artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
MOTアニュアル2016 キセイノセイキ
会期:2016/03/05~2016/05/29
東京都現代美術館[東京都]
入口の正面に、ウオッカをラッパ飲みする女子高生の大きな写真が掲げられ、右側の壁には黒一色の落書きがされている。奥に進むと、陳列ケースに展示物はなく、キャプションだけが置かれた状態……。テーマを知らずに入ったせいか、どの作品も投げやりに見えてあまりいい印象ではない。ここでプレスツアーが始まったのでついていく。今回のアニュアル展は美術館の学芸員だけでなく、アーティストたちの組織「アーティスツ・ギルド」と協働で企画されたこと、社会規範を揺るがしたり問題提起を試みたりする表現行為に焦点を当てたこと、などを知る。なるほど、ウオッカを飲む少女の写真はコスプレイヤー齋藤はぢめの作品で、壁の落書きはルーマニア出身のダン・ペルジョヴスキが表現の自由や検閲批判を表わしたもの。キャプションだけの展示は、東京大空襲に関する資料館の建設計画がストップし、展示物が放置されていることに反応した藤井光のインスタレーションということだ。こうして解説を聞くと、表現の規制を問題にするといういささか挑戦的な企画の枠組みが見えてきて、最初の印象は修正しなければならない。昨年、会田誠の作品をめぐって撤去騒動を起こした同館だけに、よくぞ企画が通ったもんだと感心する。その一方で、「あなた自身を切ることができます」とのコメントとともに包丁を壁に突き立てた橋本聡の作品には、透明アクリルケースがすっぽり被せられているし、高さ2メートルほどのフェンスを設け、その向こうに「フェンスを乗り越え、こちら側に来ることができます」と書いた同じ作者の作品の手前には「作家の意図とは異なりますが、危険ですので登らないでください」との注意書きがある。そのチグハグさには笑ってしまうが、この作品は同展においてこの自主規制によって成就したともいえる。ほかに、「小学生以下はお控えください」と「中学生以下はお控えください」という2コースを設けた(素人目には違いがわからない)横田徹の戦闘シーンの映像や、妻の自殺現場を写した古屋誠一のコンタクトプリントなど、かなりハードな展示も。
2016/03/04(金)(村田真)
スタジオ設立30周年記念 ピクサー展
会期:2016/03/05~2016/05/29
東京都現代美術館[東京都]
「トイ・ストーリー」「ファインディング・ニモ」「アーロと少年」など、高度なCGアニメを生み出してきたピクサー社のアーティストやデザイナーによるドローイング、パステル画、デジタル画、彫刻、ゾートロープなど約500点を展示。アートかどうかは別にして、これは楽しい。「平面に描かれたアートワークを、デジタル技術を用いて動きのある動画コンテンツへと生まれ変わらせ、幅10メートルを超える大型スクリーンに投影するインスタレーション」もあって、これを「アートスケープ」と呼ぶそうだ。どっかで聞いたことあるような。
2016/03/04(金)(村田真)
X-ミッション
『X-ミッション』は、エクストリーム・スポーツの制覇×独自の地球環境思想×FBI潜入捜査というてんこ盛りで無理やりなプロットだが、見どころであるべきアクションは凄まじく、看板に偽りはなかった。人間と荒ぶる自然について、究極の関係性を追求する。もっとも、種目を詰め込み過ぎたために、本来はそれだけで一本の映画になるくらい大変なはずの断崖の登頂があっさりしすぎているなど、個々のスリルがやや減じられていた。
2016/03/01(火)(五十嵐太郎)
さらば あぶない刑事
映画『さらば あぶない刑事』のラストは、『明日に向かって撃て!』のようになるのかと思いきや、やはりテイストが合わないので回避する。これも含めて、全体的になぜそうなるのかというロジックが物語に欠けるが、そもそもリアリズムが主眼ではない。軽やかで華麗なスタイルこそが、作品の醍醐味だということを改めて感じさせる。ただ、ずっと舞台になっている横浜の街は、その変化も含めて、もっとうまく使えないものだろうか。
2016/03/01(火)(五十嵐太郎)
プレビュー:林勇気「電源を切ると何もみえなくなる事」
会期:2016/04/05~2016/05/22
京都芸術センター[京都府]
パソコンのハードディスクに大量にストックした写真画像を、1コマずつ切り貼りして緻密に合成することでアニメーションを制作する映像作家、林勇気。緻密な作業の膨大な積み重ねによって制作される作品は、個人の所有する記録媒体やネット上の共有空間に日々膨大な画像が蓄積され、共有され、消費されていくというメディア状況を可視化するとともに、ポスト・インターネット時代の知覚や身体感覚についての問いを投げかけている。「電源」をキーワードにした本個展では、電源を切る行為によって消滅してしまう、映像という非物質的なメディウムの存在的な危うさに注目する。それはまた、電源のON/OFFという行為の身体性と映像との関わりを再考する機会にもなるだろう。
2016/02/29(月)(高嶋慈)