artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
京都市立芸術大学芸術資源研究センターワークショップ「メディアアートの生と転生──保存修復とアーカイブの諸問題を中心に」
会期:2016/02/14
元・崇仁小学校[京都府]
アーティスト・グループ、「Dumb Type」の中心的メンバーだった古橋悌二が1994年に制作した《LOVERS─永遠の恋人たち─》(以下《LOVERS》と略記)。水平回転する7台のプロジェクターによって4つの壁に映像が投影される本作は、コンピューター・プログラムによる制御や、観客の動きをセンサーが感知するインタラクティビティが組み込まれ、男女のパフォーマーによる映像と音響の作用に全身が包まれる。この作品を、「トレース・エレメンツ」展(東京オペラシティアートギャラリー、2008年)で見た時の静かな衝撃をよく覚えている。
京都市立芸術大学芸術資源研究センターでは、文化庁平成27年度メディア芸術連携促進事業「タイムベースト・メディアを用いた美術作品の修復/保存に関するモデル事業」として、《LOVERS》の修復を行なった。修復を手がけたのは、アーティストでDumb Typeメンバーの高谷史郎。修復された《LOVERS》の公開とともに、メディアアートの保存修復やアーカイブ事業に取り組むアーティスト、学芸員、研究者による発表とディスカッションが開催された。
修復を手がけた高谷からは、今回の修復の概要と、メディアアート作品に不可避的に伴うテクノロジーの劣化や機材の故障といった問題にどう対応するかが話された。メディアアートの修復作業とは、あくまでも「その時点での技術的ベスト」の状態であり、オリジナルの状態の復元ではなく、どの要素をキープしてどこを変更するかが問われる。さらに、現時点での「修復」の将来的な劣化を想定する必要がある。今回の修復では、主にプロジェクターを最新機器に交換するとともに、「古橋がこう想像していただろう」と考えられるアイデアルの状態を想定し、デジタル化した元のアナログヴィデオの映像をもとに「次の修復」に備えたシミュレーターの作成が行なわれた。つまり、映像をデータとして解析・数値化することで、今回の修復に関わったスタッフがいなくても、プログラマーが読み込んで再現・検証が可能になるという。
このシミュレーターの役割について、同研究センター所長でアーティストの石原友明は、音楽やダンスにおける「記譜」との共通性を指摘した。また、メディアアーティストの久保田晃弘は、メディアアート作品には、技術の更新とともにアップデート・変容していく新陳代謝的な性質が内在しているという見方を提示した。こうした視点によって、メディアアートの保存修復について、時間芸術や無形文化財の保存・継承のあり方と関連づけて考えることが可能になるとともに、現物保存の原則や「オリジナル」作品概念の見直し、技術や情報をオープンにすることの必要性などが求められる。また、ディスカッションでは、これからの課題として、美術館における作品収集の姿勢の柔軟性、メディアアートの修復技術者の養成、「作品の保存修復」を大学教育で取り組むこと、展示状態の記録や関係者のインタビュー(オーラルヒストリー)を集めることの重要性、といったさまざまな指摘がなされた。
タイムベースト・メディアを用いた美術作品の収集・保存に対して美術館が躊躇していれば、数十年前の作品が見られなくなってしまいかねない。これは、将来の観客の鑑賞機会を奪うだけでなく、検証可能性がなくなることで、批評や研究にとっても大きな損失となる。《LOVERS》の場合、エイズの危機、セクシュアリティ、情報化と身体、個人の身体と政治性といった90年代のアートの重要な主題を担っている。歴史的空白を残さないためにも、アーティスト、技術者、美術館、大学、研究者が連携して保存修復に取り組むことが求められる。
暗闇に浮かび上がる、裸体の男女のパフォーマー。水平のライン上を歩き、走ってきてはターンし、歩みよったふたりの像が重なりあい、あるいは出会うことなく反対方向へ歩き去っていく。両腕を広げ、自分自身の身体を抱きしめるように、あるいは不在の恋人と抱擁するように虚空を抱きしめ、孤独と尊厳を抱えて背後の暗闇に落ちていく。歩行と出会い、すれ違いと抱擁を繰り返す生身の肉体を、2本の垂直線がスキャンするように追いかける。線に添えられた、「fear」と「limit」の文字。生きている身体、その究極の証としての愛が、相手に死をもたらすかもしれないという恐怖。情報と愛という二極に引き裂かれながらも、パフォーマーたちの身体は軽やかな疾走を続けていく。今回の《LOVERS》の公開は、修復作業の設置状態での鑑賞だったため、本来は等身大で投影される映像が約半分のサイズであり、床面へのテクスト投影もなかった。今回の修復を契機に、完全な状態での公開が実現することを願う。
2016/02/14(日)(高嶋慈)
河合政之「natura : data」
会期:2016/02/06~2016/03/19
宇宙空間に輝く星や銀河のように、無数の白い光が暗闇で瞬いている。床に敷かれた白い砂は、凍りついた雪原のように見える。月面に立って星の瞬く宇宙を眺めているような感覚。映像インスタレーション《Calcium Waves》は、美しいが、静寂と死の世界を思わせる。だが実はこの作品には、「カルシウムウェーブ」という、人間の肝臓やすい臓などの分泌細胞内で起こっている現象を光学顕微鏡で捉えた映像が用いられている。床の砂や小石は、炭酸カルシウムの結晶でできた石灰石や大理石だ。
一方、対置された《Video Feedback Configuration》シリーズの作品では、20~30年前の中古のアナログヴィデオ機器が無数のケーブルで接続され、中央のモニターにサイケデリックで抽象的なパターンが生成されている。「ヴィデオ・フィードバック」の手法、すなわちアナログなヴィデオ機器を用いて閉回路システムをつくり、出力された電子信号をもう一度入力へと入れ直し、回路内を信号が循環・暴走する状況を作り出すことで、無限に循環するノイズが偶然に生み出すパターンが、多様な形や色の戯れる画面を自己生成的に生み出していく。それは、極彩色の色彩とあいまって、下から上に吹き上げる生命エネルギーの噴出のようだ。また、箱の中に収められ、絡み合うコードに繋がれた機器は、血管や神経で接続され、人工的に培養された臓器のようにも見えてくる。それらが、もう製造されていない古いアナログヴィデオ機器であることを考えれば、技術の進展とともに古びて「死」へ向かう旧メディアを、つかの間「延命」させる装置であるとも言えるだろう。
無機質で生命のない世界に見えたものが、実はヒトの体内細胞の現象であり、有機的に見えたものが電子的なノイズである、という逆転。河合政之は、電子信号/生体反応という違いはあれ、微細なパルスを拾ってデータとして可視化することで、無機と有機の世界を架橋し、「データの交通」という共通性のもとに捉えてみせる。その手つきは、データの観測・認識という科学的手法を取りながら、絶対的で単一の客観性へと向かうのではなく、可視化された世界を微分し、私たちの認識を複数性へと開いていく。普段は意識すらされない体内の生体反応も、「意味の世界」として受容している映像も、その表層を剥いだ下には、見えていないだけで微少なデータの波や流れが行き交っているのだ。
2016/02/07(日)(高嶋慈)
作家ドラフト2016 近藤愛助 BARBARA DARLINg
会期:2016/02/02~2016/02/28
京都芸術センター[京都府]
若手アーティストの発掘・支援を目的に行なわれる京都芸術センターの公募企画展。今年は美術家の小沢剛が審査員を担当し、104件の応募の中から近藤愛助とバーバラ・ダーリンの展示プランが採用された。近藤は、移民としてサンフランシスコで暮らし、第2次大戦中に日系移民収容施設に入った経験を持つ曾祖父の人生を、遺品、写真、映像などでたどるインスタレーションを発表。国家や時代に翻弄される人間の姿を描きながら、現在ドイツに住む自身の姿とも重ね合わせていた。一方、ダーリンの作品は上映時間約10時間の長尺映像作品。東京から青森まで自動車で旅する男女の姿を、ほぼ後部座席からの車載カメラで捉えている。ほかに宿泊、食事、寄り道などの場面もあるが、「愛している」の一言以外2人の音声は消去され、外部の音も一部の場面以外は聞こえない(ちなみに筆者は2時間以上粘ったが、台詞を聞けなかった)。両者の作品に共通するのは、個人的な記憶がテーマになっていることであろうか。強度のある表現が個人の枠を突き破り、普遍性へと至る可能性を示すこと。小沢が2人を選んだ意図はそこにあったと思う。
2016/02/02(火)(小吹隆文)
ON-MYAKU2016 ─see/do/be tone─
会期:2016/01/30~2016/01/31
東京文化会館[東京都]
白井剛×中川賢一×堀井哲史「ON-MYAKU2016」@東京文化会館。現代音楽の教科書的な作品も散りばめられた中川のピアノに白井のダンスが呼応し、両者の動きを堀井が映像化する。さまざまなバリエーションでの実験的な試みが行なわれた。「ピアノ・フェイズ」では、白井が反転された自身の遅延映像と共に踊るのが圧巻だった。
2016/01/31(日)(五十嵐太郎)
『サウルの息子』
新宿シネマカリテほか[東京都]
アウシュヴィッツにもユーモアがあったと、ヴィクトール・フランクルは『夜と霧』であの日々を振り返る。彼によれば「ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにものか」だ。
絶滅収容所では、千人単位で運ばれてきたユダヤ人を、次々とガス室に押し込め、死体を焼かねばならない。その仕事を遂行したのはゾンダーコマンドと呼ばれた同じユダヤ人だった。数カ月間その「絶滅」の任務を負うことで生きながらえた後、ゾンダーコマンドの一人であるサウルには証拠隠滅のため皆と同じ運命が待っている。サウルはあるとき、死体となった息子を見つける。息子をユダヤ教の祈りのもとで埋葬したい。そう思った瞬間、いったん失われていた「人間という存在にそなわったなにものか」をサウルは回復し、過酷で過密な労働をかいくぐって、運命が定めたのとは別の生を生き始める。
「アウシュヴィッツ」をテーマにした映画に向けてこんなことをいうのは不適切かもしれない。だが、絶望的な状況に無表情で挑むサウルは、まるで『ミッション:インポッシブル』の主人公のようだと思ってしまった。さもなければ処刑台の前で「この髭だけは大逆罪を犯していないからね」とユーモアを飛ばす、トーマス・モアのようなユーモリストのようだ。フロイトはユーモリストのなかに「自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹」を見た。心を苦しめてくるものに対する徹底的な抵抗は、死の瀬戸際でも、いや、死の瀬戸際であるからこそ求められるのだ。ただし、一点、サウルの行動を「自己愛」と解釈するのでは片がつかない点がある。それは息子への愛が彼をそう変容させたというところだ。
ところで、サウルの息子は本当にサウルの子なのだろうか。あれはお前の子ではないと彼の仲間は言う。そうしたセリフは、サウルが誤解しているとか、サウルを不憫に思ってということより、サウルの行動がより普遍的な未来へ向けられていることを示唆してはいないか。幽霊のように少年がサウルの前に現われるラストシーン。その少年がたんにサウルの息子ではないことは重要だ。少年が森のなかを走り逃げるところで映画は終わる。この少年は変容したサウルが救い出した未来の子ども(=私たち)であり、あるいはその子どもが生きているあいだに示すべき「人間という存在に備わっているなにものか」だろう。
2016/01/27(水)(木村覚)