artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
レクチャーパフォーマンス・シリーズ vol.2 チェン・ジエレン「残響世界」
会期:2016/02/16~2016/02/18
SHIBAURA HOUSE[東京都]
最初にハンセン病患者の収容施設の歴史に台湾と日本を重ねたレクチャーを行なう。チェン・ジエレンは、植民地、資本主義における社会的な弱者は彼らだけでなく、現代の派遣労働者もそうだと指摘する。その後、カーテンを開けると、シバウラハウスの透明な建築を生かし、隣のビル屋上でパフォーマンスが行なわれた。続いて彼の映像作品を鑑賞する。やはり、作家なのだから当たり前だが、映像そのものが語ることは大きい。
2016/02/16(火)(五十嵐太郎)
What Price Your Dance ダンスと仕事とお金についてのおもろい話とパフォーマンス

会期:2016/02/14~2016/02/15
Art Theater dB Kobe[兵庫県]
川口隆夫、砂連尾理、カンボジアの古典舞踊手のポン・ソップヒープ、マレーシアの古典舞踊手のナイム・シャラザード。国籍、年齢、セクシャリティ、ダンスの経歴、受けた教育、文化的背景もそれぞれ異なる4人のダンサーが、「アジアにおけるアートのための労働とダンスの経済」について言葉と身体による対話を行なう、レクチャー・パフォーマンスである。
冒頭ではまず、「あなたの生計を教えてください」という質問が英語でなされる。非常勤講師とダンス公演とワークショップと答える砂連尾、古典舞踊の教師と音楽のバイトだと言うソップヒープ、翻訳業と舞台公演が半々を占めると言う川口、舞踊団からのギャラで生計を立てていると言うシャラザード。4人の答えはバラバラだ。続けて、「あなたの手、足、胴体で何か見せてください」という質問と、それぞれの身体部位の「値段」が質問される。「値段は付けられない」と言う者、手羽先やスペアリブと比較して冗談交じりに答える者。だが、上半身をはだけた年若いシャラザードが、傍らの川口に「How much?」と問いかけるとき、臓器売買や売買春とのきわどい交差の中に、観客=ダンサーの身体を「見る権利」を買っている存在であることが仄めかされる。
続くシーンでは、「これまでのダンスで得た総額」「月収と支出の内訳」「公演制作費、ギャラの時給換算」「ダンス教育にかかった時間の総計」といった経済、労働に関する質問がなされる。それは、ダンサーの置かれた経済的状況について、「表現、身体、文化的支援、資本主義」に関する問いを投げかける。しかし、「お金」と「時間」と「(身体)資本」という資本主義経済の単位に還元してダンスの価値を測ろうとすればするほど、そこからはみ出さざるをえない豊かな剰余の部分が際立ってくる。それは、ダンス/ダンス以外でのさまざまな差異をもった出演者どうしが、身体的な交流のなかから動きを即興的に立ち上げていくシーンである。砂連尾とソップヒープは、合気道と古典舞踊を互いに教え合う。コンテンポラリー・ダンスに関心をもつシャラザードは、川口に「最初の振付作品を見せて」と頼み、振り写しのなかから即興的な動きが触発されていく。相手の動きを受け取って、どんどん次の動きを生み出していく、緩やかな連鎖反応。一方、砂連尾とソップヒープは、「2人の掌の間に見えないボールがある。その感覚をキープしたまま、空間をゆっくり広げていく」というワークを始め、見えない糸の繋がりが、空間的に隔たった2人の身体を動かしていく。
一方で、ソップヒープが見せるソロは、「ダンスとグローバリゼ─ション」という問題を提起する。彼は、持ち役の「猿の踊り」を力強く披露するが、この役には肉体の俊敏さや若さが求められるため、舞踊団では年齢的にもう踊れないと言う。「カンボジアにコンテンポラリー・ダンスが入ってきたのは2005年頃とまだ新しいが、自分にとってコンテンポラリー・ダンスは貴重な収入源だ」と話す。そして、古典舞踊のテクニックや培われた身体の強靭さをベースに、「砂連尾と一緒に作っている」と言う新しい作品の一部を披露する。それは、古典舞踊の動きや身体観と融合した「新しいダンス」を生み出すのだろうか。それともグローバルな市場においては、古典舞踊のエッセンスは商品価値を高める差異に過ぎず、「新たな商品」として消費の対象になるのだろうか。
2016/02/15(月)(高嶋慈)
オペラ「夕鶴」
会期:2016/02/14
神奈川県民ホール[神奈川県]
戦後間もなく團伊玖磨が挑戦した日本語のオペラの実験である。メロディはちょっと地味だったが、山田耕筰が確立したものとは違う方法で、日本語をメロディにのせる試みを行なっており、おそらく方言が使われているのもそれと関係していると思われた。主役のつうは、佐藤しのぶ。縦長のスクリーンの移動と、傾いた廻り舞台だけでさまざまな場面を演出する。雪景色の美術は千住博、多色を用いた衣装デザインはカーテンコールで登壇した森英恵が担当した。
2016/02/14(日)(五十嵐太郎)
ねもしゅー企画vol.2 ねもしゅーのおとぎ話「ファンファーレサーカス」
会期:2016/02/11~2016/02/14
新宿FACE[東京都]
夢見がちな少女が、妖精の誘いで童話の世界に入り込むというのは、よくありがちな導入部である。しかし、納得のいかないラストになってから、今度はその内容を書き換えていく、メタフィクション・ファンタジー×くるくるバレエ×グラム・ロックの生演奏がかぶさり、カラフルな衣装で華やぐ、勢いのある演劇だった。
2016/02/11(木)(五十嵐太郎)
関かおり『を こ』

会期:2016/02/08~2016/02/11
森下スタジオ Cスタジオ[東京都]
関かおりのダンスの特徴は、徹底的にダンサーを鍛え、その身体をこしらえ上げるところ、そしてそれによって独特の運動の質が身体の隅々までみなぎるようにするところにある。今作にも、その徹底ぶりは垣間見えるのだが、なんといおうか、ごくごく微量のコミカルさが感じられて、それがとても印象的だった。誤解されてはならないが、それは関のダンスがキャラ的だということではない。とはいえ、関のダンスは、独特の運動の質を作り上げるところにあり、その傾向はひとつに、人間らしさからの逸脱を意味するところがある。白いガーゼを巻いただけのような、ほとんど裸に見えるダンサーの姿は、人間をプリミティヴな状態へと連れ戻したかのように見えるし、そうしてリセットされた人間があらためてどんな生態をもつものなのかが気になってくる。例えば、ダンサー同士がコンタクトするさまは、その「始原へとリセットされた人間」の知性や感情のかたちを伝えてくれているようだ。突飛な例かもしれないが、例えば『進撃の巨人』の怪物たちの運動の質もまた、彼らの生態を伝えるためにあのような動きとして造形されたのだろう。そう思うと、関のダンス上の試みというのは、実写映画やアニメーションなどで運動する生命体を造形する試みとよく似ているのかもしれない。しかし、そこまでだったら「キャラ」の範疇に収まることだろう。関は慎重に「キャラ的」になることを回避している。そのうえでなのだが、筆者が先に「ごくごく微量のコミカルさ」と述べたのは、いつもの関らしいていねいな造形意志とはちょっと質を異にするリズムが、本作にはあったからだ。しっかりと構築された造形物が、不意に落下してしまうみたいな、そしてそれによって、構築性が破損されてしまうかのような、スリリングなリズムが生まれていた。その意味で、とてもダンス的な舞台だった。例えば「大駱駝艦」を連想させるような、舞踏的な気配もあった(タイトルには「おろかなこ」の意味があるという。こういう着眼点も舞踏のエッセンスとのつながりを予想してしまう)。ひょっとしたら、室伏鴻の逝去によって、実現されぬままとなったフランスでの室伏との稽古の日々も、ここになんらか作用しているのかもしれない。
2016/02/09(火)(木村覚)


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