artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

Dance Fanfare Kyoto 03 『Don't look back in anger. Don't be long 時化た顔で振り向くな、早くおうちに帰っておいで』

会期:2015/05/30~2015/05/31

元・立誠小学校[京都府]

関西の若手ダンサーと制作者による実験的な企画を通して、関西ダンスシーンの活性化をはかるDance Fanfare Kyotoが、今年で3年目を迎えた。特徴のひとつとして、演劇、音楽、美術などダンス以外の領域の表現者とのコラボレーションに積極的なことが挙げられ、本作はPROGRAM 02「美術×ダンス」として上演された。
それぞれ卓球台とバスケットゴール板に見立てられた、水平と垂直の2枚のキャンバス。2人のペインター(鬣恒太郎、神馬啓佑)がライブペインティングを行なうなか、男女のダンサー(倉田翠、渡邉尚)が水平に置かれたキャンバス上でデュオを展開していく。ペインターとダンサーは水平の台=キャンバスという空間を共有しつつも、描画とデュオの振付はそれぞれ独立した行為として行なわれる。ペインターが青い絵具を塗る。無関係に動くダンサーの手足、胴体、頭が塗られた面を多方向に展開していく。白い絵具が置かれる。ダンサーの滑った手足の軌跡が新たな線を生成させていく。
絵画におけるストロークは画家の身体の痕跡であり、とりわけ抽象絵画と身体性の関係はひとつのトピックを成してきた。本作において、水平に置かれたキャンバス上で描画行為が行なわれることも、ポロックや白髪一雄のペインティングへの参照を示している。ただしそこに、ダンサーという他者の身体を招き入れることで、身体の痕跡は二重化される。ペインターの描いた線は、ダンサーの身体とキャンバスの接触によってその都度引き直され、一方でダンサーの身体は絵具=物質によって滑ってしまい、振付けられた動きを完全に制御できなくなる。
このように本作では、ペインターとダンサーがお互いに干渉し合うことで、予測不可能な生成のダイナミズムがより増幅される。さらに第三項として、「スポーツ」の要素が投入されていた。キャンバス=卓球台/バスケットゴール板への見立てのみならず、体操着を着た出演者たちによって実際のプレイも行なわれるのだ。バスケットボールやピンポン球の動きがダンサー/ペインターの動きを誘発・撹拌するという作用は面白いが、「スポーツ」である演出の必然性がどこまであるのかがやや不透明だった。むしろ、スリリングで目を惹かれたのは、倉田と渡邉のデュオである。相手の体を手足で支え、物体のように動かそうとする。動く/動かされるベクトルや主導権が絶えず入れ替わる緊張感。限られたスペースで横たえた体を密着させてはいるが、アクロバティックな硬質さを感じさせるなかに、次第に絵具でまみれていく様子がふとエロティックに見えてしまう。そうした相反する要素を醸し出しながら、強い意志に満ちた身体があった。


「Don’t look back in anger. Don’t be long」 撮影:Yuki Moriya


ホームページ:URL:http://dancefanfarekyoto.info/

2015/05/30(土)(高嶋慈)

Dance Fanfare Kyoto 03 塚原悠也『Hurricane Thunder / Super Conceptual Dance no.001』

会期:2015/05/30~2015/05/31

元・立誠小学校[京都府]

Dance Fanfare Kyoto 03の企画プログラムの一つとして上演された本作は、塚原悠也を含むcontact Gonzoのメンバー4人とダンサー1名が出演。ブルーシートが敷かれ、段ボールや機材、椅子、ついたて、ゴミ箱、工具などが置かれた、舞台裏か設営作業途中のような空間で展開された。5人は淡々と、引っ越し作業のように段ボールや機材などを運び出し、雑多にモノが置かれた空間を片付けていく。「まもなく暗転が入ります」というアナウンスが聞こえると、1人が静かに倒れ、暗転と同時にノイズが入ると、残り全員が静止して固まる。これが数回繰り返されるほかは、特に劇的なことは(途中一回を除いては)起こらず、黙々と作業が続けられる。時折、アイマスクを付けて作業する人がいたり、工具で椅子を分解して音を立てるなど、変則的な出来事が差し挟まれる。
本作は、昨年のKYOTO EXPERIMENT 2014で上演された「xapaxnannan(ザパックス・ナンナン):私たちの未来のスポーツ」での試みを引き継ぐと言える。眼前での肉体の生々しい衝突に巻き込むのではなく、ある設定された「舞台装置」の中で、明確には把握不可能な「ルール」の存在をほのめかしつつ、反復的な行為に従事し続けるというものだ。実際の巨大スタジアムで上演された「xapaxnannan」では、グラウンドと観客スタンド、パフォーマーと観客との圧倒的な距離を架橋するために、音響的な仕掛けが用意されていた。ラグビーと鬼ごっこの中間のような不可解なゲームに従事するパフォーマーたちの姿は遠く隔てられているが、一人だけピンマイクを身に付けて観客に「声」を届けられる特権的なパフォーマーの存在によって、荒い息遣いが彼らの運動量や肉体への負荷を聴覚的に伝達していた。
対して本作では、舞台中央に置かれた2台のモニターという視覚的な仕掛けが用意されている。モニターには、舞台上で淡々と行なわれている行為が同時中継されるが、観客には見えないアングルから映されたり、カメラ自体もパフォーマーによって移動されることで、複数の視点や運動によってむしろ分断・撹乱される。また、終盤にパフォーマー同士の絡みがあるものの、即興的に肉体をぶつけ合うというより、格闘ゲームのノリを寸止めのマイムでやっているようなゲーム性の強いものだった。
contact Gonzoの魅力として、肉体同士の激しいぶつかり合いによって生まれる、即興的で予測不可能な動きの多様性や揺らぎ、スピード感を、観客としての安全な立ち位置を脅かされるほどの近さで身体的に感取できる点がある。「xapaxnannan」を経て本作では、そうしたリアルな身体の現前から、よりゲーム性やメタ的性格の強調へと移行しつつあると言える。「xapaxnannan」では、ゲームのルール=振付と読み替えることで、スポーツと身体芸術の同質性と差異を問いかけ、熱狂やスペクタクルの欠如によってスポーツの政治性を脱臼させていた。一方、舞台裏をさらけ出したような空間で展開される本作では、舞台裏/表の空間の反転と片付け作業=タスクの遂行を通して、舞台芸術という制度をズラすことが企てられていたと言えよう。「Super Conceptual Dance no.001」と銘打たれたこの試みが、今後どう展開されていくのか期待したい。


「Hurricane Thunder / Super Conceptual Dance no.001」 撮影:Yuki Moriya


ホームページ:URL:http://dancefanfarekyoto.info/

2015/05/30(土)(高嶋慈)

岩井秀人×快快『再生』

会期:2015/05/21~2015/05/30

KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

多田淳之介原作の『再生』は、同じパフォーマンスを3回繰り返す。90分の舞台。ゆえに30分の同じパフォーマンスを演者は3回行ない、観客は3回見る。この最小限のしつらえに、1回目は戸惑い、2回目は親しみを感じ、3回目は応援したくなってしまう。不思議だ。普通、同じ舞台を3回繰り返したりはしない。音楽だって同じ曲を3回演奏しないだろうし、映画だってそうだろう。演者も観客も〈再生の牢獄〉にいて、3回繰り返すことの退屈と悲惨を共に生きる。いや、快快ら演者たちは10日で10回もこの3セットをこなしていくのだから、30回分の3に観客はつき合ったに過ぎないのだ。などとつい〈過酷なトレーニング〉のように本作を形容してしまうのは、パフォーマンスがかなり激しいからで、アップテンポの曲が大音量で流れるなか、7人の演者たちは緻密に組み合わされたダンスをひたすら踊りまくる。ペットボトルが舞台に転がる。役名は見当たらず、快快ら演者たちはSFアニメのキャラクターのような出で立ちで、絶叫し、観客を煽り、激しくてユーモラスでかわいくもある踊りを踊りまくる。劇場の構造がそう想像させたのかもしれないが、アリ地獄に落ちたアリのような、踊り地獄。長時間踊りつづける舞台ならば、クリウィムバアニーが300分の作品を上演しているし、映画だったら『ショアー』がある。渡辺謙は『王様と私』3時間の舞台をマチネとソワレを合わせ1日で計6時間演じていたらしい。だから90分で疲労しちゃいけないよとも思うのだが、時間が進むごとに疲労が蓄積されていくさまこそ、この作品の構成要素なのである。時間が経過するにつれ、舞台がどんどん有酸素運動の場に見えてくる。1回目はただの混沌としてしか映っていなかった構成が、2回目になると緻密に組み合わされたものであると気づくようになる。そうすると踊りが際立ってくる。テンテンコ(ex.Bis)のゆるいダンスに目が引きつけられる。周りが疲労していくぶん、がんばらないダンスが際立ってくる。3回目は誰のどのダンスも形が崩れ、できない体がむき出しにされる。面白かったのは、二度ほど音量が絞られたこと。絞られると演者たちのぜーぜーいう声があらわになる。いや、それだけではなく、どれだけ音楽がこの場を支配してきたのかもあらわになる。なるほど、この舞台の主役は、演者たちではなく、音楽なのではないか? 律儀に3回繰り返されるのは、なによりも再生装置から発せられる音楽であり、演者たちは音楽に促され踊るのだ。だとすれば、この〈3回の音楽再生とそれに操られた7人の人間たち〉の関係こそが本作の物語なのである。そのリアルでフィジカルな関係性の語りにとって、キャラの立った快快らメンバーは最適な演者だったといえるのかもしれない。けれども、これ、快快の舞台なのだろうかとも思う。彼らほどキャラが光っていなければ舞台の強度は保てないだろうが、快快の魅力の一部しか活用されていないのも事実だ。演者の実存に光を当てるという点は、確かに、一貫して快快が見せてきた部分ではあるけれども。

2015/05/27(水)(木村覚)

山海塾「海の賑わい陸の静寂──めぐり」

会期:2015/05/20~2015/05/31

世田谷パブリックシアター[東京都]

世田谷パブリックシアターにて、山海塾「海の賑わい陸の静寂──めぐり」を見る。その雄大な身体の動きは、舞踏が始まる前からすでに始まっており、終わってからもまだ続いているような雄大な時の流れを感じさせる。さすが40年の年季だ。西洋的でない身体が海外から注目される感じもよくわかる。特に痙攣と最後の挨拶の所作が印象的だった。

2015/05/24(日)(五十嵐太郎)

砂連尾理『猿とモルターレ』

会期:2015/05/23~2015/05/24

卸町イベント倉庫 ハトの家[宮城県]

砂連尾理の公演は、ここ数年、国内の舞台作家の公演のなかで群を抜いて見過ごせないものになっている。それは、彼が障害者とともに踊り、車椅子の老婦人と踊り、東日本大震災の被災地の人々と踊ってきたことと関連はあるけれども、そればかりではない。彼が目を背けないでいるのは、弱さを抱えた者ばかりではない。ダンスそのものにこそ彼のこだわりはある。このことは忘れてはいけない。砂連尾はダンスを更新しようとしている。他ならぬそのことにもっとも強い印象を受けた。冒頭で女(磯島未来)が1人、東北なまりで語りつつ、静かに踊る。はっきりとは聞き取れなかったのだが、どうも、「ここで起きたこと、ここでの死者のありようを確認しなければ……」と語っていたようだった。ほどなくして、喪服姿の男2人が現われる(砂連尾理と垣尾優)。2人は目隠しをして踊ったり、それぞれの動きを瞬時に模倣したり、椅子に腰を下ろし密着しながら互いが独り言を投げかけるような、シュルレアルな会話を行なったりした。ばかばかしくユーモラスにも映るが、立派な大人が血迷っているようにも見える。主としてその行為は、誰かを確認するというよりは、自分自身の身体のありようを確認しているのであり、自分の身体さえ不確かな真っ暗闇で必死に自分を捜している、まるでそんな時間だった。1960年代のポストモダン・ダンスに倣って、このアイディアを「タスク」と呼ぶこともできよう。「タスク」とは、いわゆるダンスに見えぬ日常的でシンプルな行ないをパフォーマーに課して、その行ないをパフォーマーに遂行させるという、非ダンス的にダンスを踊るためのアイディアである。そこには、妙技を披露する身体や、妙技を通して現われるイリュージョン(バレエなら「妖精」などを舞台に出現させるだろう)もない。代わりに、淡々とことをこなすだけの、ゆえに嘘いつわりのない「リテラルな(文字通りの)」身体の行ないが現われる。砂連尾の狙いのひとつがおおよそそこにあるのは間違いない。けれども、砂連尾はその身体の上に、喪服を着た男2人のドラマを据え置こうとするのだ。「タスク」のようなアイディアを通して、ダンサーたちは自分の「身の丈」をあらわにするダンスを踊る。できること、できないことが示される。しかし、そのうえで、2人の男は喪服姿で自分たちの任務を生きようともしている。2人の男の任務とは、要するに、3.11以後の世界を生きる仙台と向き合うことだろう。その難しさ、過酷さ。タイトルの『猿とモルターレ』は「salto mortale」(とんぼ返り、命がけの跳躍)の意味を帯びている。ユーモラスな姿をさらして、失笑も浴びながら、2人はこの不可能のダンスを淡々と踊りつづける。最後には、互いの足の裏を揉み、すると、事前に行なわれていたワークショップの参加者10人ほどが割って入り、大きな塊をつくった。互いの足裏を揉みながら、少しずつ、全体の形が変化していった。互いに足を揉んでいる様に、気持ち良さそうだなと思いつつ、その塊のこう着状態に、つい復興の進展が鈍化している社会の姿を透かし見てしまう。それでも進んでいくのだ。そんな意志を見たような気がした。

2015/05/24(日)(木村覚)