artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
WINDOWS IN FILMS 2015年度窓学「窓の映画学」
2007年から東北大学五十嵐研では、窓学を継続しているが、今年は窓の映画学を調査した。博士課程の菊地尊也が中心となって、洋画はヒッチコックと007シリーズ、邦画は家族映画を軸に作品を選び、窓がいかに表象されているかを網羅的に分析した。またプレゼンテーション用に研究室OBの三浦和徳監督の編集により、膨大な窓のシーンをつないだ約10分のフッテージ・フィルムの作品「WINDOWS IN FILMS」を作成した。
2015/12/10(木)(五十嵐太郎)
林勇気展
会期:2015/12/04~2016/12/05
FLOAT[大阪府]
ギャラリーほそかわでの個展と同時期に開催された、映像作家・林勇気の個展。林は、パソコンのハードディスクに大量にストックした写真画像を、1コマずつ切り貼りしてアニメーションを制作することで、現実と仮想世界の境目が溶解したポスト・インターネット的な感覚を提示する。また、画像の収集方法は作品毎に異なっており、林自身によるデジカメ撮影、一般公募で集めたもの、インターネットの画像検索という3パターンがある。つまり、パソコンやデジカメ、携帯電話のメモリといった個人の所有する記録媒体、あるいはネット上の共有空間に日々膨大な画像が蓄積され、共有され、消費されていくというメディア状況が、まさに可視化されている。
本個展では、元倉庫という空間の広さを活かし、壁面に加えて床や廊下、さらには開けた窓の奥の空間へと映像が浸透/浸食していくような展示がなされ、映像と現実の物理的空間が、ギャラリーほそかわでの個展とは別の形で交錯し合っていた。壁いっぱいに投影されたアニメーションでは、建物、樹木、草花、家電製品、食べ物、車など、切り抜かれた無数の画像が、川面を漂うようにゆっくりと流れていく。床には本の束や箱、ミラーボールが一見雑多に置かれているが、これらの影は、アニメーションの上に街並みやTV搭のシルエットを描き、影絵のレイヤーを形づくる。一方でアニメーションの映像は、廊下や床にまで映り込み、現実の物理的空間の表面を浸食していく。しかし、廊下の突き当りで振り向くと、プロジェクターの眩しい光が視界を襲う。映像の非物質性、そして映像とは光を見ていることに他ならないことを再認識させる仕掛けである。
また、展示場所のFLOATは、元倉庫のアーティスト・ラン・スペースだが、2015年12月末でクローズとなった。別の映像作品では、倉庫の内外で撮影したスナップ写真の上に、小さく切り抜かれた無数の画像がふわふわと漂っていく。倉庫として使用された履歴、いくつもの展示の記憶を内包した場所の性格に加え、ミラーボールやアンビエントな音楽など、空間を感傷的に満たす光や音の作用も影響して、匿名的な記憶の断片が織りなす川の流れや星雲のようなイメージ、その儚い美しさが際立っていた。
2015/12/05(土)(高嶋慈)
林勇気「STAND ON」
会期:2015/11/24~2016/12/19
ギャラリーほそかわ[大阪府]
林勇気は、パソコンのハードディスクに大量にストックした写真画像を、1コマずつ切り貼りして緻密に合成することでアニメーションを制作している映像作家である。本個展では、モニターに流れるアニメーション、壁面に投影された実写映像、3Dプリンターで制作した立体がそれぞれ互いに入れ子状に関係し合い、現実と仮想空間の境目が曖昧化した空間が立ち現われていた。
アニメーションでは、輪郭線だけの男性が、部屋から出て、街を歩き、トンネルを抜けて林、崖の上、野原を歩いていく様子が描かれる。一方、壁面に大きく歪んで投影された実写映像では、街路樹、コンクリートの壁、フローリングの床、草むら、石などをノックする手が映る。現実の確かさや手触りを確かめ、自分の存在を誰かに伝えようとするかのように、何度も反復される行為。よく見ると、ノックされた樹や石などの被写体は、アニメーションの仮想世界を構成するパーツとして、現実世界から「移植」されていることに気づく。
このように、現実と仮想世界の境目が曖昧化した空間で、「不確かさ」の象徴として登場するのが、サイコロである。アニメーション内では、男性の進路は手にしたサイコロの目で決められる。また、実写における「ノックの回数」は、林自身がその場でサイコロを振って出た目の数に従っているという。そして、このサイコロ自体、3Dプリンターでつくった立体物として展示されている。だが、3Dスキャンの際にデータが読み取れなかった底面だけが、「目」がなく空白のままだ。実物からデータ化の過程を経て再構築されることで、生み出された歪みやひずみ。それはまた、映像の展示方法においても、歪みや不安定さとして反復されている。
現実の確かな手触りへの希求と、予測不可能な不確かさの間で揺れ動く世界。実写の断片がフィクションの世界を形づくる。あるいは、フィクションの世界を微分すると、個々の要素は現実の断片でできている。そうしたどちらにも定位できないあてどなさや浮遊感は、ポスト・インターネット時代の知覚や身体感覚を浮かび上がらせている。
2015/12/05(土)(高嶋慈)
Re: play 1972/2015 ─「映像表現’72」展、再演
会期:2015/10/06~2016/12/13
東京国立近代美術館 企画展ギャラリー[東京都]
京都で開催された「映像表現’72」展の再現を試みた企画である。永続的に残っていく絵画や彫刻と違い、モノとして残らない映像のインスタレーションをどう復元するかが興味深い。回廊のようになった周囲の通路に当時の資料と復元のための探求プロセスなどを配し、中央には京都の会場を90%に縮小再現した場を設けている。西澤徹夫が会場構成を担当しているが、気づくと国立近代美術館で彼の手がけた展示デザインを結構見ている。これも建築家の新しい仕事だろう。
2015/12/02(水)(五十嵐太郎)
ヴィジット
映画『ヴィジット』を見る。物語が始まってすぐ、唐突になんだか腑に落ちない違和感のある世界に放り込まれ、それに翻弄された挙句、どんでん返しで決着するのは、相変わらずのシャマラン節だ。しかし、今回はあからさまに特殊な設定ではなく、孫が初めて祖父母の家に訪問するという一見普通に思えるような設定が抜群によく、しかも有名ではない俳優たちの演技が冴えていた。鑑賞していくと、映画自体が、お涙頂戴の家族もの→パラノーマル・アクティビティ風→サスペンスとジャンルが変化していくように思われる。
2015/12/01(火)(五十嵐太郎)