2021年04月15日号
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artscapeレビュー

岩渕貞太×八木良太『タイムトラベル』(八木良太展「サイエンス/フィクション」×アート・コンプレックス2014)

2015年01月15日号

会期:2014/12/23

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

岩渕貞太の身体は整っている──。運動を始める前の手首足首を回すみたいな仕草を、最近の岩渕は上演の最初によく行なう。ぼくはその時間が一番くらい好きだ。いや、一旦それが終われば、「岩渕の踊り」としか言いようのない独特の動きと静止に引きつけられてしまうのだけれど、動きが速くなって見る者の目が冷静さを欠き、ただ彼の動きの妙に心奪われてしまうその前の、どんな成分が含まれているかをその微妙な含有物までじっくり玩味できるこの「準備の時間」こそ、岩渕のスペックがじっくりと楽しめるから。八木良太が白い壁に10個ほどの時計を掛けていく。どれも違う時を示す時計。それとメトロノームをセットして八木が一旦退くと、この「準備の時間」になった。ダンスなのか準備体操なのかがあいまいな、緩んだなかにしっかりと美的な質を含んでいる動き。それは、音楽に喩えるならばホーミーのようで、身体に潜む多重性がそのまま身体に透けている。それはただ一瞬で終わる。そして岩渕が踊り始める。その踊りはわかりやすくはない。既視感に乏しい。それでいて、しかし、腑に落ちる。身体が「整っている」とは、その事態を指す。伝えたい形や躍動が整っているとともに、それを純粋に届けるための条件もまた整っている。すごい達成度だ。だからこそなのだろう、見ながら、この動きが仮に何かのための「器」だとしたら、すなわちこの美が「用の美」だとしたら、何に用いられるのが相応しいのか、そんなことを考えていた。本作は、八木の展覧会の企画上演である。ゆえに美術(アート)に用いられたさまがここに示されているわけだ。だとして、さて、この美はその「用」において最良の姿なのか……そんなことが頭をめぐる。さて、間に休憩が入って後半が始まると、半透明のスクリーンにさきほどのと同じ踊りを踊る岩渕が現われた。その後ろには岩渕本人もいる。〈映像の岩渕〉と〈生身の岩渕〉が並んだ。すると不思議なことに、〈映像の岩渕〉のほうに強度があると思わされた。前半、あれほど目を釘付けにさせられた生身の岩渕は、いまではあいまいなフォルムを生成する頼りない機械であり、対して〈映像の岩渕〉は堂々と揺るぎない。〈映像の岩渕〉は強い。そしてその強さは再生可能性にあると思わされた。(原理上)何度でも同じ動きを繰り返せる〈映像の岩渕〉は、精妙な動きをわけなく何度でも反復できる。これは察するに、レコードやヴィデオなど再生装置を美術の問題圏に持ち込む八木とのコラボレーションゆえの成果と推測する。確かに〈映像の岩渕〉は、自由に時間を操作され、ノイズを施され、複数化させられた。そんな強度を〈生身の岩渕〉は求めようともけっして得られない。〈生身の岩渕〉はだから生身の良さがあるとみるべきなのか、それとも、この強度こそ真に求めるべき何かなのか。この問いにここで結論が出たわけではない。ところでこの問いは、手塚夏子がプライベートトレースの上演群を試みたときに、すでに始まっていたものだろう。ぼくがBONUSのディレクターだからなどというせこい話ではなくて、映像とダンスの出会いこそここ数年のダンス分野における最大のイシューであるに違いない。本上演は、岩渕によるそのイシューに向けた第一歩なのかもしれない。

2014/12/23(火)(木村覚)

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