artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
林勇気「電源を切ると何もみえなくなる事」
会期:2016/04/05~2016/05/22
京都芸術センター[京都府]
映像作家、林勇気の個展。京都芸術センターの2つの展示室に加え、元小学校の空間2つを併用し、充実度の高いものとなっている。既発表作の延長上に展開する作品と、新基軸を打ち出した作品が発表され、それらが個展タイトルに予告されているように、「1日3回、決まった時間に映像機器の電源が落とされる」という操作によって再生/消滅を繰り返すことで、映像メディウムの成立条件や知覚体験について問い直す。
ギャラリー北に展示された《another world –eternal–》は、これまでの林のアニメーション作品の代表的なスタイルであり、デジタルカメラで撮影された膨大な画像のストックから切り抜かれたさまざまなオブジェクトが、たゆたうように浮遊し、あるいは視認不可能なほどのスピードで流れていく。食べ物、家電製品、草花、ペットボトル、車、風景の一部などの膨大な画像が、湖のように溜まり、あるいは川面のように浮かんでは流れていくさまは、日々流れるように去っていく記憶の断片を連想させるとともに、匿名的な無数の画像が蓄積され共有される「もうひとつの世界」としてのネット空間、そして画像の夥しい消費を示唆する。また、プロジェクターをあえて床置きにすることで、4面の壁に投影された映像には、観客自身の影が映り込む。それは、映像に空虚な人型の「穴」を開ける行為であるとともに、光源との距離によって伸び縮みする「影」が映像という「もうひとつの世界」の中を自在に散歩するようにも見える。黒い影が映像内へと侵入する一方で、観客の服や身体には映像の一部が移り変わる模様のように映り込み、私たちの見ている映像が非物質的な「光」に他ならないことを改めて意識させる。
また、ギャラリー南の《memories》は、昨年末のギャラリーほそかわでの個展「STAND ON」の試みを引き継ぐものであり、アニメーション、実写、3Dプリンターで制作した立体が複合的に展示される。画像を切り貼りしたアニメーションでは、輪郭線だけで描かれた男性が、箱や容器を開ける仕草を繰り返すが、中身は分からない。箱や容器の実物を、3Dプリンターで「再現」した立体が展示されるが、スキャンの際の光の反射などの「エラー」によって、完全な再現には至らない。中身の見えないブラックボックスとしての「箱」、表面を皮膜としてしか写し取れないこと──これらは、映像それ自体の謂いであるだろう。そして、壁面に斜めに歪んで映し出された映像では、
アニメーション内に登場した壁や床、電気コンセント、本棚などが映っているが、人の手によって破られることで、事物の実写ではなく、写真であったことが明らかになる。
また、新たな試みとして展示された《times》では、デジタルデータとしての画像がピクセルと数値に還元して提示される。スクリーンに次々と映される単色の色面は、1つのピクセルの拡大に過ぎず、3桁×3列の数字の色情報の蓄積は、印刷した紙の束の柱として出現する。
そしてこれら全ての映像は、ある決まった時刻になると電源を落とされて消滅する。私たちの目の前では、プロジェクターやモニターが置かれた、ギャラリーの物理的な空間が露わになり、映像への没入が中断される。映像の非実体性、その儚さや脆さ、そして電気の供給の前提が浮き彫りとなる。その電源消失は予告されているものの、予測不可能な外部のアクシデントによって、今この瞬間にも起きうる可能性について思いを至らせるのだ。あるいは、第三者の介入による意図的なスイッチオフと空白の出現は、権力による干渉や検閲といった作品への暴力的な介入をも連想させる。意味の世界/人工的な光という二重性の下に映像を捉え、実体と映像とのズレや乖離を提示し、デジタルデータとしての映像をピクセルと数値へ還元するなど、映像メディアの条件に自覚的に取り組む林は、本展において、「電源を切る」というシンプルな行為の持つ複雑な奥行きへと、見る者の思索を誘っていた。
2016/04/10(日)(高嶋慈)
バットマン VS スーパーマン ジャスティスの誕生
「バットマンvsスーパーマン」を見る。前作『マン・オブ・スティール』の戦闘における無茶苦茶な都市の破壊を見て、多くの犠牲者が出たのではないかと疑問に思った部分から、物語が始まっているのはいいけれども、さすがに全体のトーンが暗く、尺も長過ぎる。ザック・スナイダーの映画はわりと好きなほうだが、今回の戦闘シーンの連続は飽きてしまった。途中、ミースのファンズワース邸のような建築が登場するのは興味深い。
2016/04/04(月)(五十嵐太郎)
森村泰昌 自画像の美術史 「私」と「わたし」が出会うとき
会期:2016/04/05~2016/06/19
国立国際美術館[大阪府]
美術史上の名作の登場人物や作家に自らが扮したセルフ・ポートレイトで知られる森村泰昌が、それら「自画像」シリーズの集大成となる個展を地元大阪で行なっている。作品総数は約130点(うち森村の作品は125点)。第1部で初期作品から新作・未発表作品までを網羅しているほか、第2部で上映時間約70分の新作長編映像作品を出展。また、森村が1985年に参加した伝説的展覧会「ラデカルな意志のスマイル」が再現されており、盛り沢山な内容となった。展覧会タイトルの「私」と「わたし」は、美術家あるいは作品の一部となった森村=「私」と、プライベートの森村=「わたし」を表わしており、両者の出会いと往還のなかから作品が生み出されてきたことを表わしている。ところが第1部末尾の章立てに「私」の消滅が示唆されており、自画像シリーズの終了を意味するのかと早合点した。森村に尋ねたところ、インターネットや仮想現実などの技術的発展により、私/わたしの境界線が揺らいでいる現状を受けた文言とのこと。自画像シリーズは今後も継続していくとの回答を得た。その意味で本展は、回顧展であり通過点でもあるのだが、森村の業績を概観する重要な機会なのは間違いない。
2016/04/04(月)(小吹隆文)
さいたまトリエンナーレ2016 記者発表会
会期:2016/03/25
日本外国特派員協会[東京都]
この秋さいたま市で開かれる「さいたまトリエンナーレ」の概要発表。ディレクターは芹沢高志で、テーマは「未来の発見!」、おもなアーティストは、秋山さやか、チェ・ジョンファ、日比野克彦、磯辺行久、目、西尾美也、野口里佳、大友良英、小沢剛、ソ・ミンジョン、アピチャッポン・ウィーラセタクンら約40組。ま、要するに各地に乱立するトリエンナーレとかわりばえしないということだ。もちろん展覧会の外枠はかわりばえしなくても、場所が変われば作品も変わる。その意味で、各アーティストが「さいたま」でどれだけモチベーションを高められるかが見どころだ。会期は9月24日から12月11日まで。場所は与野本町駅から大宮駅周辺、武蔵浦和駅から中浦和駅周辺、岩槻駅周辺の3エリア。
2016/03/25(金)(村田真)
プレビュー:林勇気 電源を切ると何もみえなくなる事
会期:2016/04/05~2016/05/22
京都芸術センター[京都府]
自身で撮影した画像、公募で第三者から提供された画像、インターネットから抽出した画像などをコンピューターに取り込み、切り抜きや重ね合わせを行なった後、複雑なレイヤーを施して映像作品化する林勇気。デジタル技術を駆使して記録や記憶の在り方を探ってきた彼が、これまでとは異なるタイプの新作を発表する。その肝は「電源」。展示室の映像機器の電源が1日に何度か落ちるようにセッティングし(1回当たり15分程度)、映像が見られない状態を観客に提示するのだ。これまでの作品があくまでも仮想世界の出来事だったのに対し、この新作ではリアルワールドの介入が大きなカギを握っている。それは、映像メディアの脆弱性を示すと共に、電源を切る行為によるメタ鑑賞体験や、バーチャルとリアルのあいだに立ち現れる何かを探る機会となるだろう。
2016/03/20(日)(小吹隆文)