artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

フェスティバル/トーキョー15 ギンタースドルファー/クラーセン『LOGOBI 06』

会期:2015/11/26~2015/11/29

アサヒ・アートスクエア[東京都]

ギンタースドルファー演出のLOGOBI06@アサヒ・アートスクエアも面白い。コートジボワールからパリに移住したフランクと日本人の石井丈雄が、ダンスと言葉で会話しながら、即興で踊る。笑いの要素も多く楽しいが、同時に2人の身体性の違いも明瞭に浮上する。岡田や「颱風奇譚」などの日韓作品と同様、F/T15のテーマ「融解する境界」に沿った作品と言えるだろう。

2015/11/29(日)(五十嵐太郎)

フェスティバル/トーキョー15「颱風奇譚태풍기담」

会期:2015/11/26~2015/11/29

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

ソン・ギウン×多田淳之介「颱風奇譚」@東京芸術劇場。これは傑作である。シェイクスピアの「テンペスト」を下敷きに、1920年代の植民地主義下における朝鮮と日本を主題とした物語に変えている。二カ国語(さらに発話者の母国語/外国語に分節)と東北弁と魔術的なボイスが混在しつつ、重層的に練り上げられた人/国家/島の関係が緊張感を生む。

2015/11/29(日)(五十嵐太郎)

篠田千明『非劇 Higeki』

会期:2015/11/27~2015/11/29

吉祥寺シアター[東京都]

20145年にこじきのロボットと人間が空港で出会う物語。齋藤桂太の脚本はつぎはぎ感があり、すっと理解ができるわけじゃないから、わからない部分4割を残しながら芝居の時が過ぎていく。けれども、あるときハッとしたのは、まさにこれは『非劇』なのだ、ということ。劇にあらず。役者たちが登場し、一見ある物語を進めているかに見えるのだが、役者たちの役は一人を残してロボットばかり。一般的な劇が人間の心の姿をベースにお話が進むとするならば、ロボットたちのお話はそこに心の姿を探しても、うまく像が結べなくて当然なのだ。死を回避する手術を施された人間たちが(擬似的)死を体験したいがために、テロをあちこちに起こしていくという話も出てくるが、これもヒューマニズムを基にした共感のうちに落とし込むわけじゃなくて、だから、心を消した者たちの姿が淡々と描かれる。こんなことが可能なのは、乱暴な説だが、篠田が福留麻里やAokidといったダンサーを役者として起用したことと関連があるのではなかろうか。「共感」とは異なる仕方で、舞台が揺れ動き、その揺れ動く時間を成立させようとすれば、それは行為(役者たちの身体の運動)それ自体がその場を埋めていくということになるだろう。そして、その際、場を質的に満たすには、身体が放つ説得力に訴えるほかない。「劇にあらず」であるならば、「じゃあなにか」というとそういうことになる──ということはどういうことか。岡田利規の『God Bless Baseball』も捩子ぴじんの参加で、独特の時間が生まれていた。演劇が演劇を突き破って、その場でしか起きないことに賭けるとき、ダンサーの身体が起用される。現況において、演劇に比してダンスの分野は元気がないかのようにも見えるけれど、いや、けっしてそんなことはないはずだ。ダンスはいまむしろ求められている。けれども、それはオーセンティックな、ゆえに言語に近いダンスではなく、得体の知れない、非社会的で、言語から程遠い身体の密度を示すダンスだろう。舞踏をはじめ、ある種のダンスたちが取り組んできた「非人間性」の露出への要請が、現在の舞台芸術のなかに起きているのではないだろうか。


非劇 Higeki 予告編


2015/11/29(日)(木村覚)

川口隆夫ソロダンスパフォーマンス『大野一雄について』

会期:2015/11/28

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

故・大野一雄の残された公演の記録映像から、川口隆夫が動きを分析して再現し、「完全コピー」を試みるという公演。土方巽の演出による大野の代表的な3作品、『ラ・アルヘンチーナ頌』(1977年)、『私のお母さん』(1981年)、『死海、ウィンナーワルツと幽霊』(1985年)、そして1969年の映画『O氏の肖像』が参照された。
冒頭、劇場のバックステージに通された観客は、ブルーシートや木の枝、ホースや脚立、ペットボトルや雑多なゴミと戯れる川口の姿を目撃する。観客も巻き込んで無邪気にゴミと戯れる川口は、突然、服を脱ぐとゴミを身にまとい、着ぶくれしたホームレスのような奇怪な姿で劇場の中へ姿を消した。鳴り響くバッハのオルガン曲と「『ラ・アルヘンチーナ頌』 1977年 死と誕生」という字幕。観客は舞台上に仮設された席に案内され、空っぽの劇場の客席に向かい合う。その闇の中から、ゴミを脱ぎ捨て、生の身体を露わにした川口が現われる。『ラ・アルヘンチーナ頌』が約10年間、舞台公演から遠ざかっていた大野の「復帰」公演であったこと、ジュネの戯曲を参照して土方が与えた「年老いて病んだ男娼」という役柄、そして川口の身体へと再び召喚される大野……複数の「復活」の意味が重層的にはらまれた、印象的な幕開けだ。舞台上には、ラックに掛けられたさまざまな舞台衣裳、帽子や靴などの小道具、全身を映すスタンドミラーが用意されている。川口は、舞台上で着替えやメイクを行ないながら、各10分ほどの抜粋されたシーンを次々と踊っていく。手に持った一輪の花を力強く天に捧げる、磔刑のようなポーズでグランドピアノにもたれかかり、息絶え絶えに肺を上下させる、哀愁を帯びたタンゴの調べとともに無邪気な幼女のように軽やかに舞いながら、何かを探し求めるかのように両手を震わせる……。
ここで、「大野一雄の完全コピー」という企てに挑む川口は、それが単なる「精巧なモノマネ」の域に堕さぬよう、「作品」として成立させるために、いくつかのメタ的な仕掛けを戦略的に展開している。まず、観客自身を舞台に上げ、空っぽの客席に相対させることで、劇場という空間の虚構性を否応なしに意識させる。また、「冒頭で川口自身の肉体を観客の目にさらす」「衣装の着替えやメイクという変身のプロセスを舞台上で見せる」ことによって、「ここで踊っているのは大野一雄です(ということにしてあります)」と記号的に了解することを妨げる。つまり、「川口隆夫」という身体の固有性を消去して見るのではなく、「川口隆夫」という身体の肉体的現前とここにはいない不在の大野とを常に二重写しになった状態で見るように要請するのだ。だがそれは完全に一致することはない。大野という強烈な個性を持った肉体の特異性に加えて、即興性や「加齢・老齢」というファクターも存在するからだ。したがって川口の試みは、大野一雄という固有の強烈な肉体を離れても、その「振付」の強度の持続は可能かという問いへと向かう。そのエッセンスを抽出するために、記録映像から川口が描き起こした、ポーズのデッサンに詳細なメモが付された舞踏譜も展示された。
振付の強度を抽出する川口の実験的な試みは、「大野一雄」を脱神話化しつつ、現実の時空間の中に再び受肉化するという両義的な性格をはらんでいる。本人からの「振り写し」ではなく、記録映像という媒体を通した客観化・解体の作業は、「魂」「宇宙」といった内面論・精神論や「大野自身の語った言葉」の呪縛からダンスを解き放つ試みでもある。それはまた、オリジナル/コピーという二元論(およびそこに付随する質的判断)を超えて、もはや映像の中にしか存在しない大野の踊りを、ふたたび今・ここへと受肉化する試みであり、生身の肉体的現前によってその都度命を吹き込まれる舞台芸術の原理性そのものを照らし出す。さらには、「型の反復や身体的トレースによる本質の会得」という点では、コンテンポラリーダンスと古典芸能の隔たりを架橋する観点を提出するものと言えるだろう。
このように、川口の作品は、「オリジナルとコピー」「型の反復、身体的トレース」「コンテンポラリーダンスと古典芸能」「振付という概念」「舞台芸術とアーカイブ(映像)」「一回性と複製」など、身体的パフォーマンスに関する広大な問題圏を提示するという意味で、優れてメタダンス的な作品である。

2015/11/28(土)(高嶋慈)

岡田利規『God Bless Baseball』

会期:2015/11/19~2015/11/29

あうるすぽっと[東京都]

岡田利規の演劇には、独特の退屈な時間がある。「退屈」というと語弊があるけれど、照明が暗めになり、眠くなる時間がしばしば後半に用意されている。「クライマックス」へ向かうためにはむしろテンションを上げるべきなのだが、劇的葛藤のようなわかりやすい盛り上がりの代わりに、たとえば今作では、ダンスのワークショップみたいな時間がはじまるのだ。ここに岡田の賭けがある。この作品は、日韓米三国の関係性が、野球を焦点に語られる。野球のルールがわからない女の子(韓国人と日本人の女優)と野球は好きじゃないが父に促されて少年時代に野球をやっていた男性、彼らの視点を通して見えてくる野球は必ずしも目新しいものではない。ゆえに、日韓米の関係性もさして目新しくはない。岡田らしさは、野球をめぐる語りにおいて、いつのまにか日本人と思っていた(日本語を話す)女優が韓国人の女の子を演じていたり、韓国人と思っていた(韓国語を話す)男優が日本人の男の子を演じていたりするというところにある。これが今作において単なる岡田流演劇法に収まらないのは、このように「入れ替えて演じる」ことが、単に書かれた物語を伝える演劇であることを超えて、実際に両国の役者が他国の登場人物を演じたらという想像の実演(パフォーマンス)になっているからだ。実際にやってみるということ。実際にやってみれば、日本人の役者が韓国人を演じることもできるということがわかる。けれども、やってみなければこの可能性は永遠に現実のものとはならない。これを「じゃあ韓国人である君が、日本人の◯◯くんを演じてみようか」などというセリフとともに、入れ替えの芝居にしてしまえば演劇にはなるのだが、今作での岡田の意図は達成されないだろう。演劇という舞台の場で、「実際にやってみること」(パフォーマンス)は可能か、これが今作で岡田が挑戦したトライアルだと筆者は考える。その点で、捩子ぴじんが参加した意味は大きい。彼はバットを持って登場すると、イチローのモノマネでYouTubeの人気者「ニッチロー」の映像を繰り返し見て覚えたといって、イチローのモノマネを披露する。そのモノマネは緻密に仕上げられていて、舞台にイチローが降臨していると錯覚するような感覚を与える。捩子はイチローを実際にやってみるだけではなく、自分はバットと一体化した人間だと豪語して、その一体化した状態を実際に示してみせる。あるいは、この捩子=「イチロー」は、体の部分が自分ではなくなり、その部位がどんどん増えてゆくというダンスのワークショップのようなものを3人に促す。これは〈アメリカの軍事力という傘に入ることで自分たちの主体性が失われている〉ということのメタファーなのだが、セリフで描出するのではなく「自分ではなくなる」状態を「実際にやってみる」のだ。これは確かに賭けだ。演劇において役者の身体の状態は「ということにしてあります」と記号的な理解ができたら、それでよい。苦しみの演技だったら「苦しんでいるんだな」と観客が思えれば演技としてOKなはず。しかし、ここでは実際に身体に変容が起きなければならない。その点で、この時間は演劇ではなく、あえて言えば「ダンス」あるいは「パフォーマンス」の時間だ。ラストの天空に掲げられていた巨大な円形のオブジェに、水をかけるシーンもそうだ。このオブジェがなにかのメタファーなのかはっきりと示唆されているわけではない。ただし最初白かったそれが次第に白が剥げて素材の地が見えてくるところから、「自分ではなくなった」状態から自分へと戻すことのメタファーとして読める。しかし大事なのは、それをそう「読むこと」よりも、水をかけていくうちに次第に剥がれていく、その物理的な変容を「見つめること」だろう。この時間は退屈だ。言い換えれば、観客にとって能動的な鑑賞が促される時間だ。岡田の本領はそこにある。「実際にやってみる」という促しは鑑賞のみならず、観客の生へ向けた問いかけでもあるはず。想像の実演は私たちの課題なのだ。

2015/11/27(金)(木村覚)