artscapeレビュー
その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー
始皇帝と大兵馬俑
会期:2016/07/05~2016/10/02
国立国際美術館[大阪府]
紀元前221年に中国を初めて統一した秦王朝の皇帝、始皇帝に関わる資料約120点余りを一堂に展覧している。見どころは日本初公開品を含む兵馬俑8体および軍馬の展示。西安市に出土した「兵馬俑」は、陶製の秦軍約8千体(平均身長180cm)からなり、ひとつとして同じ顔の物がないため、実物モデルに倣ったとされる。そのとおり、本展で見られる将軍・騎兵・軍使・歩兵・御者・立射・跪射など様々な俑は、どれも違う顔立ちと体形をしていることがわかる。そのうち印象深いのは、最も出土数が少なく10体しかない将軍俑。兵士とは異なる鎧と 冠を身に付けた装飾的な着衣は位の高い武将を表し、顔の造作表現にも品位の高さが窺える。当時の写実的表現の粋をまざまざと感じさせる。兵馬俑が作られた時には豪華な彩色がされていたので、本展ではその再現映像も見ることができる。非常にカラフルな着衣とその文様の装飾性の豊かさにはびっくりしてしまう。1970年代から現在に及ぶ陵墓発掘の、最新の考古学と科学研究の成果を踏まえ、秦の台頭から終焉に至る激動の歴史をたどる、ロマンあふれる展覧会。[竹内有子]
2016/07/17(日)(SYNK)
宮古市崎山貝塚縄文の森ミュージアム
[岩手県]
宮古の付近で、ちょうど崎山貝塚縄文の森ミュージアムのオープンの日に通りかかる。大きな屋根や蛇籠が目立ち、アトリエノルドの設計のようだ。埋蔵文化財センターのエリアが多いせいか、外観ほど展示スペースは大きくない。巻貝型土器など、展示物は面白い。屋外の公園には復元竪穴式住居などがある。
2016/07/16(土)(五十嵐太郎)
辰野登恵子の軌跡 イメージの知覚化
会期:2016/07/05~2016/09/19
BBプラザ美術館[兵庫県]
一昨年に急逝した辰野登恵子(1950~2014)の業績をたどる展覧会。約70点の作品を前後期に分けて展示しているほか、映像や資料も紹介されている。筆者は1990年前後に辰野作品と出合ったため、当時の作品に愛着を覚えている。また、1970年代のミニマルな作品も見たことがあるが、2000年以降は詳しく知らない。彼女の作品は関西で見る機会が少なく、本展を知ったとき、ようやく全貌がわかると喜んだ。いざ展示を見ると、油彩画と版画がほぼ五分五分で並んでおり、辰野がいかに版画を重視していたかがわかった。また、版画作品の質感が、まるで油彩画のように重厚であることにも驚かされた。そして何より注目すべきは、本展出品作のほとんどが関西在住の個人コレクターの所蔵品であることだ。関西にこんな目利きがいたとは知らなかった。そしてよくぞこれだけのコレクションを形成してくださった。今後も積極的に公開してほしいが、これだけの規模の展示は滅多にないだろう。それだけに本展は貴重であり、後期も必ず見に行こうと決意を新たにした。
前期:2016/07/05〜08/07
後期:2016/08/09〜09/19
2016/07/15(金)(小吹隆文)
よみがえれ! シーボルトの日本博物館
会期:2016/07/12~2016/09/04
国立歴史民俗博物館[千葉県]
江戸後期、2度にわたり来日し、長崎・出島のオランダ商館を拠点に日本の自然や文化を調査したドイツ人の医師シーボルト。その彼がヨーロッパに持ち帰った厖大な資料をオランダ、ドイツの各都市で展示し、西洋で初の日本紹介となった。最終的にはミュンヘンに日本博物館の建設を構想したが、果たせずに死去。同展はこれらのコレクションの一部を公開し、シーボルトが思い描いた日本像を紹介するもの。まず初めに出会うのが、胸にたくさん勲章をつけた威厳たっぷりの《シーボルト肖像》。油彩で写実的に描かれており、その後に出てくる日本人が描いたマンガみたいな《シーボルト肖像》と比べると、19世紀の日本と西洋の文化の落差に唖然とさせられる。ほかに、出島で一緒に暮らした日本人女性タキや、ふたりのあいだに生まれた娘イネ(のちに日本初の西洋医学を修得した女性医師となる)の肖像画、帰国後ふたりに宛てた手紙など。さらに、1度目の帰国後に出版した『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』の3部作、1度目の滞在で国外退去の原因となった日本地図など。ここまでがプロローグで、本題の「日本博物館」はここからなのだが、実のところこの先は歴史博物館や民俗資料館に行けばいくらでも見られるような日用品、工芸品が並んでいて、ちょっと退屈。そりゃ19世紀のヨーロッパでは珍しがられたかもしれないけど、当時の日本人にとってはありふれたものだからね。でも洋風画を得意とする長崎の絵師、川原慶賀に描かせた《人物画帳》がおもしろい。町人、花魁、大工から盗人まで109人の日本人がフルカラーの全身像で描かれているのだ。これは必見。
2016/07/11(月)(村田真)
土木展
会期:2016/06/24~2016/09/25
21_21 DESIGN SIGHT[東京都]
「土木」についての展覧会。それは私たちの日常生活の基盤を構築する重要な技術知であるにもかかわらず、日常生活の基底にあるため日頃は自覚的に実感される機会は乏しい。本展は、その知られざる実態を土木の専門家やアーティストら22組によって詳らかにしたもの。
土木というと、文字どおり土や木の圧倒的な迫力やそれらと拮抗しうる重量感あふれる重機などを連想しがちだが、残念ながら本展にそのような展示はない。あるのは、来場者の「参加」を要請する当世風の展示である。例えば、エアーで膨らませたビニールのピースを積み上げさせたり、マンホールを模した穴の下から顔を覗かさせたり、来場者の参加によって土木の世界を体験することが本展の醍醐味とされている。
しかし、このような「体験」「参加」型の展示手法が土木の本質を突いているとは到底思えない。いくらそのような参加体験を繰り返してみたところで、本展には土木の本質には決して到達しえないある種の「障壁」が設置されているからだ。その「障壁」とはメディアにほかならない。
「土木」とは、土や木といった自然物を人為的に改変ないしは抑圧することで人間の利益に資する営み全般を指す。であれば、それは必然的に土や木の物質そのものと密接不可分であるはずである。ところが本展は写真や映像、ないしは建築模型というメディアによって土木の物質性を媒介するばかりで、肝心の物質そのものはほとんどと言っていいほど見せられていなかった。企画者が言明しているように、土木が日常生活の根底にあるのは事実だとしても、それを自覚的に相対化するのであれば、日常生活にあふれているメディアを多用したところで、土木を日常性のなかからつかみ出すことはできない。むしろ、非日常性こそが日常性を相対化しうるという現代美術の大原則に則れば、日常では決して出会うことのない土木の現場の生々しい物質感こそが、私たちの足下に広がる土木の世界に想像力を差し向けるはずだ。もし、あの広大な会場に重機のひとつでも展示されていたら、もしあの無機質な展示空間の床に底が見えないほどの暗い穴がひとつでも穿たれていたら、本展の印象は一変していたにちがいない。
物質の忘却と参加体験の強制。本展の特徴をあえて乱暴に要約すると、このようになる。だが、こうした点は、本展の固有の特徴というわけではあるまい。それは、ポスト・プロダクト、関係性、参加、といったキーワードによって整理されがちな、昨今の現代美術の一部の潮流と共振しているように考えられるからだ。有無をいわさず参加を強制されたり、望みもしない関係性を無理やり結ばされたり、「地域社会」という公的な題目があろうとなかろうと、平たく言えば、「大きなお世話」というほかない作品が昨今あまりにも多すぎる。だいたい赤の他人と一緒にカレーを食べたところで、それがいったい「不愉快」以外のどんな感情を惹起するというのか。夢であれ希望であれ、自らの内面をポストイットに書かせる手法も、「馬鹿のひとつ覚え」という悪態が口に出るより先に、内に秘めた心情をあけすけにさせようとする、無遠慮で無神経なふるまいに怒りが募る。一見すると、非常に民主的かつ平和的な手法であるかのようだが、そのじつ、人の心に土足で踏み込むかのような、きわめて暴力的な悪意に満ちた作品が跋扈しているのだ。
参加体験という価値観に立脚した本展は、知ってか知らずか、そのような現代美術の悪質な潮流に巻きこまれてしまっている。必要なのは、土木の世界の物質性を、いかなるメディアにも媒介させることなく、そのまま展示することだった。物質をあるがままに提示すること。そう、ポスト・プロダクトないしは関係性の美学などを吹聴するアートが、とうの昔に批判的に乗り越えたはずの「もの派」的な作品のありようが、この場合に限って言えば、じつはきわめてまっとうだったのではあるまいか。
2016/07/06(水)(福住廉)