artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ドッグレッグス「障害リレーション」

会期:2015/01/10

北沢タウンホール[東京都]

これはダンスでも演劇でもなくパフォーマンス・アートでもない「障害者プロレス」である。ここにレビューを書くからといって、ぼくはこの興行を上演と呼び替えるつもりも、アートのように素晴らしいと言うつもりもない。むしろ逆で、どんな劇場公演もどんなアート表現も到達できていない高みを見た気がしたのだ。90年代前半から始まった老舗「障害者プロレス」団体ドッグレッグスの第88回興行。すでに90年代には天願大介監督によるドキュメント映画などで紹介されてきたドッグレッグスだが、初見のぼくがなにより驚いたのは、終始会場に爆笑の声が轟いていたことだった。全8試合。階級はライト級からミラクルヘビー級まで、体重差ではなく、障害の重さが階級を決める(無差別級もある)。第1試合はミラクルヘビー級、5人の選手は身体にマヒを抱えている。だからといって、この空間にはマヒの身体=不憫という意識は皆無。むしろ障害があるからこそ、彼らはこのリングに立てるのであって、障害はときに彼らのプライドでもあるようだ。そんな雰囲気を引き出しているのが実況の新垣女社長の名調子。プロレスはレスラーが2人いれば成立する。しかし、レスラーの潜在的な魅力を引き出す実況の力はプロレスファンにはおなじみのものなのだろうし、欠くべからざるものという面があるに違いない。新垣女社長は、年季の入った名調子でレスラーの魅力を引き出す。そして、障害者を笑うという普通であればありえない状況に観客を巻き込んでいく。例えば、三村広人の丸くたるんだ腹をひやかし、性格の悪さをキャラクター化した後で「バリア・フリーっていいますが、彼にはむしろバリアが欲しくなります」となじる。観客はこれに爆笑する。けれども、この笑いは嘲りの笑いではない。むしろ新垣女社長に促されて笑うことで、観客はレスラーを愚かというより愛おしいと思うようになり、ついつい応援の声が弾むこととなる。実況でとくに印象に残っているのは、レスラーを「障害者」という点だけでカテゴライズせず、性同一性障害や公務員であることやマラソンランナー、イケメンや引きこもりであることなど多様なカテゴリーでキャラ化していたことだ。そうやって一人一人の個性を引き出すことで、レスラーが「障害者」である以上に、観客と同じ地平に立つ「一人の人間」として見えてくる。いや、障害とともに生きている点では、健常者よりもタフな人間であり、その強さに魅了されてしまうのだ。最終ラウンドの鶴園誠と陽ノ道(齋藤陽道)の試合では、まさにそんな強さに圧倒させられた。砂漠に下半身が埋まっているかのような姿勢の鶴園に対し、陽ノ道は脚に拘束具を嵌めることで条件をほぼ同じにして闘う。とはいえ、柔軟に移動できる陽ノ道に比べれば、鶴園はまったく不利だ。それでも、余裕の台詞を吐きながら、ときに観客や相手を言葉でポーズで挑発しながら、鶴園は淡々と応戦する。その姿が引き起こす感動は、まさしく勇者のそれだった。障害者を笑い、愛し、尊敬するという仕掛けがこれほどうまくいっている他の事例をぼくは知らない。この「プロレス」力はひとつの発明だ。

2015/01/10(土)(木村覚)

メトロポリタン歌劇場「椿姫」

メトロポリタンオペラハウス(リンカーンセンター内)[アメリカ合衆国ニューヨーク市]

メトロポリタン歌劇場のオペラ「椿姫」は、とてもモダンな演出だった。華やかな館で着飾った男女が入り乱れるのではなく、壁が弧を描き、床が斜めに傾いた白い抽象的な空間にソファだけを置く。赤い服のヴィオレッタ一人に対し、何十名ものスーツ姿の男たちが登場する。むしろ、マリリン・モンローの「紳士は金髪がお好き」のシーンを彷彿させる。

2014/12/30(火)(五十嵐太郎)

メトロポリタン歌劇場「アイーダ」

メトロポリタンオペラハウス(リンカーンセンター内)[アメリカ合衆国ニューヨーク市]

ニューヨークへ移動する。朝に出発したのに、時差や飛行機の大幅な遅れで、リンカーンセンターのオペラ「アイーダ」に間一髪で到着する。椅子に座った瞬間に音楽が始まった。高さのある舞台を生かし、垂直方向に展開する舞台美術が、ど迫力。最後は、上下二段に空間をつくり、それぞれに物語が進む。いかにもエジプトらしい太い柱の神殿のイメージも再現している。このスペクタクル感、オリエンタリズム、そして過度なロマンは、映画の前身といえるだろう。

2014/12/29(月)(五十嵐太郎)

岩渕貞太×八木良太『タイムトラベル』(八木良太展「サイエンス/フィクション」×アート・コンプレックス2014)

会期:2014/12/23

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

岩渕貞太の身体は整っている──。運動を始める前の手首足首を回すみたいな仕草を、最近の岩渕は上演の最初によく行なう。ぼくはその時間が一番くらい好きだ。いや、一旦それが終われば、「岩渕の踊り」としか言いようのない独特の動きと静止に引きつけられてしまうのだけれど、動きが速くなって見る者の目が冷静さを欠き、ただ彼の動きの妙に心奪われてしまうその前の、どんな成分が含まれているかをその微妙な含有物までじっくり玩味できるこの「準備の時間」こそ、岩渕のスペックがじっくりと楽しめるから。八木良太が白い壁に10個ほどの時計を掛けていく。どれも違う時を示す時計。それとメトロノームをセットして八木が一旦退くと、この「準備の時間」になった。ダンスなのか準備体操なのかがあいまいな、緩んだなかにしっかりと美的な質を含んでいる動き。それは、音楽に喩えるならばホーミーのようで、身体に潜む多重性がそのまま身体に透けている。それはただ一瞬で終わる。そして岩渕が踊り始める。その踊りはわかりやすくはない。既視感に乏しい。それでいて、しかし、腑に落ちる。身体が「整っている」とは、その事態を指す。伝えたい形や躍動が整っているとともに、それを純粋に届けるための条件もまた整っている。すごい達成度だ。だからこそなのだろう、見ながら、この動きが仮に何かのための「器」だとしたら、すなわちこの美が「用の美」だとしたら、何に用いられるのが相応しいのか、そんなことを考えていた。本作は、八木の展覧会の企画上演である。ゆえに美術(アート)に用いられたさまがここに示されているわけだ。だとして、さて、この美はその「用」において最良の姿なのか……そんなことが頭をめぐる。さて、間に休憩が入って後半が始まると、半透明のスクリーンにさきほどのと同じ踊りを踊る岩渕が現われた。その後ろには岩渕本人もいる。〈映像の岩渕〉と〈生身の岩渕〉が並んだ。すると不思議なことに、〈映像の岩渕〉のほうに強度があると思わされた。前半、あれほど目を釘付けにさせられた生身の岩渕は、いまではあいまいなフォルムを生成する頼りない機械であり、対して〈映像の岩渕〉は堂々と揺るぎない。〈映像の岩渕〉は強い。そしてその強さは再生可能性にあると思わされた。(原理上)何度でも同じ動きを繰り返せる〈映像の岩渕〉は、精妙な動きをわけなく何度でも反復できる。これは察するに、レコードやヴィデオなど再生装置を美術の問題圏に持ち込む八木とのコラボレーションゆえの成果と推測する。確かに〈映像の岩渕〉は、自由に時間を操作され、ノイズを施され、複数化させられた。そんな強度を〈生身の岩渕〉は求めようともけっして得られない。〈生身の岩渕〉はだから生身の良さがあるとみるべきなのか、それとも、この強度こそ真に求めるべき何かなのか。この問いにここで結論が出たわけではない。ところでこの問いは、手塚夏子がプライベートトレースの上演群を試みたときに、すでに始まっていたものだろう。ぼくがBONUSのディレクターだからなどというせこい話ではなくて、映像とダンスの出会いこそここ数年のダンス分野における最大のイシューであるに違いない。本上演は、岩渕によるそのイシューに向けた第一歩なのかもしれない。

2014/12/23(火)(木村覚)

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Theater ZOU-NO-HANA 2014 象はすべてを忘れない

会期:2014/12/05~2015/12/23

象の鼻テラス、象の鼻パーク[神奈川県]

ままごとの柴幸男が演出・構成を担当し、インスタレーション、パフォーマンスを行う。カフェの空間においてラジオ・ブースから声を流しながら、ときには俳優と観衆が混じりあい、設置された象の像を使う「象はすべてを忘れない」の短い演劇を体験した。横浜における場所の記憶を引きだしつつ、サイトスペシフィックな演劇的な空間が出現している。

2014/12/23(火)(五十嵐太郎)