artscapeレビュー

あごうさとし『純粋言語を巡る物語──バベルの塔II──』

2016年01月15日号

会期:2015/12/18~2016/12/21

アトリエ劇研[京都府]

劇場空間の中央の床に、約3m四方の白い正方形が敷かれている。4つの角に置かれた、背丈ほどの高さの4つのスピーカー。対角線上には、同じく背丈ほどの高さで縦長のモニターが向かい合う。その周囲を取り囲むように、さらに4つの横長のモニターが置かれ、正面の壁一面に映像がプロジェクションされる。客席はなく、観客は自由に移動して好きな場所から眺めることができる。スピーカーやモニター、すなわち音声と映像の再生装置に取り囲まれたこの奇妙な空間で「上演」されるのが、本作である。ここでは生身の俳優はいっさい登場しない。
開演のアナウンスの後、あちこちに散在したモニターに、ト書きが字幕で映し出される。「人物 夫 妻」「時 晴れた日曜の午後」「所 庭に面した座敷」。そして「台詞」が正面の壁一面にプロジェクションされる。ヒマを持て余した日曜の午後、倦怠期を迎え、自分の気持ちが相手にうまく伝わらないことに互いに苛立ち、すれ違いの会話を続ける夫と妻。ト書きを見ると、「二人は対角線上に対峙する」とあり、対角線上に向かい合ったスピーカーからそれぞれ「夫」と「妻」の声が流れ出す。「不在」の俳優の代わりに擬人化されたスピーカー、その位置関係と距離が、本来二人の間に横たわっている空間性を「再現」する。さらに、対角線上に設置された縦長のモニターにも、「夫」と「妻」らしき人影がぼんやりと映し出されるが、顔はぼやけてはっきりと識別できない。だんだんと、苛立ちをつのらせる二人。モニターに表示された、「妻は夫の周りをぐるぐる回る」というト書きと呼応して、スピーカーから聴こえる声と映像内の人影がぐるぐる回り出す。生身の俳優はいないのに、目に見えない亡霊のような気配に取り囲まれているような感覚だ。通常の観劇体験のように、ある一定の距離を隔てて舞台を一方的に「見る」のではなく、舞台上で生起する出来事のただ中に身を置いているかのような錯覚に包まれる。
劇中、すれ違いを続ける二人の気持ちが、同じ方向へリンクする幸福な瞬間がある。ふとした言葉のきっかけから、二人が空想の鎌倉旅行に行く「ごっこ遊び」が始まるのだ。キャラメル、サンドウィッチ、カルピスといったハイカラな食べ物、タクシーや海浜ホテルといった贅沢な装置が登場し、二人は海で戯れる。この瞬間だけ、映像ははっきりとした海のイメージを結ぶ。しかし、会話が再びほころび始めると、モニターは唇や手足のアップといった身体の断片しか映さない。揺れ動く二人の感情の強度やベクトルに合わせて、映像イメージやその出力レベルが変化していく。
本作で用いられているのは、岸田國士の三つのテクスト、すなわち『紙風船』(1925年)と『動員挿話』(1927年)という戯曲二本と、岸田が大政翼賛会文化部長に就任時に書いた「大政翼賛会と文化問題」(1941年)である。ここで、あごうの関心は以下の二軸にまたがっている:(1)演劇の複製の(不)可能性、(2)岸田のテクストの(不)連続性。この2軸は、「観客の身体」という相において最終的に交差し、祝祭性や一体感、感情喚起力といった、演劇が観客の身体や感情に働きかける根源的な力を明らかにする。
まず、(1)演劇の複製の(不)可能性について。あごうは、生身の俳優の身体的現前を消去することで、演劇を構成する力学それ自体の可視化を試みる。テクスト(ト書きと台詞)、音声、映像(俳優の身体の動き/想像内の心的イメージ)。演劇を構成要素に分解し、空間的に再配置することで、(単なる記録映像にとどまらない)各要素の有機的な関係が立ち上がる生成の空間を、観客に聴覚的・視覚的・身体的に体験させるのだ。
同時に、ナマの観劇体験とは異なる質感が立ち上がる。例えば、俳優の発した台詞は、「録音された声」、すなわち「過去」のものであり、発した身体から切り離された声は、反復・再生可能であるとともに、エコーなど機械による変形や加工が加えられ、物質化していく。
このように、複製技術の使用によって何度でも反復・再生可能な「上演」のただ中にあって、唯一複製不可能なもの、それは、(通常の観劇体験においては意識から遮断されている)観客自身の身体である。視線の拡散や気ままな歩行といった、観客の身体の様々な揺らぎ。本作において、視線を一定方向に束縛するプロセニアム型の対面舞台ではなく、客席がなく「自由に」歩き回れるという鑑賞形式が設定された必然性がここにある。あごうの試みにおいて、「演劇」の「一回性」を担保するのは、この観客の身体なのだ。しかし、観客自身の身体性への自覚は、(逆説的にも)「大政翼賛会と文化問題」という岸田のテクストへの暴力的な介入によって達成された。
そしてここに、(2)岸田のテクストの(不)連続性が関わってくる。『紙風船』のラストに、唐突に接続されるもうひとつの戯曲『動員挿話』。台詞だけを見ると、コミュニケーションのズレを埋められない夫婦の日常会話の続きのように見えるが、実は後者は、日露戦争への出征をめぐって、上官に従う決心をした夫と引き留めたい妻の間で交わされた会話なのである。地続きに見える二つの会話の間に横たわる、「戦争」の見えにくさ。そして終盤、大音量のダンスミュージックがかかる中、「大政翼賛会と文化問題」のテクストが壁一面に映され、朗読する声がDJ風に流される。ト書きは告げる。「人々、立ち上がってリズムをとり始める」「人々、一体感に包まれる」。私が観劇した回では、軽く身体をゆする観客はいたが、皆が一体となって音楽にノる祝祭的な空気は生まれなかった。これは、戦前の大衆心理の熱狂的空間を出現させるという演出上の仕掛けとしては、「失敗」かもしれない。
しかし、「観客の行動の心理的・身体的な誘導」があらかじめ劇の「台本」に指示として書き込まれていることは、逆説的に、演劇的空間における圧力の存在を露呈させる。観客が劇場内でどのように振る舞うべきかを規定し、扇情的な言葉や音楽にノることで一体感を醸成しようとする圧力が、演劇的空間には潜在すること。それを自覚するとき、観客の身体は、一定方向へ誘導する力に支配される危うさに晒されつつも、ささやかな抵抗になりうるかもしれない。「劇場外」と地続きの私たちのリアルな身体と思考に働きかけてこそ、演劇の持つ批評的な力は正当に発揮されるべきなのだから。

2015/12/19(土)(高嶋慈)

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