artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

FUKUSHIMA SPEAKS アートで伝え考える 福島の今、これからの未来

会期:2016/01/22~2016/01/31

京都造形芸術大学 ギャルリ・オーブ[京都府]

東日本大震災と福島第一原発事故の後、文化芸術の力による福島の復興を目指し福島県で始められた「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」。本展は、その活動から生まれた美術作品を紹介し、復興に向かう現地の姿を伝えると同時に、問題意識の共有を図ろうとするものだ。出展作家は、美術家の岡部昌生と安田佐智種、華道家の片桐功敦、写真家の赤坂友昭と本郷毅史の5名。彼らがそれぞれの視点と手法で捉えた福島は、圧倒的なスケール、真摯な眼差し、鎮魂の情をもってこちらに迫ってきた。出展作家や福島県の美術館・博物館学芸員が参加したトークイベントも多数開催され、主催者の意図はひとまず達成されたと思う。1995年の阪神・淡路大震災の折、関西在住の筆者は東京発の報道に隔靴掻痒の感を幾度も覚えた。そして今、自分は逆の立場にいる。当時の記憶と現在の被災地への思いを風化させないために、このような機会を設けてくれた主催者に感謝したい。

2016/01/26(火)(小吹隆文)

《Showing》03 映像 伊藤高志 マルチプロジェクション舞台作品『三人の女』

会期:2016/01/23~2016/01/24

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

「『公演』における各要素の中で、複製技術を持つメディア(音、写真、映像など)を取り上げ、それぞれの視点から劇場へと向かう創作を試みる」《Showing》シリーズの第3弾。伊藤高志は、80年代以降、静止画のコマ撮りによる魔術的なアニメーション作品など、実験映画の制作を行なってきた。本公演は、「マルチプロジェクションの映画」を舞台空間において「上映」し、観客の身体と地続きの空間で起こる「出来事」を侵入させることで、映像インスタレーション/映画の文法/演劇の境界を溶解させるとともに、記憶(記録)の再生/出来事の一回性、複製可能性/「いまここ」の唯一性、複数のスクリーン間で連動・分裂した表象/生身の身体性、といったさまざまな対立項の間を行き来する磁場を立ち上げていた。
舞台上には、3枚の巨大なスクリーンが、三面鏡のように角度をつけて、間隔を隔てて設置されている。無人の舞台の中央には、一枚のワンピースが吊り下げられている。そして3面のスクリーンでは、同一のシーンが異なるアングルで分割して映し出され、時に同期しながら、3人の若い女性の物語を紡いでいく。彼女たちは大学の映像学科の学生である。
冒頭、劇中劇の撮影シーンが挿入されるように、終始無言で演じられるシーンは、劇的な予感に満ちている。カメラを通した窃視、相手を求める手、情事、そして仄めかされる死。台詞が一切なく、カット割りや視線の動き、音響効果だけで物語を進行させる方法は、映画の文法を高純度に抽出してみせている。それは、視線の動きや抑制された身振りだけで登場人物の心情を思い描く余白を与えるとともに、愛らしいバラの形の補聴器を耳に付けた女性の生きる世界を暗示する。
彼女はもう1人の女の子と付き合っていて、屋上や公園で、スキンシップのようにカメラを向けられる。3人目の女の子はそんな2人に友人として接しつつも、補聴器の女性に魅かれている。戯れる2人の傍らでひとり空にカメラを向け、地面をフロッタージュし、マイクで地面や水の音を採取し、自分の脈動を録音し続け、映画の制作に打ち込む。最後に、この世にはもういないはずの「彼女」の手が一瞬だけ優しく触れる、そんな幻覚とともに深い森の中に取り残されて映像は終わる。
しかし次の瞬間、映像内にいたこの女の子が舞台上に現れ、虚実が反転する。彼女は、物語の中で撮られていた16ミリフィルムを映写機にかけて私たち観客とともに鑑賞し、闇の中へ去っていく。映像内の世界が「現実の」舞台空間上に転移して現れ、観客の身体と地続きの空間へと侵入し、物語内で撮られていた16ミリが実際に「再生」される一方で、肉体の不在感を喚起する吊られたワンピースは、物語の中で身に付けられている。いくつもの入れ子構造の絡まり合いとともに、マルチスクリーンの映像インスタレーション、文法としての映画、演劇、といった弁別がハイブリッドに混淆していく。
カメラを手にした窃視者、見る者と見られる者、女の子同士の恋愛感情、死や自殺へ向かう願望、あてどない徘徊、亡霊の出現といった要素は、『めまい』『静かな一日・完全版』『最後の天使』といった2000年代以降の映画作品の流れを組むが、複数のスクリーンの配置による空間性や演劇の現前性を組み込むことで、より厚みを増した複雑な体感世界が構築されていた。

2016/01/23(土)(高嶋慈)

プレビュー:作家ドラフト2016 近藤愛助 BARBARA DARLINg

会期:2016/02/02~2016/02/28

京都芸術センター[京都府]

若手アーティストの支援・発掘を目的とした京都芸術センターの公募展。毎回1人(組)の審査員を立てるが、今回その任を務めるのは美術家の小沢剛だ。彼が104件の応募から選んだのは近藤愛助とBARBARA DARLINg(バーバラ・ダーリン)の2人。近藤の作品は、彼の祖父が第2次大戦中に収容されていたアメリカの日系移民収容施設で撮影した写真と、彼自身が祖父になり替わるパフォーマンス映像。ダーリンの作品は、東北の海岸を車で旅するロードムービーで、台詞は「愛している」の一言のみという。両者に共通するのは、記憶が土地や個人を突き抜けて社会への問題提議になるということ。会期中の2/7(日)には2人の作家と小沢によるトークも予定されており、それぞれの作品や選出理由をより詳しく知ることができるだろう。

2016/01/20(水)(小吹隆文)

エッケ・ホモ 現代の人間像を見よ

会期:2016/01/16~2016/03/21

国立国際美術館[大阪府]

「エッケ・ホモ(この人を見よ)」。新約聖書に登場するこの有名な言葉から、本展を宗教美術展だと早合点する人がいるかもしれない。しかし実際は、戦後現代美術が人間をどのように表現してきたのかを、約100作品でたどる企画だ。展覧会は3部構成をとる。第1部「日常の悲惨」は、鶴岡政男、山下菊二、中村宏などによる戦後日本の社会問題をテーマにした作品で始まり、工藤哲巳、荒川修作を経て、村岡三郎、A・ウォーホル、G・リヒターらに連なる。第2部「肉体のリアル」では、小谷元彦、オルラン、F・ベーコン、塩田千春などの赤裸々な表現が連続する。盛り上がりという点ではここがピークであろう。第3部「不在の肖像」は、G・シーガル、内藤礼といった内省的な作家や、北野謙、B・ボーネン、A・ジャコメッティなどによるアイデンティティの揺らぎあるいは複数のアイデンティティを捉えた表現が並び、J・ボイスと島袋道浩の作品で静かに幕を閉じる。ハードな表現が数多く並ぶゴリゴリの現代美術展ではあるが、人間という主題は普遍的なので、必要以上に小難しく考える必要はない。むしろ自分の側に引き寄せて作品と向き合えば、得るものが多い機会になるだろう。また、出展作品の大半(約90点)が国立国際美術館の所蔵品であり、コレクションの厚みが窺える展覧会でもあった。

2016/01/15(金)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00033594.json s 10119142

クリード チャンプを継ぐ男

新星監督による映画『クリード』を見る。一度終わったはずのロッキーのシリーズを再稼動させる巧みな設定と展開、そしてワンシーンによる試合の撮影などがお見事だ。『ロッキー1』の反復もあるが、シリーズの40年に及ぶ歴史があるからこそ、物語世界の実在感が、ぐっと増し、メタ的にもレガシーを継ぐ傑作になっている。パズルのように構築された『スターウォーズ7』に対し、不意打ちのように現われた新機軸のリブートだ。

2016/01/10(日)(五十嵐太郎)