artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

Beautiful: The Carole King Musical

会期:2015/12/01~2016/02/21

ORIENTAL THIEATER[アメリカ、シカゴ]

オリエンタルシアターのミュージカル「Beautiful」へ。劇場の名前のとおり、東洋趣味の装飾だが、すごいゴテゴテで驚く。キャロル・キングの半生を舞台化した作品であり、物語の起伏は弱いが、作曲家として活躍した初期からシンガーソングライターになるまで、数々の名曲が登場し、それだけで盛り上がる。

2016/01/02(土)(五十嵐太郎)

Gotta Dance

会期:2015/12/28~2016/01/17

Bank of America Theater[アメリカ、シカゴ]

「Gotta Dance」のミュージカルを観劇する。バスケットボールのハーフタイム・ショーのために、高齢者がヒップホップの踊りに挑戦という筋立てだが、やはり地味さはぬぐえなかった。ニューヨークの劇場よりも席がゆったりしている。

2015/12/30(水)(五十嵐太郎)

福留麻里『そこで眠る、これを起こす、ここに起こされる』

会期:2015/12/22~2015/12/23

世田谷美術館[東京都]

本作は、「トランス/エントランス」という企画の第14弾。毎度、世田谷美術館のエントランス・ホールを使って行なわれるパフォーマンスのプログラム、10年目を迎える今回は福留麻里のソロダンスだった。特定の場をリサーチして、その場の歴史や環境を掘り起こし、そこから見出された事象の意味を芸術の方法を用いて引き出すというタイプの試みは、とくに美術の分野ではいまや当たり前の形態だ。とりわけ、「地域アート」として括られる多くの国際トリエンナーレでは、個々の作家が最新作の展示をその場で披露する意味が乏しく、その代わりに価値が感じられるのは、地域をリサーチしたうえでそこから見出されたものに光を当てた展示といった状況がある。すなわち、ホワイト・キューブのニュートラルな(展示する作品を限定しない)性質にふさわしいニュートラルな(展示する場を限定しない)作品ではなく、むしろ場のローカリティを無視せずにその場所の性格にふさわしい表現、その性格に拮抗する表現が求められているということだろう。そういうことであるならば、自ずとアートはこれまでの自分自身の性格(例えば、作家という個の内面の発露といった性格)を変更せざるを得なくなるだろうし、現在、その過渡期にあらゆるアート表現は直面していると考えるべきだろう。さて、そんな状況にダンスはどう答えるのか? 福留麻里が今作で挑んだのは、こんな問いだったのかもしれない。世田谷美術館は広大な砧公園に置かれているが、本作は、福留が公園と美術館とに足繁く通ったその「調査」の様子を反映したものとなっていた。ときに、その場に棲む鳥や小動物や昆虫のようになって、また福留本人として、福留はエントランスホールに散りばめたオブジェたち(小枝や靴や小物たち)と対話する。その動きは福留らしく、とても繊細で、丁寧だ。とはいえ、同時に感じられるのは、「なぜ、ここにいるのが、福留なのか?」という問いだったりする。ダンサーはここで観客と「ここ」をつなぐ役割をなす。あるいはダンサーは反響板となって、観客の前に「ここ」を映し出す。それがどうしてこの(福留麻里という)反響板なのか? 筆者は個人的に福留麻里という振付家・ダンサーを敬愛している。繊細で丁寧なダンスは掛け替えのないものだ。だからこそあえて問いたくなる。観客とリサーチ対象とをつなぐ「メディア」として、ダンサーはその個性をどう発揮するべきなのか? 個性は「メディア」のノイズとなる面もあるかもしれない。もし欲深くなってよいなら、この上演に「振り付け」があったらよかったのではと思う。福留麻里という特権的な身体でしか踊れないものではない「振り付け」が。その振り付けが場と観客とをダイレクトにつなぐものとなるならば、福留麻里は「機能」として透明化する(公共化する)ことだろう。そのとき福留の身体を観客は、福留らしい、場へのまなざしを体験しつつ、身体化することだろう。

2015/12/23(水)(木村覚)

あごうさとし『純粋言語を巡る物語──バベルの塔II──』

会期:2015/12/18~2016/12/21

アトリエ劇研[京都府]

劇場空間の中央の床に、約3m四方の白い正方形が敷かれている。4つの角に置かれた、背丈ほどの高さの4つのスピーカー。対角線上には、同じく背丈ほどの高さで縦長のモニターが向かい合う。その周囲を取り囲むように、さらに4つの横長のモニターが置かれ、正面の壁一面に映像がプロジェクションされる。客席はなく、観客は自由に移動して好きな場所から眺めることができる。スピーカーやモニター、すなわち音声と映像の再生装置に取り囲まれたこの奇妙な空間で「上演」されるのが、本作である。ここでは生身の俳優はいっさい登場しない。
開演のアナウンスの後、あちこちに散在したモニターに、ト書きが字幕で映し出される。「人物 夫 妻」「時 晴れた日曜の午後」「所 庭に面した座敷」。そして「台詞」が正面の壁一面にプロジェクションされる。ヒマを持て余した日曜の午後、倦怠期を迎え、自分の気持ちが相手にうまく伝わらないことに互いに苛立ち、すれ違いの会話を続ける夫と妻。ト書きを見ると、「二人は対角線上に対峙する」とあり、対角線上に向かい合ったスピーカーからそれぞれ「夫」と「妻」の声が流れ出す。「不在」の俳優の代わりに擬人化されたスピーカー、その位置関係と距離が、本来二人の間に横たわっている空間性を「再現」する。さらに、対角線上に設置された縦長のモニターにも、「夫」と「妻」らしき人影がぼんやりと映し出されるが、顔はぼやけてはっきりと識別できない。だんだんと、苛立ちをつのらせる二人。モニターに表示された、「妻は夫の周りをぐるぐる回る」というト書きと呼応して、スピーカーから聴こえる声と映像内の人影がぐるぐる回り出す。生身の俳優はいないのに、目に見えない亡霊のような気配に取り囲まれているような感覚だ。通常の観劇体験のように、ある一定の距離を隔てて舞台を一方的に「見る」のではなく、舞台上で生起する出来事のただ中に身を置いているかのような錯覚に包まれる。
劇中、すれ違いを続ける二人の気持ちが、同じ方向へリンクする幸福な瞬間がある。ふとした言葉のきっかけから、二人が空想の鎌倉旅行に行く「ごっこ遊び」が始まるのだ。キャラメル、サンドウィッチ、カルピスといったハイカラな食べ物、タクシーや海浜ホテルといった贅沢な装置が登場し、二人は海で戯れる。この瞬間だけ、映像ははっきりとした海のイメージを結ぶ。しかし、会話が再びほころび始めると、モニターは唇や手足のアップといった身体の断片しか映さない。揺れ動く二人の感情の強度やベクトルに合わせて、映像イメージやその出力レベルが変化していく。
本作で用いられているのは、岸田國士の三つのテクスト、すなわち『紙風船』(1925年)と『動員挿話』(1927年)という戯曲二本と、岸田が大政翼賛会文化部長に就任時に書いた「大政翼賛会と文化問題」(1941年)である。ここで、あごうの関心は以下の二軸にまたがっている:(1)演劇の複製の(不)可能性、(2)岸田のテクストの(不)連続性。この2軸は、「観客の身体」という相において最終的に交差し、祝祭性や一体感、感情喚起力といった、演劇が観客の身体や感情に働きかける根源的な力を明らかにする。
まず、(1)演劇の複製の(不)可能性について。あごうは、生身の俳優の身体的現前を消去することで、演劇を構成する力学それ自体の可視化を試みる。テクスト(ト書きと台詞)、音声、映像(俳優の身体の動き/想像内の心的イメージ)。演劇を構成要素に分解し、空間的に再配置することで、(単なる記録映像にとどまらない)各要素の有機的な関係が立ち上がる生成の空間を、観客に聴覚的・視覚的・身体的に体験させるのだ。
同時に、ナマの観劇体験とは異なる質感が立ち上がる。例えば、俳優の発した台詞は、「録音された声」、すなわち「過去」のものであり、発した身体から切り離された声は、反復・再生可能であるとともに、エコーなど機械による変形や加工が加えられ、物質化していく。
このように、複製技術の使用によって何度でも反復・再生可能な「上演」のただ中にあって、唯一複製不可能なもの、それは、(通常の観劇体験においては意識から遮断されている)観客自身の身体である。視線の拡散や気ままな歩行といった、観客の身体の様々な揺らぎ。本作において、視線を一定方向に束縛するプロセニアム型の対面舞台ではなく、客席がなく「自由に」歩き回れるという鑑賞形式が設定された必然性がここにある。あごうの試みにおいて、「演劇」の「一回性」を担保するのは、この観客の身体なのだ。しかし、観客自身の身体性への自覚は、(逆説的にも)「大政翼賛会と文化問題」という岸田のテクストへの暴力的な介入によって達成された。
そしてここに、(2)岸田のテクストの(不)連続性が関わってくる。『紙風船』のラストに、唐突に接続されるもうひとつの戯曲『動員挿話』。台詞だけを見ると、コミュニケーションのズレを埋められない夫婦の日常会話の続きのように見えるが、実は後者は、日露戦争への出征をめぐって、上官に従う決心をした夫と引き留めたい妻の間で交わされた会話なのである。地続きに見える二つの会話の間に横たわる、「戦争」の見えにくさ。そして終盤、大音量のダンスミュージックがかかる中、「大政翼賛会と文化問題」のテクストが壁一面に映され、朗読する声がDJ風に流される。ト書きは告げる。「人々、立ち上がってリズムをとり始める」「人々、一体感に包まれる」。私が観劇した回では、軽く身体をゆする観客はいたが、皆が一体となって音楽にノる祝祭的な空気は生まれなかった。これは、戦前の大衆心理の熱狂的空間を出現させるという演出上の仕掛けとしては、「失敗」かもしれない。
しかし、「観客の行動の心理的・身体的な誘導」があらかじめ劇の「台本」に指示として書き込まれていることは、逆説的に、演劇的空間における圧力の存在を露呈させる。観客が劇場内でどのように振る舞うべきかを規定し、扇情的な言葉や音楽にノることで一体感を醸成しようとする圧力が、演劇的空間には潜在すること。それを自覚するとき、観客の身体は、一定方向へ誘導する力に支配される危うさに晒されつつも、ささやかな抵抗になりうるかもしれない。「劇場外」と地続きの私たちのリアルな身体と思考に働きかけてこそ、演劇の持つ批評的な力は正当に発揮されるべきなのだから。

2015/12/19(土)(高嶋慈)

岡崎藝術座『イスラ!イスラ!イスラ!』

会期:2015/12/17~2016/12/20

京都芸術センター[京都府]

岡崎藝術座を主宰する神里雄大の書くテクストは、戯曲というよりむしろ小説を朗読しているように聴こえる。一人称の視点で語られる長大なモノローグ。詩の言語のように、唐突に接合される語句と語句。その飛躍や比喩の密度は詩的なイマジネーションを喚起し、畳みかけるような演説調の語りとあいまって、俳優の身体から発せられる言葉の熱量を高めていく。
本作『イスラ!イスラ!イスラ!』では、「イスラ(スペイン語で「島」の意)」を連呼するタイトルが示すように、「諸君!」という呼びかけで始まる長大な「演説」という体裁を取ったモノローグが、5人の俳優によって順番に語られていく。水槽や観葉植物、紐のれんが設置され、枠組みだけのドアで内と外を区切られ、「室内」に見立てられた空間に、5人の俳優たちは履き物を脱いであがる。彼らは動物や鳥をかたどった呪術的でカラフルな仮面をかぶっているが、服装はTシャツや綿パンなどカジュアルで現代的だ。動物や鳥の鳴き声を口々にたてた喧騒の時間の後、仮面の語り手たちは、一人ずつ順番に長大なモノローグを語っていく。それは、遥か古代から現代に至るまでの、ある「島」の壮大な歴史である。
意識が世界から分離する以前の、混沌とした、悠久の、神話的な時間。大海原と溶け合って波間を漂う何者かの意識は、やがて海流に運ばれ、ある島に漂着する。意識の覚醒。それは人格神のような存在であり(プライドが高く喜怒哀楽が実に豊かだ)、「王」を名乗って統治を始め、「野蛮」で「言葉を介さない」島民たちに「第1号」「第2号」「第4号」……と番号を振って管理下に置こうとする。統治の第一段階は、文明化に費やされる。学校、病院、監獄といった施設を建て、教育を施し、「清潔」や「善悪」の観念を植え付けようと奮闘する。
第二段階では、異質な外部との接触による様々な変化が島にもたらされる。たまたま漂着して島に根付き、産業化や観光化といった「発展」をもくろむ者、捕鯨船の拠点や貿易の話をもちかける者。外部からの移住者も増え、様々な文化や言語が持ち込まれる。そして第三段階では、この島にも加速する近代化の波が押し寄せ、戦争による爆撃や開発・埋め立てによる「私の身体」の変容が語られる。つまり、一人称の話者は、「島」そのものであることが明かされるのだ。
時代の変遷とともに交替する語り手は、交替の度に、歌や足踏みといった儀式的所作が繰り返されることで、「王」すなわち統治者の代替わりを思わせる。それは、祖霊信仰やアニミズムのように、死者の魂が島全体と一体化していることを示唆し、そうした地霊のような島の声は、仮面をかぶってヒトならざる者へと変化(へんげ)した語り手によって、私たちの元に送り届けられる。その声は、文明化に始まり、交易、移民、産業化、植民地、戦争、開発といった人類の歴史が凝縮された物語の内に、多人種・多言語・多文化の交錯する島の姿を描き出すとともに、人間中心的な視点を相対化してみせる。
そうした架空の島の歴史を想像することは、詩的跳躍力を豊潤に湛えた言葉により誘われつつも、一方で、目の前で繰り広げられる光景との落差が、想像力の駆動に絶えず介入し、演劇的なイリュージョンの生成を拒む。豊穣な詩的言語が想像へ誘う引力に対して、目の前の物理的空間や俳優の身体的現前が、絶えず現実へと引き戻そうとする斥力のように働き、一種の異化作用をもたらすのだ。履き物を脱いであがる、日本のワンルームの室内空間。カジュアルな普段着。とりわけ、劇中でただ一人、終始、足漕ぎペダルで自家発電を行なってライトを点灯し続ける俳優が、特異な存在感を放つ。俳優の肉体によって現前で行なわれ続ける労働は、「光」を生み出すが、それはアニミズム的な「神」の威光を示す装置であると同時に、この閉鎖的な室内空間をあるがままに照らし出す。多人種・多言語・多文化の混淆した、ある種のユートピアとしてのハイブリッドな「島」への想像と、しかし、「ここ日本の平均的な日常空間」という閉鎖空間にあってはいかにそれが困難か、ということが同時に露呈されている。だから終幕で、俳優たちは履き物を履いて敷居をまたぎ、舞台設定としての「部屋」、「ハコ」としての劇場、さらには閉じた想像力という閉鎖空間の「外部」へとつながる通路を求めて、歩き去っていくのだ。

2015/12/19(土)(高嶋慈)