artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

康本雅子『視覚障害XダンスXテクノロジー“dialogue without vision”』

会期:2016/02/07~2016/02/11

KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]

見えない人が舞台に6人。20分の舞台で多くの時間行なわれたのが、コンタクトを基軸にしたインプロヴィゼーション。驚いたのは、観客として6人を見ているときに沸き起こる、なんとも言えない隔靴掻痒感。これまでまったく無頓着だったが、ぼくたち観客はダンサー=「見えるひと」という前提のもとで客席に居るのだ。その身体上の類同性をベースにして、ダンサーの挙動に同化しながら、舞台を見る。しかし、ここではその類同性が機能しない。見えない人を見る。ここには、見る者と見られる者とのあいだに断絶がある。踊る者は見えないあるいは見えにくい(視覚機能には程度の差があるとのこと)が故に、視覚以外の情報に耳を澄ませ(体を澄ませ)、相手とのダンスを継続させているようだ。観客としては、その踊り手の身体の内側で起きている感覚にチューニングしたいのだが、身体感覚から視覚を引いた踊り手の身体状態とうまく同化できずに、イライラさせられる。この状態を体感したいのならば、観客も目をつむり、さらにこのインプロヴィゼーションの渦中に身を置いて、ともに踊ることが最善なのかもしれない。それはそうとして、この上演が興味深かったのは、このイライラさせられる隔靴掻痒のなかに、舞台表現の未踏地の存在が予感されるということだ。「見えない人が舞台にいる」というだけで見る者は、いかにこれまでの観劇体験が「見える者」同士で展開された、故に同類性に基づいた「狭い」コミュニケーションを行なっていたにすぎなかったかということに気づかされる。そして、新雪のように、いまだ誰も踏み込んだことのない劇空間が隠れていたことを知る。この見えぬ者と見える者とがともに過ごす空間が、つまらない約束事に基づく安易なコミュニケーションが確立することによって「荒らされる」前に、ここで起きていることの隔靴掻痒をもっと感じておきたいと思わされた。

2016/02/07(日)(木村覚)

冨士山アネット『DANCE HOLE』

会期:2016/02/04~2016/02/09

のげシャーレ[神奈川県]

フライヤーの「本作は出演者の居ないダンス公演」とは本当だった。のげシャーレの普段は通らない廊下を抜けて、観客はまず楽屋に通される。待っているのは、例えれば〈食べるはずが食べられてしまう〉あの「注文の多い料理店」。「見る」担当であるはずの観客は、真っ暗な舞台空間へと連れて行かれ、指示の声に促され、それに応えるうちに、いつの間にか「踊る」担当にされてしまう。天からの声が指示を出し、観客たちは二人ひと組で向き合うと、手をつなぎ、体を接近させて回るといった「ダンス」を踊る。この「ダンス」を見る普通の観客はいない。しかし、この場で唯一の見る者として指示の声がいるわけで、この声の主に観客=ダンサーは見られたまま、上演の60分を過ごす。ダンスを見る者は、大抵、踊る身体に同化したり突き放されたりして見る。それと、見る者が見られる者へと立場を実際に交換することとは、雲泥の差がある。筆者は、この体感型アトラクションを満喫しながら、ひたすら怖がっていた。本作タイトルは「DANCE HALL」ではなく「DANCE HOLE」。不意に「穴」に落とされた感じだ。それは指示の声にひたすら応えるマゾヒスティックな官能さえあった。これはダンスの追体験である以上に、舞台あるいは舞台本番というものの追体験であり、それ故の怖さがあった。ダンスの追体験を目論むのであれば、緊張感を削いだワークショップ形式であってもよいはずだ。しかし、そうではなく、冨士山アネットの狙いとしては、舞台に身を置く緊張こそ観客に体感してもらいたいということがあったのではないか。最後に渡された紙には「これからが本番です」といった言葉が書かれてあった。つまり、本番のはずの時間を過ごしたあとこそ、人生という本番がある。これは、そのためのリハーサルだったわけだ。その狙いはとても面白いのだが、ここで経験するダンスが、もう少しダンス史を観客が知るきっかけになっていたらよいのではないかと思った。踊ることを通して、もう少し踊りとはなにかがわかってくるとよいのだが、なかなかそうはならない(しかし、1時間くらいの「本番」でわかるはずもないのだが)。もうひとつ気になったのは、これを楽しみたい観客ってどんな観客なのだろうということ。ワークショップのマニアみたいな人がダンスの世界にいるようだけれど、そういうひと向け? あるいは、この世にいろいろと理解したらよいことがあるなかで、ほかならぬ「ダンス」を体験させることの意味とは? といった問いが明確になると、こうしたアトラクション型の公演がいま以上の脚光を浴びるなんて日が来るのかもしれない。

2016/02/07(日)(木村覚)

烏丸ストロークロック『国道、業火、背高泡立草』

会期:2016/02/06~2016/02/07

AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)[兵庫県]

共通のテーマや登場人物を扱った短編作品の上演を数年にわたって積み重ね、長編作品へと集成させる創作形態をとる劇団、烏丸ストロークロック。本作も、互いに関連する短編の上演を2010年から積み上げてきた集大成的な作品であり、約2時間半にわたって、テンポのよい関西弁による会話劇が展開される。
舞台は、国道沿いの架空の町、「大栄町」。高度経済成長期に地元出身の国会議員の土木利権で繁栄した町だが、バブルの崩壊後、政治家の死とともに経済基盤や活気を失っている。そこへ、20年前に山火事を起こして町から追放されるように去った男、「大川祐吉」が突然帰ってくる。前半では、「ビンボーのユーキチ」と呼ばれ、忌み嫌われている男の帰還にとまどう住民たちの姿を通して、彼の過去が次第に明らかになっていく。正方形の枠で囲まれた舞台装置が秀逸だ。それは、スーツケースを引きずる主人公がグルグルとあてどなく歩く国道になるとともに、閉塞感で閉ざされた町や出口のない状況を象徴する。また、床との「段差」は、それぞれに身を置く登場人物どうしの力関係や優越感を示す。火事の焼け跡に、寂れた風景の中に生い茂り、風に揺れる「背高泡立草」。それは、戦後日本の象徴として作中で言及される。終戦後、アメリカから渡来した背高泡立草は、アメリカの庇護の下での経済発展とともに大繁殖するが、根に毒があるため、50年後、60年後には自らの毒で弱っていき、自滅の道をたどるというのだ。また、タイトルのもうひとつの単語、「業火」は、劇中の「火事」と「業(ごう)」の両方を意味する。登場人物はみな、何かしらの業を背負い、地方の疲弊を体現する人物として描かれる。助成金や補助金頼みの地方の経済、派遣切り、若者の貧困、離婚やアルコール中毒、親の介護、痴呆、右翼の活動家、カネと性への執着……。息苦しいまでに閉塞した現代の日本社会の縮図ともいえる地方の小さな町が、現在と過去を行き来しながら描かれる。
後半では、町に帰ってきた「祐吉」の目論みが、人々を巻き込んで展開する。マルチ商法で金持ちになった「祐吉」は、町の人々に金儲けのプロデュースを行なう。離婚してアル中になった中年の男が、会えない娘を想って彫った稚拙な木彫りの人形を、「ここには本物の心がある」と評価し、商品化に乗り出す。新規就農者に支給される補助金で暮らすヤンキーの若者や、地元再生を期待されて町議選に出馬する元国会議員の娘といった人物を巻きこみながら。同時に、彼の台詞が急に宗教・説教臭くなっていく。「売るものに魂を込めているか」「どうすれば(資本主義のシステムから)自由になれるのか」「父親になるんだから、自分で考えろ。それが自由だ」といった具合だ。だが、木彫りの量産を頼まれた中年の男は、「つくる度に娘への想いが軽くなっていく」「娘が欲しがるものを買ってやって、これ以上何をしてやれるのか」と疲弊していく。そして、大人のオモチャとの「コラボ」を勝手に進めた若者に「祐吉」は激怒し、悲喜劇の終盤を迎える。
彼の語る言葉の「胡散臭さ」を強調することで、「資本主義の価値観が元凶」というメッセージは非常に分かりやすく提示される。ラストで「祐吉」は、どんなにカネがあっても「たった1人の母親さえも幸せに出来なかった」ことに絶望し、首吊り自殺を図るが死にきれず、高校時代の元恋人の手で縄を絞められる。しかし、皆が退場したあと、彼はゆっくり起き上がり、再びスーツケースを引いて歩き去っていくのだ。「祐吉」という「亡霊」は再び何度でもよみがえることが示唆される。それは、戦後日本の資本主義社会が罹患した病である。
だが、ストレートな資本主義社会批判だけが本作の主題だろうか。むしろ真の主題は、親=先行世代から否応なしに背負わされた負の遺産という構造にあるのではないか。それはメインの登場人物3人に仮託されている。分かりやすいのが、「祐吉」の元恋人が、彼の首を絞めるラストシーンで歌う軍歌だ。この軍歌は、寝たきりで痴呆になった父親を彼女が絞め殺すシーンでも歌われていた。彼女の父親は、元右翼の活動家であり、家に街宣車や日の丸の旗があったと話されていたので、父親が歌っていた軍歌を物心つく前から聴いて覚えてしまい、感情が高ぶると口をついて出てしまうのだろう。「いざ行け つわもの 日本男児」のリフレイン。その回帰性は、親=先行世代から背負わされた負の重荷を象徴する。「カネさえあれば豊かで幸せになれる」という「祐吉」の幻想は、母子家庭に育った貧困から来ており、元国会議員の娘は「私たちは親の世代のツケを払わされている」と冷静に自覚しつつも、資金集めに奔走する。個人が親から背負わされてしまうものと、社会が前の時代から受け継ぐ重荷や保守的な価値観。群像劇という手法で重層的な構造を描いた力作だった。

2016/02/06(土)(高嶋慈)

NODA・MAP第20回公演「逆鱗」

会期:2016/01/29~2016/03/13

東京藝術劇場プレイハウス[東京都]

松たか子、瑛太らのキャスティングで華々しいが、前半はコミカルかつシュール、そして言葉遊びによる人魚と水族館の話で謎めいており、物語の流れがよく見えない。人魚が生成する解釈もとても奇妙である。だが、後半はベタに1945年の太平洋戦争の世界に転換する。人魚とは「人*魚*」だったのかと膝を打つ。ここで前半の寓意的な伏線が一気に氷解し、悲壮だが、美しい水底の終焉へとなだれ込む。

2016/02/02(火)(五十嵐太郎)

ON-MYAKU2016 ─see/do/be tone─

会期:2016/01/30~2016/01/31

東京文化会館[東京都]

白井剛×中川賢一×堀井哲史「ON-MYAKU2016」@東京文化会館。現代音楽の教科書的な作品も散りばめられた中川のピアノに白井のダンスが呼応し、両者の動きを堀井が映像化する。さまざまなバリエーションでの実験的な試みが行なわれた。「ピアノ・フェイズ」では、白井が反転された自身の遅延映像と共に踊るのが圧巻だった。

2016/01/31(日)(五十嵐太郎)