artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
スペイン国立ダンスカンパニー

会期:2014/12/05~2015/12/06
KATT 神奈川芸術劇場[神奈川県]
キリアンの「堕ちた天使」、フォーサイスの「ヘルマン・シュメルマン」を見たくて足を運んだのだが、さすがの身体能力でどの作品も演じており、感心させられた。そして最後の「マイナス16」が圧倒的に楽しい。幕間の余興?と思わせるゆるい雰囲気から始まり、緊張感ある反復運動のシーンを経て、フィナーレでは観客を舞台に上げ、会場が一体となった大盛り上がりだった。
2014/12/05(金)(五十嵐太郎)
砂連尾理(振付・構成)『とつとつダンスpart. 2──愛のレッスン』

会期:2014/11/28~2014/11/30
アサヒ・アートスクエア[東京都]
この上演は、京都府舞鶴市の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」で進められてきた「シリーズとつとつ」の延長線上で行なわれた。振付家・ダンサーの砂連尾理、看護師・臨床哲学者の西川勝、文化人類学研究者の豊平豪による活動(ワークショップや勉強会など)は、四年半に及んだという。さて、本作で注目すべきは、岡田邦子という電動車椅子のダンサーが砂連尾理とデュオを踊るというその趣向。いま岡田のことを「ダンサー」と書いたが、今回砂連尾に誘われたから舞台にいるだけで、もともと岡田はダンサーではない(ゆえに私も岡田に「さん」をつけないで文を進めることに、若干の躊躇を感じつつ書いている)。この上演を意義深くまた悩ましいものにしているのが、この微妙な関係である。コンテンポラリー・ダンスの上演の舞台に踊り手として一人の素人を、しかも障害をもっていることを理由に老女を招くこと。これが、老女を無条件に讃えるつもりで呼ぶのであれば、観客は安心する。そうした態度のひとつの極端はテレビ番組『24時間テレビ 愛は地球を救う』のなかでしばしばかいま見られる類いの「ドラマ」かもしれない。そこでは障害者は尊重されているようで、しばしば「可哀想」で「人柄が良く」「努力している」など〈ステレオタイプの障害者像〉を体現する人形として招かれる。砂連尾の岡田への態度は、そうしたステレオタイプとは縁遠い。とはいえ、リアルな「岡田邦子」を引き出そうというのでもない。砂連尾はあるイメージを取り上げ、そのイメージに岡田を置く。そのイメージが喚起するテーマは「愛」。ほぼ冒頭のあたりで映された映像には驚かされた。舞鶴なのかどこかの街を俯瞰した光景。そこに砂連尾と車椅子の岡田が浮かぶ。ファンタジックなイメージには、さらに二人の手と手が雲間から伸び結びあうクロースアップまで付け加えられる。この甘いファンタジックな光景は、正直、観客の度肝を抜いたに違いない。さらに、愛がテーマの音楽とともに、二人が踊るなんて場面や、終幕近くには「十牛図」をモチーフにして、二人が牛になって踊る、しかも背景に爆音のノイズが鳴っているという場面もあり、さらに観客は不安にさせられた。岡田が若い健常者でさらに訓練されたダンサーであれば、観客はどんな不安も生じまい。そうか、と思う。岡田の脆弱さは、舞台というものがそもそももっている暴力性をあらわにしてしまったわけだ。砂連尾の導きにぼくらが不安にさせられるのは、岡田と共存しているのが、ファンタジックなイメージであり、爆音の音響であるということ、すなわち、舞台空間にうごめく暴力的性格であることゆえなのだった。ところで、砂連尾は知的な作家だが、だからといって舞台の暴力性を露出させて「反舞台」あるいは「反上演」なるものを訴えたいわけではないはずだ。ぼくが推測するに、むしろこの暴力性を踏まえまた抱えた状態で、砂連尾は岡田とダンスを踊る可能性を求めていたのではないか。電動車椅子でカーヴを描く岡田に、砂連尾が手回しの車椅子で追従する場面があった。それはじつに美しいデュオの瞬間だった。でも、二人の身体性の違いが目につき「岡田は結局、踊っているというよりも踊らされているのでは」との疑念も浮かんでくる。その最中、小さなリモコン操作の車椅子が二人に割り込んできた。救いの神だった。救いの神は、二人の実像をキャンセルし、二人を再びイメージのなかへと誘った。砂連尾の試みは、こうして「異なる」二人の関係を「リアル」を基に引き裂くのではなく、「異なり」をときにキャンセルすることで二人のあいだに物語を成立させることだった。ぼくはそう受け取った。それは現実を見ない身振りではないだろう。でも現実を見ること以上に大切なものがあるのではないか、たとえばそれは二人のあいだに物語を置くことではないか、そう砂連尾は舞台を通して語っている気がした。そうであるならば、砂連尾の挑戦にぼくはほとんど賛成だ。ただそのうえで、どんな物語を語るのかの選択権が岡田にもあってもよかったのかもしれない(今回どこまで創作に岡田が関わったのかの詳細を筆者は知らないのだけれど)。その選択で砂連尾が岡田の論理に巻き込まれるという力関係が露呈するなんてことになったら、舞台という暴力装置にひとつの風穴が空く気がするから。
とつとつダンス part2-愛のレッスン/巡回公演予告
2014/11/30(日)(木村覚)
プレビュー:core of bells『ここより永遠に』(『怪物さんと退屈くんの12ヶ月』第12回公演)

会期:2014/12/08
スーパーデラックス[東京都]
私がディレクターを務めるBONUS(「ダンスを作るためのプラットフォーム」)のイベント「BONUS 超連結クリエイション」が12月10日(水)に迫っていますが、来年度のBONUS企画のクリエイションに参加してくれる予定になっているcore of bellsをここで紹介します。彼らはこの1年、月例企画として『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』という公演を続けてきました。1回でもご覧になった方はわかると思うのですが、毎回恐ろしいほどの熱量で彼らは取り組んでいます。毎回趣向がまったく異なるところに本当に驚かされます。基本的にはハード・コア・パンク・バンドなのですが、そこに演劇や映像、文学、ダンスと多様な要素がふんだんに盛り込まれており、しかもそれらをプレンドして出て来るものが、きわめて奇っ怪で謎だらけで脱力させられる趣向ばかり。この12カ月12回の公演は、彼らの記念碑的な活動となることでしょう。その最終回『ここより永遠に』が12月8日に上演されます。ネット上には彼らの発言として「あらゆる最終回と取っ組み合いを繰り広げます」とあります。この言葉をたよりに、無数の妄想を重ねながら、ぼくはスーパーデラックスへ向かいたいと思います。
2014/11/30(日)(木村覚)
川村美紀子『インナーマミー』(「トヨタ コレオグラフィーアワード2014 ネクステージ(最終審査会)」)

会期:2014/08/03
世田谷パブリックシアター[東京都]
2014年度の「次代を担う振付家賞」は川村美紀子が獲得した。ダンサーの動きの要素、空間構成、音響や舞台衣装などどの点においても凡庸な作品だった。にもかかわらず、どうして受賞したのか? 思いめぐらすうちに、ひとつの仮説が脳裏をかすめた。以下はその仮説に基づく推理である(受賞からすでに数カ月が経過しているがまとめておきたい)。推理とは、この作品が狡猾な「賞レースにかこつけたゲームの実演」だったのではないかというものである。「賞レース」とは抽象的な「賞一般」ではない、当の「トヨタ コレオグラフィーアワード2014」(以下「トヨタ」)である。川村は「賞レース」に出場しつつ、本来のレースとは別のゲームを設定した。そして実際にそのゲームを上演/実演したうえで、まんまとゲームに勝利した。さて、それはどういうことだろうか? 川村は会場で配られたコンセプト・ノートの欄にこう書いている。「【インナーマミー】 // これは、心の中にひそむ母親を撃退するゲームです // 自分の欲望を放棄する…1ポイント 全体の一部として機能する…1ポイント 他者の関心を惹き付ける…3ポイント 要求に応える身体を持ち合わせる…5ポイント 受身的な存在であり続ける…2ポイント/30秒毎 優しさと従順さを披露する…3ポイント 抱いた幻想を具現化する…4ポイント」このテキストはなにを示唆しているのか? たんなる「不思議ちゃん」的な振る舞いのひとつ? いや、そうではない。これはこの上演に際して川村が設けたゲームの内実を示すものではないのか。もっと積極的にいうならば、これは彼女が自身に課した指示であり、ゆえにこれこそ本作のコレオグラフィそのものであるはずだ。そうであるならば本作が「凡庸な作品」であったのは当然である。彼女はこのゲームに忠実に作品を制作し、自分とダンサーたちに振り付けを与え、上演を遂行した。では、なぜ彼女は、そんな凡庸なゲーム(=コレオグラフィ)を思いついたのだろうか? ヒントになるのはタイトル。「内なる母」。これは誰だ? おそらく「母」とは川村にとって、自分にそうした指令(「自分の欲望を放棄せよ」など)を課してくる存在だ。この「母」に忠実になるゲームを遂行することで、川村がいうとおりならば「母親を撃退する」のである。これはいささか奇妙なルールだ。このゲームでは、娘の忠実さが「母」を撃退する結果を招く。なぜそんなことが起きるのか? 「母」の理想が娘によって具現化されることで、母の抱いていた理想は凡庸で愚かしいということが露わになるからだ。さて、この「母」とは誰か? もし川村が賞を逃したならば、この「母」とは純粋に彼女の内に潜む母となり、本作は川村の娘性が作品化されたものと解釈すればそれでよいことになる(いや、筆者の仮説を例外的解釈とすれば、大方の理解はそうしたものだろう、だが、しかし、そうであるならば、なんであんな凡庸な作品を川村はあえて「トヨタ」に提出したのか)。川村が賞を受賞したことで、この仮説に従えば、「母」は「トヨタ」になった(「トヨタ」は川村の母になることを選んでしまった)。そして「トヨタ」は、川村に賞を与えることで、川村によって撃退されてしまった。川村はゲームを完全犯罪的に遂行し、そして勝利した。しかし、この二重の勝利は自爆的ではないか。その余波はどれほどのものとなろう。ただし、上記のすべては、あくまでも仮説に基づいたひとつの推理である。
2014/11/30(日)(木村覚)
安達哲治『バレエコンクール──審査員は何を視るか?』

発行所:健康ジャーナル
発行日:2014年8月8日
日本には100あまりのバレエコンクールがあるらしい。さらに、海外留学を提供しているコンクールも七つ以上はあるのだという。日本は世界有数のバレエ人気国だ。本書は、そうした日本にあって、コンクールのなかでバレエの審査はどう行なわれているのかを明らかにした、とても画期的な著作である。作者の安達哲治は日本バレエ協会の理事で、全日本バレエコンクール組織委員を務めている──つまり審査を長らく務めてきたインサイダーによって審査の内実が語られているものなのである。故に研究書ではなく、きわめて実践的な観点から本書は編まれている。ところで筆者(木村)は、コンテンポラリー・ダンスの批評を10年以上行なってきた。そのなかで、コンテンポラリー・ダンスではダンスの価値が過去と現在においてどのように定められてきたのかにずっと興味をもってきた。筆者自身の評価の基準はいくつかあげられるけれども、個人というよりは社会がどのようにジャッジしてきたのか、その審査のもとにはどんな考え方が横たわっているのかが知りたくて、BONUSというサイトで「トヨタコレオグラフィーアワード2014」の審査委員に依頼し、選評を執筆してもらうプロジェクトを先日行なったばかりだ。コンテンポラリー・ダンスは、古典的なダンスをベースにしていながら、それとは別の道を進んでいくところに固有性がある、それゆえにその価値は多様だ。それに比べれば、安達哲治が指し示すバレエの審査基準は、じつにさっばりと簡潔なところがある。ひとつの強いメッセージは、基本をきちんと習得せよ。個人的に解釈することで、基本を歪めてはならない。なるほど、以前、赴任している大学の教え子から、日本のバレエ教育は、実践ばかりで理論や歴史を学ぶ機会はとても乏しいと聞いたことがある。YouTubeなどが隆盛を誇っている時代にあって、うわべを真似ることは容易くなった反面、一つひとつの動きが秘めている本質は見過ごされがちだということも起きているのだろう。「教養」を学べと強調するところに安達の筆致からは、いらだちも感じられる。バレエ人気の背後に隠れた大きな課題が露わになっている。
2014/11/28(金)(木村覚)


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