に触れる身体のためのエチュード」展示風景(2023)、VISUAL ARTS GALLERY


横山は、妻や友人との日常的な会話、ホテルのチェックイン時の会話などを録音し、そのなかから自身の吃音の特徴が出ているフレーズを抽出した。その音声データを、菊池有里子(音楽周辺者)に依頼し、「吃音スコア」として譜面化した。さらに、その譜面を中川裕貴(音楽家、チェロ奏者)に渡し、譜面を見ながら音声データを繰り返し聞いてもらい、スネアドラムでリズムを刻む「演奏」に置き換えてもらった。映像作品は、横山が「吃音スコアの演奏」を中川から教えてもらいながら「練習」する行為を記録したものだ。身体性が如実に現われる打楽器として、スネアドラムが選ばれた。また、菊池が手書きで書いた譜面を、さらに横山がトレースした「吃音スコア」も展示された。



「言葉に触れる身体のためのエチュード」展示風景(2023)、VISUAL ARTS GALLERY



シリーズ「言葉に触れる身体のためのエチュード」より(2023)HD Video[© Daisuke Yokoyama]


吃音とは、発話しようとしたときに思うように言葉が出ない障害であり、3つの症状がある。「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくは」のように最初の音を繰り返す「連発」、「ぼーーくは」のように最初の音が引き伸ばされる「伸発」、「……ぼくは」のように最初の音が出てこない「難発」の3つである。横山が抽出したのはごく短いフレーズだが、「連発」と「伸発」の両方が混在するような場合もある。例えば、《言葉に触れる身体のためのエチュード #001「かかからだやろ」》では、「か、か、かーらだやろ」という発音が、「タン、タン、スー、タタタタッ」という音の連なりとして聴こえる。「か、か、」の連発は強く短く叩き、「かー」と伸びる音はスネアドラムをブラシでこする奏法で表現され、最後の「らだやろ」は短く小刻みに叩かれる。短いフレーズだが、音の緩急や強弱をつけながら「演奏」するのは難しく、「ここは間髪入れずに」「もう一度」といったアドバイスやダメ出しを中川から受けながら、横山は何度も反復練習する。最初に中川が「お手本」の演奏を示すのだが、練習のなかで横山自身が「ここはちょっと違う」「この音の部分をもっと強く」といった修正を加える場合もある。「どちらが教えているのか」は曖昧に揺れ動き、横山と中川は互いに教え合ってズレを修正しながら「吃音のリズムの再現」に近づけていく。それは正解のない、近似値を手探りで探っていく共同作業だ。



シリーズ「言葉に触れる身体のためのエチュード」より(2023)HD Video[© Daisuke Yokoyama]


ここに本作の肝がある。例えば、映画『英国王のスピーチ』(2010)のように、「吃音を直す」矯正訓練として、「正しい発声」をもつ人が、もたない人に一方的に教える関係ではなく、「吃音のリズムを身体のなかにもっていない人」と、そのリズムを共有するためのレッスンなのだ。2ビートや4ビートのような型のあるわかりやすいリズムではなく、極めて複雑で変則的なリズムであるがゆえに、その「再現」は難しい。吃音の矯正訓練が、「他者の身体感覚に介入してエラーを書き換えようとする行為」であるとすれば、本作で起きているのは、むしろ、非当事者の中川の側において、「他者の身体のリズムが自身の身体に侵入し、書き換えられる」という事態だ。譜面化というかたちで「身体から切り離された声」は、演奏によって再現する行為を通して、その身体的なリズムをもたない人と共有するための手段となる。

そして、ワンフレーズを何度も反復する練習のプロセスを見ているうちに、観客である私もまた、傍らの譜面と見比べ・聴き比べながら、脳内でそのリズムをトレースし、イメトレ的に反復再生していることに気づく。本作に冠せられた「エチュード(練習)」は、何重もの意味をはらんでいる。それはまず、横山自身が、譜面化とドラム演奏への置換という二重の外部化の手続きを経て、自身の吃音を身体的に再インストールするための「練習」である。そこでの他者の介在は、「吃音のリズム」をもっていないマジョリティがどう身体化して共有できるか、という社会的なレッスンでもある。「ネガティブ」とされる特性について、腫れ物に触るようにではなく、当事者と非当事者がともにリラックスした状態で、どう身体的な経験として共有できるかというレッスン。

エチュードには「習作」の意味もあるが、本作での試みは、例えば観客も実際にドラムを叩く練習に参加するワークショップを開くなど、さらなる発展の可能性があるだろう。それは、アートの社会的な意義の拡張でもある。


関連レビュー

Kanzan Curatorial Exchange「写真の無限 」vol.1 横山大介「I hear you」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年06月15日号)

2023/10/28(土)(高嶋慈)

開館10周年記念展ニューホライズン 歴史から未来へ

会期:2023/10/14~2024/02/12

アーツ前橋+前橋市中心市街地[群馬県]

アーツ前橋の開館10周年記念展。振り返れば、作品紛失とか契約不履行とかいろいろ「歴史」があったけど、とりあえず置いといて「未来」の「新たな地平」へ踏み出そうってか(笑)。「ニューホライズン」の芸術監督はアーツ前橋の特別館長に就任した南條史生氏。特別館長ってなんだ? 南條氏は、共同ディレクターを務めた第1回横浜トリエンナーレでは「メガ・ウェイブ──新たな統合に向けて」を、森美術館の副館長時代には開館記念展に「ハピネス──アートにみる幸福の鍵」を、館長時代の10周年記念展では「LOVE展 アートにみる愛のかたち」を、それぞれ手がけてきた。カタカナ・横文字のタイトルに、明るく前向きなサブタイトルをつける傾向は変わっていない。

会場はアーツ前橋のほか、近所の白井屋ホテル、百貨店、空きビル、路上にも広がり、出品作家は計26組。展示作品は未来志向の割に映像やメディアアートは意外と少なく、絵画が多い。特に目立つのはブラッシュストロークを強調した作品で、井田幸昌、武田鉄平、山口歴がそれに当たり、ペインタリーな五木田智央と川内理香子も加えれば5人に上る。だがよく見ると、武田は筆触を精密に写したフォトリアリズム絵画、山口はボードを筆跡のかたちに切り抜いた一種のレリーフで、どちらもブラッシュストロークをモチーフにした「だまし絵」にすぎない。こうしたトリッキーなだまし絵は最初は目を引くものの、仕掛けがわかればすぐ飽きてしまう。

メディアアート系ではビル・ヴィオラとレフィーク・アナドールによる映像、ジェームズ・タレルとオラファー・エリアソンによる光を使ったインスタレーションなどがあるが、アナドール以外はこぢんまりしている。ちなみに、アナドールの映像は鮮やかな色彩の液体が色を変えながら流動していくもので、これを絵具の奔流と捉えればブラッシュストロークにも通じる。だまし絵も含めて視覚的にインパクトのある作品が多く、見て楽しめる展覧会になっている。

異彩を放つのが村田峰紀だ。交差点に面した1階のガラス張りのロビーに白い箱を置き、村田自身がすっぽり入って首だけ出しているのだ。ポータブルサウナにも見えるが、どっちかといえば晒し首。時折ヴィーンと機械音を発しながら振動する。自慰でもしてるのかと想像してしまうが、たぶん箱のなかで本を引っ掻いているんだろう。「ニューホライズン」というさわやかなタイトルに抗うような不穏なパフォーマンスだ。彼が前橋出身という来歴を抜きに選ばれたとしたら、出色の人選といわねばならない。



村田峰紀によるパフォーマンス風景[筆者撮影]


アーツ前橋以外の会場を回ろうと街を歩いてみて驚いた。中心街というのに更地は多いわ、シャッターは閉まっているわ、歩行者は少ないわ、まるでゴーストタウンのようにさびれまくっているではないか。そんな街だからこそアートで活気づけようと、白井屋ホテルやまえばしガレリアみたいなアートゾーンができたり、今回のように街なかにアートを置いたり、いろいろ試みているのだろう。アートの住処は整備された美術館や金持ちの豪邸だけでなく、さびれた廃墟にもフィットするからな。

白井屋ホテルは裏口が半ば土に覆われているのでびっくり。入っていくと柱と梁がむき出しの空間に出る。表玄関に回ると、ローレンス・ウィナーによる「FROM THE HEAVENS」などと書かれたコンセプチュアル・アートが壁面に掲げられていたりして、ウワサには聞いていたけどここまでやるかってくらい思い切ったリノベーションが施されていた。設計は藤本壮介。ここではロビーに蜷川実花の色鮮やかな花のインスタレーションが見られるが、蜷川作品については後述したい。

路上にもいくつか作品が置かれる予定だが、ぼくが見ることができたのは中央通りの商店の前に置かれた関口光太郎の《ジャイアント辻モン》。骨組みに新聞紙で肉づけしてガムテープで巻いた高さ5メートルはありそうな巨人像で、上半身にはオウムが止まっている。前橋出身の関口にとってこのエリアは思い出の場所であり、その思い出が辻神になった姿だという。その先の小さな百貨店といった風情のスズラン前橋店では、別棟の空きフロアでマームとジプシーによるインスタレーション《瞬く瞼のあいだに漂う》が見られる。マームとジプシーはやはり前橋出身の藤田貴大が脚本・演出を務める演劇集団で、近年は演劇と美術を架橋する活動も行なっている。ここでは空き店舗の空間を利用して、市内をフィールドワークして得られた映像や写真、テキスト、声などで前橋の記憶をインスタレーションしてみせた。

その先のHOWZEというバブリーなビルでは、WOW、川内理香子、蜷川実花ら5組が各フロアに作品を展示。水商売の店が入っていたせいかビル全体が妖しげだし、作家数も多いし、見応えがあった。WOWの《Viewpoints - Light Bulb》は、ランダムに明滅する裸電球と数十枚の鏡を巧みに配置し、ある1点に立つと光が1本の水平線に見えるというインスタレーションを実現。視覚的にインパクトがあるし、水平線(ホライズン)だし、この展覧会にピッタリかもしれない。川内理香子はアーツ前橋にも絵画を出しているが、ここではネオン作品を発表。コンクリートむき出しの壁や床に捻じ曲げたネオン管が赤く輝き、廃墟のような場所性と相まって妖しい雰囲気を増長している。



WOW《Viewpoints - Light Bulb》より[筆者撮影]


1フロアだけキャバレーの内装が残されているが、これを有効活用したのが蜷川実花だ。赤、青、紫の艶かしい照明の下を抜けると、広々としたフロアに水を貯めた水槽やモニターが置かれ、色とりどりの金魚を映し出している。酔客の代わりに金魚が踊っているのだ。奥には赤いカーテンのかかった小舞台があり、バブルの栄華が偲ばれる。これはいい。アーツ前橋の作品がどっちかといえば優等生的な表の顔だとしたら、ここにある作品はちょっと不良っぽい裏街の顔で、うまくバランスが取れているように思えた。



蜷川実花《Breathing of Lives》より[筆者撮影]


開館10周年記念展ニューホライズン 歴史から未来へ:https://www.artsmaebashi.jp/?p=18770


関連レビュー

群馬の美術館と建築をまわる|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2020年12月15日号)

2023/10/13(金)(内覧会)(村田真)

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