artscapeレビュー

奥山ばらば「うつしみ」

2016年06月15日号

会期:2016/04/29~2016/05/01

大駱駝艦「壺中天」[東京都]

「ダンス」という表現は、見れば見るほど不思議なものだ。言葉を用いる演劇であれば、演じる体は言葉のリズムや意味やそこから形作られる物語に自ずと縛られる。縛られているから、見ている観客は言葉を追いさえすればいいと安心しがちだ。けれども、その縛りがダンスにはない。踊る体は無言で見る者に迫る。物語から自由である分、始まりも終わりも曖昧。それでも、惹きつけられる。ダンスという表現はだから、プリミティヴで最新型で、いつも根本的に世界の異物であり続ける。さて、奥山ばらばの新作は、ソロの舞台。冒頭、円形の装置で裸の奥山が一人、回っている。舞台にはこの体しかない。この体が言葉とは異なる道具となって語りかける。回転が止むと、背中を向けて肩甲骨をぐりぐり回す。見慣れた「背中」が異形性を帯びてくる。普段は白塗りが多い大駱駝艦だが、今日の奥山は肌をさらす。次第に、汗が溢れてくる。奥山には、そうした汗を含め、自分の体以外にダンスのパートナーはいない。この自分が自分のダンスの相手という、なんというか「自分の尻尾を飲んだ蛇」のごとき自家中毒状態は、例えば、自分の髪を掴んで後ろに引っ張りながら首を前に押し出そうとするなんて仕草で象徴的にあらわされる。風に吹かれるままの一枚の落ち葉のような、誰かに弄ばれる操り人形のような、思いのままにならない体が描かれることもある。悲しいような、寂しいような気持ちに吸い込まれることもあるけれども、汗をしたたらせる裸体はエロティックでもあり、生命の強さも感じさせる。70分強の舞台は、じっくりとゆっくりと人間という境遇を経巡ってゆく。ソロの舞台ということもあり、1年ほど前に逝去した室伏鴻を思い出さずにはいられなかったが、室伏の敏捷な野生動物のごとく変幻し移動する踊りとは対照的に、どこにも行きつけない、ここで踊るしかない、そんな体のダンスだった。

写真:熊谷直子

2016/04/30(土)(木村覚)

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