artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
アピチャッポン・ウィーラセタクン「光りの墓」
会期:2016/04/09~2016/05/06
テアトル梅田[大阪府]
タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの最新作。出身地であるタイ東北部イサーンを舞台に、寓話めいた物語が緩やかに進行し、政治批判の暗喩と、光と風にあふれた穏やかな詩情が共存する。
廃校になった学校を改装した病院に、原因不明の「眠り病」にかかった兵士たちが収容されている。事故で足に障害を抱え、松葉杖をついた中年女性のジェンが、ボランティアで兵士たちの世話をしている。窓の外の元校庭では、軍の管理下でショベルカーが地面を掘り返している。病室には、「アフガン帰還兵にも効果があった」と医師が説明する奇妙な柱状のライトが運び込まれ、緑、赤、ブルー、ピンクと幻想的に色を変える光が、植物状態で昏睡する兵士たちの治癒にあたる。しかしSF的な装置の傍らでは、死者の霊や他人の夢と交信できる霊的な世界が広がっている。ジェンの前に現われた2人の若い女性は、自分たちは古いお堂に祀られている王女であると言い、「病院の下には古代の王たちの墓があり、彼らは眠る兵士たちの生気を吸い取って今も戦い続けている」と告げる。そして、ジェンが息子のように世話する若い兵士イットは、死者の魂と交信できる女性の身体に眠りのなかで入り込み、彼女の身体を媒介として、かつての王宮の豪華な室内へと案内する。しかし、そこは破壊された偶像が横たわるだけの林であり、何もない空虚が広がっている……。
(元)学校、病院、軍隊というラインは、「規律化され集団的に管理される身体」を強く意識させる。過去の栄華の痕跡もない、「不在の王宮」の虚構性。冗談めかして「スパイじゃないの?」と口にする人々。映画館では、国王をたたえる歌と映像が流れる際に人々は起立するが、スクリーンには何も映らない。これらは、タイの政治的現状への批判を示唆する。治療に用いられる光と、映画館で人々が見つめる光。兵士たちの「眠り病」は、現実からの逃避や感覚の麻痺を思わせるが、それは逃走であり闘争でもある。兵士イットは、身体と意識を何者かに拘束されつつも、夢のなかで意識を自由に飛ばし、傷ついた孤独な者に癒しと覚醒の方法を授けることができる。しかし、見開かれて虚空を凝視する目は、戦慄的な覚醒とも、魂を抜かれた半睡状態ともつかない。軍のショベルカーは、地面を掘り返しているのか、何かを埋めて隠蔽しようとしているのか。「目覚めたい」というジェンに、「僕は眠っていたい」と答えるイット。夢の中と現実、重なり合わない世界にそれぞれ生きる2人は、シャーマンの身体を媒介にしないとつながることができない。世界は至るところで傷と綻びに満ちているが、だからこそ同じくらい深い恩寵で満たされてもいる。
2016/04/27(水)(高嶋慈)
Gallerst's Eye ♯2 藤崎了一「Vector of Energy」
会期:2016/04/16~2016/05/29
the three konohana[大阪府]
藤崎了一については、本人と面識はあったものの、作品は知らなかった。と言うのも、彼は一昨年まで京都の複合型スタジオ「SANDWICH」のテクニカル・ディレクターとして、美術家・名和晃平の作品制作に携わっていたからだ。関西初個展となる本展では、主展示室で、立体、写真、パフォーマンスの記録映像とその残骸が展示され、奥の和室では映像作品(約18分)が披露された。それらのなかでとりわけ印象深かったのは映像作品だ。液体に絵具を垂らしてさまざまな複雑な模様が広がっていく様子を捉えたものだが、その神秘的なありさまと色彩美にすっかりやられてしまった。藤崎の活動は、これまでのところ東京が中心だが、地元関西での発表も増やしてもらえればありがたい。
2016/04/24(日)(小吹隆文)
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭2016 Circle of Life|いのちの環
会期:2016/04/23~2016/05/22
京都市内の15会場[京都府]
2013年に始まり、今年で4回目となる「KYOTOGRAPHIE」。2016年のテーマは「Circle of Life|いのちの環」で、プランクトンの姿を捉えた写真と高谷史郎・坂本龍一とのコラボレーションを発表したクリスチャン・サルデ(京都市美術館別館)、人工授精で生まれた赤ん坊を生後1時間以内に撮影したティエリー・ブエット(堀川御池ギャラリー)など、例年通り質の高い展示が並んだ。とりわけ印象深かったのは、マグナム・フォトによる第2次大戦以降の難民の写真を編集した展示「マグナム・フォト/EXILE─居場所を失った人々の記録」(無名舎)と、原爆、三里塚闘争、全共闘、自衛隊など日本の戦後を問い続けた福島菊次郎の個展「WILL:意志、遺言、そして未来」(堀川御池ギャラリーと立命館大学国際平和ミュージアム)ではなかったか。その背景に、ヨーロッパに殺到する難民やパリでのテロ事件など、昨今の国際情勢を想像するのは難くなく、この二つの展覧会の存在が今年の「KYOTOGRAPHIE」を特徴付けたと言って過言ではないだろう。個人的には、自身の裸体と森や湖などの自然を融合させたアルノ・ラファエル・ミンキネン(両足院/建仁寺内)が最も印象深く、コンデナスト社のファッション写真展(京都市美術館別館)、サラ・ムーンの個展(ギャラリー素形と招喜庵/重森三玲旧宅主屋部、アソシエイテッド・プログラムとして何必館・京都現代美術館でも個展を開催)も見事だった。
2016/04/22(金)(小吹隆文)
今井祝雄「Retrospective─方形の時間」
会期:2016/03/26~2016/04/23
アートコートギャラリー[大阪府]
1970年代半ば~80年代前半に制作された、今井祝雄の写真・映像・パフォーマンス作品を展示(再演)する個展。写真の多重露光、テレビ映像の再撮影、ビデオテープによる記録と身体パフォーマンスを行なっていたこの時期の今井の関心が、映像メディウムと物質性、時間の可視化、時間の分節化と多層化、映像への身体的介入、行為と記録、マスメディアとイメージの大量消費などに向けられていたことが分かる。
《時間のポートレイト》(1979)は、1/1000秒、1/30秒、1秒、30秒、60秒、600秒、1800秒、3600秒の露光時間設定でそれぞれ撮影したセルフポートレイトである。1/1000秒や1/30秒の露光時間では鮮明だったイメージが、次第にブレや揺らぎを伴った不鮮明なものになり、最後の3600秒(=1時間)の露光時間で撮られたポートレイトでは、タバコの光やサングラスの反射光が浮遊し、亡霊じみた様相を呈している。ここでは、秒という単位で分節化された時間が、段階的に幅を広げていくことで、ひとつのイメージに時間の厚みが圧縮され、時間の層が可視化されている。
また、「タイムコレクション」のシリーズ(1981)は、「7:10」「7:42」「9:54」など時刻表示のある朝のテレビ画面を、1分間以内に多重露光撮影したもの。1分という時間単位の間に放映された多様なイメージの積層化であるが、断片化した個々のイメージが重なり合って溶解し、人間の顔の輪郭が重なった事故現場(?)の映像とクラッシュするなど、お茶の間で日常的に受容している映像が、安定した知覚を脅かす不気味なものへと変貌していく。ファッション雑誌などに載った写真を15秒間ずつスライド投影し、画像の輪郭をなぞって抽出した線を描き重ねていく《映像による素描》(1974)と同様、マスメディアが大量生産するイメージの受容経験が、分節化した時間と行為の反復によって多重化/解体されている。
一方、今井が「時間の巻尺」と呼ぶビデオテープの記録性や物質性をパフォーマンスに持ち込んだのが、《方形の時間》(1984)と、初日に行なわれたその再演である。展示室の4m四方に設置された観葉樹に、撮影直後のビデオテープを手にした今井が巻き付けていく。そのビデオテープには、直前の作家の行為が記録されており、中央に置かれたブラウン管モニターに「中継」され続けるが、テープはリールに巻き取られることなくデッキから吐き出され、作家の手で四隅の観葉樹にぐるぐると巻き付けられていき、やがて黒い結界で囲まれた空間が出現する。フィルムと異なり、黒い磁気テープには記録された像が見えず、それは「物質」として立ち現われる。現在進行形の行為と一瞬遅れのディレイをはらむ記録が入れ子状に進行する時間と空間が、その黒いテープによって封じられていく。「製造停止となって久しい貴重な機材を入手できたことで可能となった」今回の再演・再展示は、テクノロジーの発展と表裏一体の技術的衰退という時間の流れとともに、アナログ機器ならではの「時間の手触り」を感じさせ、メディアの発展と知覚の変容(もしくは技術的衰退とともに失われてゆく知覚体験──低い解像度の粗い粒子という物質的肌理、ビデオテープ1本=「
2016/04/22(金)(高嶋慈)
Concussion/スポットライト
飛行機では、『Concussion』と前の週に時間切れとなった映画『スポットライト』を鑑賞した。後者はアメリカのカソリック教会における児童の性的虐待を報道した地方紙を描いたものだが、地味な人事資料の山を徹底的に照合して事の真相を暴く、歴史調査のような手続きにぐっとくる。同じく実話に基づく「Concussion」は、アメリカン・フットボールの試合中の脳震とうが引き起こす深刻な問題を扱うが、組織的な隠蔽工作と闘う主人公たちの使命感という点でモチーフが共通する。
2016/04/18(月)(五十嵐太郎)